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映画log. 「リファッション~アップサイクル・ヤーンでよみがえる服たち~ reFashioned」

このままでは次の世代が廃棄物で埋もれてしまうー。

※本記事は映画を観た個人的な感想とそれにまつわる話です。あらすじ解説ではありません。上映中の映画館でぜひ。

映画の感想を書く前に、個人的な話をしましょう。
先日、インテリアデザイン関連の某国際見本市へ行った。年に一度開催される国内最大の展示会で、国内外の家具メーカー・ファシリティ関連事業者・マテリアルメーカーなどが一挙に参加する。

各メーカーの新作や主力商品をお目にかかれることはもちろん、新たな取り組みや、今後どのようなビジョンを掲げてプロダクトを作っていくのか、どのようなテクノロジーを取り入れ今後どのような展開を想定しているか・・等、市場の動きを知るには格好の場である。

出展されていた各社にほぼ相違のない共通感覚を挙げるとするなら、もう今やどのメーカーも、廃材を再利用した”再生素材”が使われている製品を発表していることは当たり前。
(再生素材とは、使用済みのペットボトルなどの廃材や、製造過程で廃棄物になるはずの植物性のファイバーといった、何らかの廃棄になる予定になるものに加工を施すことで全く別の素材として蘇り、新たな用途に使われる素材を指す。)

特に欧州のメーカーはもう何年も前から廃材を利用したマテリアルを使用していたり、先立って再生素材を使用する意識が高かった印象があった。
それが今や国内でも当然の認識になったようだ。

産業廃棄が追いつかない時代

さて、ここで本題の映画について。
ファッション産業において、良いものを長く大切に使う時代から、めくるめくトレンドの移り変わり、大量生産から大量消費、そして大量廃棄がスタンダードになった時代への責任が問われている。
香港の埋立地はもうこれ以上廃棄物を受け入れるのに限界がきている。隣の中国は廃棄物の輸入規制をかけたことによって、近隣の諸外国もそれに倣い輸入を規制する。
このままでは次の世代は廃棄物に埋もれてしまうー。

日本でも某アパレルチェーンのショップへ行くと、リサイクル回収ボックスが設けられているのを度々見かけるし、私自身も利用している。
その回収された古着の行く末を考えたことがあるだろうか。私は、回収を行っている企業が掲げているように、発展途上国に寄付されたり、先述したような再生素材や燃料としてリサイクルされているものだと思っていた。
しかし現実は、もはやそこへ回るキャパを超えており、ごみ溜めとなっている貧困な地域に古着が山積みに蓄積されていく現実を記事で読んで衝撃を受けたものだ。

映画の中でも語られるが、大量生産大量消費の時代が到来するまでは、ファッションを嗜むということは現代のように手軽なものではなかった。
少々高くてもお気に入りの一着を選び、壊れたら修理をしたり、大切に手入れをして長く大事に着る。そして大切にされたものは次の世代にも引き継がれる、という感覚が当たり前だったようだ。
以前友人が、おばあちゃんが大切にしていた金のネックレスを引き継いで身につけていた。その素敵なエピソードも相まって、よりそのものの輝きが増して見えたのを覚えている。

しかし、やがて大量生産・大量消費の時代がやってくる。私はこの時代の渦中にいた消費者の一人だ。
ファストファッションが日本へ上陸してからそれが受け入れられ、スタンダードとなり、流行となった当時の私は大学生になったばかりの頃だった。
稼ぎのない学生にとって、また多感なお年頃の当時の私にとって、手頃な価格でトレンドを取り入れられる手軽さは有難いものだった。
だが、そういった感覚が染み付いてしまうと、痛く大きなトラウマを背負うことになる。その手頃な価格でしか、ものが買えなくなるのだ。そして恐ろしいことに、流行り廃りのある手軽なものは、時に買ったことすら忘れてしまう。そして可哀想な衣服の行き着く先は、廃棄場。大量廃棄の時代に突入してしまった。
それはものにとっても自分にとっても、決してハッピーではない。地球にとっては一大事だ。

新たな天然資源を使わずに、古着だけで作られる”新しい服”

この映画で廃棄問題を解決しながら、持続可能な社会づくりに取り組んでいる起業家のうち主軸となるのは、「香港繊維研究所」のエドウィン・ケー氏のストーリーだ。H&M基金、NOVETEX社と共にテクノロジーによる持続可能な新しいシステムづくりへの挑戦である。
人口密集都市であり、消費廃棄のサイクルが著しく加速している香港に新しく設立されたのは、新たな天然資源を使わずに、古着を色やテクスチャごとに細かく分類し、繊維の元レベルまで分解し糸にする。「衣類から衣類」へ再生する全く新しい"繊維工場"であり、エドウィン・ケー氏の言葉を借りるなら"実験場"だ。

私が知る限り、”廃材からできた素材”というと、ちょっと野暮ったい風合いで、まぁそれもそれで味なのだが、どうしても”廃材からできた素材”というカテゴリになってしまう。先日の見本市でお目にかかった再生素材も、大体がそのようなマテリアルだった。
しかしこの実験場から生まれる古着からできる糸および衣類は、もちろん色によっては配合が難しく再現が難しいものがあったりするものの、まるで新品さながらのクオリティのように感じた。
エドウィン・ケー氏の語るように、廃棄物を原料として新たに作る従来のような”リサイクル素材”を新たなエネルギーとコストをかけてもさほどの需要はない。”廃材からできた素材”は”廃材からできた素材”でしかないのだ。
しかし、廃棄される衣類を資源として糸からまた新たな衣類を作れることができたなら、それは夢のようなシステムの誕生だ。
テックオタクと自称される開発チームの方々には頭が上がらない。

自己分析の徹底こそエシカルへの道

とはいえ、テック企業の努力と取り組みによって持続可能な再生の仕組みがやがてスタンダードになったからといって持続可能な社会が実現することはないと思う。
ここからは持続可能な社会にしていくためには何をするべきか?個人的な意見を申し上げよう。
持続可能な社会の実現のために必要なのは、マーケットに踊らされない、個人の意思決定力だと思っている。

多感な時期にファストファッションが当たり前の感覚として染み付いた自分を含め同世代は、その当時きっと未来を見据えることが難しかったのかもしれない。平成生まれは生まれてこのかた、景気の良い時なんてことを知らない。

服に限らず、一歩街へ繰り出せば、購買意欲を掻き立てる仕掛けで溢れているし、外に出なくてもネットにつながれば罠で溢れているのだ。現代社会は常に、浪費欲を誘発するトラップで溢れている。

だからこそ、”そういう社会をサバイブしているのだ” と心に留めておくだけでも効果はてきめんだ。
そして、第三者ではなく”主観”で選択することを意識することが大切だと思う。
流行は時に、”自分軸を揺るがせる危険なもの”になりうる。

自己分析をして”己を知る”ことが私たち世代には必要だ。
誰の軸でもない、自分の軸。流行っていたり、他の人が”良い”とジャッジするものが、必ずしも自分が”良い”と思うものとは限らない。


今はものを買うときに、自分に次の3つの問いかけをするようにしている。

質問1:「10年後の自分も、今と同じようにときめくだろうか?」

選んだものがファストファッションであろうとそうでなかろうと、この軸を基準にすれば長く大切に使うはずだ。
私は過去に買ったファストファッション製品であろうと、自分のお気に入りは壊れたら直して、長く使うようにしている。
購入価格よりもむしろ、お直し代の方が高くつく(笑)とはいえ、ときめきに安いも高いも無いものだと思う。大量に生産されてしまったもの自体に責任は無いのだから。

質問2:「このプロダクトが生産されるまでの過程において、誰かを加害していないか?」

ステイクホルダーの労働環境が透明化されており、人権が守られているかという基準も私にとっては重要事項だ。なぜなら自分自身、会社員時代に倒れるまで働かされていた経験があり、労働搾取の被害者だからだ。デザイナーが一生懸命デザインした渾身のデザインを平然とパクったり、(ファッションの盗用とそうで無いものとの境界については複雑な話で難題ではあるのだが)また劣悪な労働環境下で誰かが身を削って犠牲になってまで作り上げたものにお金を出したいとは思わない。

質問3:「環境になるべく負荷のない、配慮した選択であるか?」

環境に配慮して作られた製品であることを示す基準も様々で、生産過程を明確にしている企業にしてもその密度の差こそあるものの、それでも昔に比べれば増えてきたように感じている。
生産過程における資源の使用量など、その内容が具体的で明確なほど信頼することができ、そのブランドを身に纏った時、自己肯定感も上がる。
それでも、新品のものを買う以前に自分が取る行動は、まずは中古品で探すことだ。そして質が良く、長く使えるかどうか。新しいものを買うよりもまずこの2点が質問3に対する答えだと言えるだろう。
映画の中でも、古着の子供服をまるで新品を買った時と変わらないような満足度を消費者に与える仕組みを作るため試行錯誤する企業のストーリーが出てくる。私としては、そもそも”我が子には新しいものを”という価値観が香港には根強く存在することに驚いた。日本はどうなのでしょうか。幸いにも、(?)すでに大量消費時代が始まっていた私のような平成生まれは古着に対する抵抗感のない世代なのだ。

企業のために”買わない”選択をすること
ネット時代の良いところは、常に世界中の民衆の目が晒されている状況にあるので、企業にとっては変なマネができない。そして企業に不祥事があった時には、残念な気持ちにはなるがその企業の製品を買わない選択をするようにしている。
そうすることで、企業も改善するように努力するようになる。買い物は投票。より良い社会への舵を取るのは民衆なのだ。

自分のことをきちんとわかっていれば、結果的に倫理的な選択に繋がると思っている。自己分析を制する者こそ、エシカルなライフスタイルを実現でき、自分にも人にも地球にも優しくなれる。

そして、どうしても自分には合わなかったもの、役目を終えたもの
書くまでもないと思っていたが、今ではフリマアプリやオークションサイトなど、セカンドハンドのマッチングサービスが豊富だ。私はこのようなサービスが誕生した当時から売るのも買うのも、ヘビーユーザーだ。
本当にいい時代だと思う。
自分とはうまが合わなかったけど、他の誰かにとってはお気に入りになりうると思うと、ものにとっても誰かにとっても幸せな選択であるはず。捨てるよりは絶対に良い選択なので、面倒くさがらずに試してみてほしい。

世の中を作るのは”個人の意志と行動”

エドウィン・ケー氏のような、テクノロジーの力で壮大なビジネスを生むことは難しいかもしれないが、これからこの世界で生きていく次の世代のために、今すぐ行動できることってなんだろう?
これは30歳を過ぎたあたりから、少し俯瞰で物事を見渡せるようになった自分への尽きない問いかけ。
過去の自分の選択の後悔については数え切れないし、やり切れない。

しかし過去は取り戻せないが、未来を見据えることはできる。今この瞬間が”人生で自分が一番若い日”だ。

そもそもこの映画に関心を持った時点で、すでにあなたは未来を見据え、行動したいと感じているはずなのだ。
この映画を体験したあとは、個人の消費行動をいま一度、見直す機会となるだろう。

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