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372.人はね、どんな状況でも、どんなに苦しくとも、動けずとも、たとえ自由を奪われていても「想像する自由」って、誰にも奪うことができないんだよ!

(25)人生を奇跡を呼ぶ方法

1.想像力の使い方


coucouさんは、小学校3年生から5年生まで病院生活を過ごした。

丁度、9歳から11歳の前半までかな?

学校のトイレで便器がピンク色となり、しばらくしたら真っ赤になった。
同時に身体が浮腫み始め、吐き気を繰り返したため病院で検査したところ腎臓病だと診断されすぐさま入院生活となった。
 
昭和37年(1962年) 当時、この病院は木造2階建てで一部屋には18名ぐらいの相部屋で仕切りもなく全体が丸見え状態の為、プライバシーどころではない。

また、子ども病棟などはなく、男性も女性も年寄りも若者も、同じ病室で生活をする。

一番困ったのは排尿だった。ベッドの下には尿瓶や排便のための入れ物が置いてあったけれど、部屋全体が丸見えの為かくれながら用を足す。また、音や匂いがするために随分と恥ずかしい思いをした。(カーテンもない…)
 
coucouさんは、絶対安静だといわれ、わずか約1メートル1800センチの長さと幅900センチのベッドがcoucouさんの自由に動ける世界だった。(それでも大きく感じた)
 
ただ、上を向いている生活が長いため床ずれが起きたり、食べ物の制限があるために栄養失調となり、院内感染にかかりやすくなるほどの抵抗力を失い、風邪を引いたり、熱が出たりといつも注射と薬漬けとなった。

数カ月すると、身体全身はミイラのように痩せこけ、目玉だけがぎょろりと動き、ビアフラの子どもたちのようにお腹だけが膨らんだ。
 
やがて、手足(爪の中)からは膿が出るようになり、両手、両足の爪をすべて剥がされ、その膿を取りだす。子どもながら麻酔を打てば痛くないといわれ安心していたが、麻酔を打つたびに、注射針の痛さには悲鳴を上げるくらいの拷問に近いものだった。

また、手術後の両指、両指にへばりついた血の付いたカーゼを外すたびに泣き叫んでいた。そのカーゼを剥がすたびに瘡蓋から血が出て痛むからだ。それは傷口が塞がるまで数か月続いた。
(血で固まった、ガーゼを付着した皮膚から剝ぎ取るためにお湯に指をつけ、ふやかして強引にはぐという拷問)
 
病名は栄養失調による「ひょうそ」という病気で、簡単にいえば腐ってきた。傷口が塞がると両手両足の爪がないので布団でこすれるだけでも痛みが走りる。
もちろん、スリッパや靴下など履けない。

食べることができないため、美味しい日々点滴暮らし。
便秘が続けば便秘薬、お腹や胃の痛みには胃腸薬、痛みどめ、利尿剤に頭痛薬、そして腎臓病のための薬と薬漬けの日々を送る。
 
信じられないけれど、夏は冷房がないんだ。
冬はもちろん暖房はなく部屋全体を大きなストーブ(スチーム?)で温める。

でも、木造建ての古い病院だから隙間風がよく入り、風通しは良い。

一番嫌なことは、人の死。

次々と隣のベッドの患者さんが亡くなるんだ…。

子どもでも生きているのか?死んだのかが分かる。
退院する人はほとんど挨拶をして出ていくのだもの。
 
お別れの言葉、泣きながら話しかける人、眠ったまま生きているのか、死んでいるのかわからないままベッドに横たわる人。
(今でこそ、これも信じられない、安置室に連れて行く前は一旦病室にご遺体があった…)

ここは、このままこの世を去る場所なの?

こうして人は死んでいくの?
coucouさんはね、このアウシュビッツ収容所で、他人事のように眺めていた子ども時代だった。

coucouさんが一番怖かったのは夜なんだ。

大きないびき、大きな寝言、わけのわからない奇声、コップが落ちる音、外の風の音、夜勤の看護婦さんの足音、暗闇に移る人影、高い天井の染み、すべてが恐怖の塊となり、夜は布団を被りながら怯え、昼間はいつも検査以外は寝不足のため、すべて眠っていた。

そんな変わりのない日々と世界でどうしておかしくならなかったのかな?
(実際は精神がおかしくなっていたと思うけどね…)

春が来て、冬が来て、その繰り返し、病気は一向に治る気配がない。

学校の先生や友達も最初はお見舞いに来てくれたけれど、時間がたてば、やがて誰も来なくなった…。

いつのまにか、coucouさんは、誰からも忘れられた存在になっていた…。
 
良く考えて見ると父や母もあまり顔を出してはいない。
不思議に思っていたけど、大人になってからその理由がわかった。

それは膨大な治療費と入院費を捻出するために、父や母は昼も夜も働き続けていたからだった。
父は、昼はバスの運転手、夜は米軍基地の夜勤、休みはダンプの運転手として働きお金になる仕事中心の生活だった。母は、近くにある薬品会社でパートをし、家では内職の仕事をしていた。
おそらく家の数件分は入院費で消えて行ったかも。
 
今振り返れば、ドイツの強制収容所のアウシュビッツのようだった。
高校生になって、ユダヤのビクトール・フランクルの「夜と霧」という本を読んだとき、まるで自分と同じだと感じた記憶がある。

彼は愛する妻を想う、
「想像力」で過酷な収容所から無事に生還することができた。
 
coucouさんの場合は…。

©NPО japan copyright association Hiroaki

2.  想像する喜び

ビクトール・フランクルの収容所生活は過酷な強制労働だった。
ユダヤ人として迫害を受け続け過酷労働の日々を送った。

食べ物もろくに与えられず奴隷同然の日々。
収容所の部屋の中は、布団もなく大勢の人間が互いの身体かぶつかるほどの狭い部屋の中で眠る。
病気をすれば、薬や治療を受けられずそのまま死んでいく。

でも、それでも眠らなければ、次の日の労働が出来なくなる。
だけど、プライバシーも、人としての扱いも受けられず多くの命が失われていった。

だけど、フランクルは生き延びた。

その彼を救ったのは何か?
それが『想像力』だった。

彼は日々、この世を去った、愛する妻のことを思い出し、語り掛けた。
目を瞑ればそこにはいつも妻がいるような気がした。

彼は、その妻に語り続けた。

その姿を見る者には狂人に見えたかもしれないが、収容所の中では看守も囚人たちも、狂人にならざる得ない環境のため、そんなことは誰にもわからなかったかもしれない。

彼が人間として最後まで保っていられたのは、
そのことに尽きるのではないかと考えられる。

©NPО japan copyright association Hiroaki


coucouさんは、日々安静を強いられていた。
動いてはならないと。長さ1800センチ、幅900センチの世界か出られない。

ただし、床擦れが激しいため、ベット内で起き上ることは少しばかり、認められるようになった。テレビもラジオも置けない状態だったから、同じ部屋の同病人の姿や状況を眺めている以外毎日が退屈だった。

ある日、父が紙と鉛筆を運んできた。
その紙は電子計算機の裏紙だ。

米軍基地のゴミ箱には大量に捨ててあったものだという。
紙の大きさが大きすぎるため、B5サイズぐらいにハサミで切り、裏側を落書きに使えばいいという。(電子計算機なるものの裏紙)

coucouさんは、その日から退屈な毎日から脱出することができるようになったんだ。裏紙だから透けて見えるけれど、反対側は読めない英文だらけだから気にはならなかった。

だから、このnote記事のように、毎日、毎日落書きを続けた。

でも、それもやがて限界が出て来た。

それは、外の世界をあまり知らないため、頭の中だけでは書くものに限界がとなる。当然のこと。つまり、同じものばかりだと飽きて来るんだ。
 
やがて何も描かなくなって、紙は増えていくだけだったけれど、次に父は洋書を持って来た。
もちろん言葉なんてわからない。

でも、その本は、絵が入っていた。
主な内容はアメリカンコミックで「スーパーマン」「バットマン」などのヒーロー物や「ミッキーマウス」といった漫画が中心となり、私の想像力は開花していった。

これもすべて米軍が、基地のゴミ箱の中で捨てて行ったものだった。

でも、何か目標ができると、描くことが毎日が楽しくなる。

夜は電気が消されてしまうけれど、昼間は部屋が明るく、その絵を模写しながらその世界に入り込むことができる。

空を飛び、様々な国に出向き、弱き人を助け、正義を貫く主人公になれる。
毎日が想像の世界、空想と想像だらけの日々となった。
(今も、映画バットマン、スーパーマン、フラッシュ、などのヒロー物を見続けている)

 
身体は相変わらず苦しいのだけれど、coucouさんはね、それに夢中となって何もかも、時間すら忘れて没頭するようになった。
 
人間は、どんな状況でも、どんなに苦しくとも、動けずとも、たとえ自由を奪われていても「想像する自由」は誰にも奪うことができない。
 
この時のcoucouさんはね、当時は、とても不幸のかたまりだったけれど、信じられない事かもしれないが、毎日が幸せだったのだと、今振り返ると感じるようになったんだ。

©NPО japan copyright association Hiroaki
©NPО japan copyright association 

coucouさんです。
みなさん、ごきげんよう~

最近、coucouさんはね、note記事をはじめてから、
今までの過去を振り返るようになったんだ。
本当は、
自分の嫌な過去など一切振り返りたくない、
想い出したくもない。
振り返る必要なんてない、
と思い続けてきたんだけれど、父や母がこの世からいなくなってから、
その嫌な過去を振り返るようになった。

まさに自省(内省)の旅の始まりのような気がした。

すると、coucouさんのいつもの悪い癖が出てきたんだ。
それは「タラレバ」なんだ。

※coucouさんの作品№301.「素敵だよ!「タラレバ」の美学」。№302.「本当の幸せってね、「タラレバ」にあるのさ!」読んでみてね~

coucouさんは過去を振り返ると、すぐさま「タラレバ」の妄想に入る。
例えば、
もし、病気がなかったら。
もし、事業が成功したら、
もし、あの人と別れていなかったら…。
もし、あの時の勝負に勝っていたら、
あの時にこんなことができていたなら…など。
今更、過去なんて変えられるわけがないのだけれど、「タラレバ」で変えてしまうんだ。

でもね、考えれば考えるほど複雑な世界に陥るんだよね!

もし、あの勝負に勝っていたら…。
そう、まったく違う人生になっていたことは確かなことだよね。

もし、あの人と一緒になれていたら、
もし、あの人と別れてなかったら、
もし、あの人と出会いがなかったら、
確かに、人生は違うことがわかる。

とても、とても苦しく寂しかった子ども時代。

でも、今振り返ると、あの闘病生活がなかったら、あの素晴らしい、想像する、妄想する、創造、空想の世界を知らぬまま大人になっていた。

もしかすると、絵や文章、本などに一切興味を感じなかったかもしれない。

coucouさんの子どもの頃の夢はね、笑わないでね。
リングに立つことだったんだ。
そう、闘いの世界に身を投じることだったのさ。

スポーツは大好き、動き回ることも好き、何よりも身体を動かすことが大好きなcoucouさんだったんだ。
(真剣だったんだよ!)

そう、特に個人競技、1体1の戦い。グループやチームになじめない。
だから野球やサッカーなどの競技よりも勝敗が明確な格闘技の世界。
(元気になってから少しばかりその世界に近寄ったけどね)

そう、闘いが好きだった。

だからね、もし病気でなかったらその世界に真っ先に飛び込んでいたと思うんだ。(こんな「タラレバ」って楽しくない?)

また、今の父や母に出合っていなければ、
あの人と出会っていなければ、
まるで違う人生だということがわかるのだけれど、

coucouさんがたとえ苦しもうが、
辛かろうが、
どうしょうもない人生であろうが、
病気であろうが、
後悔だらけであろうが、
やっぱり、この人生で良かったんだと心から思うようになったんだ。

だって、大好きな父や母、弟たち、かけがえのない人たちを失いたくないもの。やっぱり、こんな人生でも素晴らしい奇跡が続いているのだものね。

するとね、今まで嫌だと思っていた、
過去のすべてが素晴らしく光り輝いて来るのさ。

そうなんだ、みんな、みんな、
素晴らしき、哉、人生!なんだと思うよ。

だから、あなたと会えて良かった。

出会うことがこんなに素晴らしいもの。

たとえ、別れていても、出会えた事実は消えないのだからね。

まさに、奇跡を呼んでいるような気がする。

そう、このnoteのみんなに奇跡をもらっているんだ。


みんな、ここまでおつきあい、
心から感謝しているよ~
ありがとう~
この厳しい暑さよ、ありがとう~

また、あした~



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