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【短編】『飽くなきロマンス』(前編)

飽くなきロマンス(前編)


 私は普段伝奇小説を書くので生計を立てているのだが、最近はそのネタ探しに明け暮れる毎日で筆を握ることが滅多になくなってしまった。幸い友人関係には恵まれており暇を持て余すことはないのだが、かつての闇雲に机に向かっていた頃の自分が恋しくなる時もあった。もちろん独りきりの時間は設けてはいたものの、今まで愛用していたファウンテンペンの代わりに少々縁に汚れのついた半透明のロックグラスが私の一日のお供になっていた。

 友人の一人にアンデスという名の男がいた。彼の周りにいた者たちがアンデスと呼んでいたため私もそう呼ぶことにしたのだが、本名でないことは百も承知だった。しかしその名前の由来も彼の本当の名もいまだに聞いたことはない。おおよそアンデス文明に関係があるのだろうと読んでいるのだが、なぜか毎度会う度に酔っ払ってそのことを聞きそびれてしまうのだ。彼はどことなくショッピングモールの入り口で警備をしているような退屈な見た目の人物で、しかし中身はもっと高層マンションの窓を専用モップで一つ一つ丁寧に拭く清掃員といったような興味深い人間だった。彼は外国を旅して骨董品を集めるアンティーク・コレクターでもありながら、その旅先での伝説や伝承を聞いて記録するストーリーコレクターでもあった。いわゆる都市伝説や怪奇事件など摩訶不思議なことに興味を示す変わった男なのだ。私と馬が合うのは無論のことである。

 ある時、アンデスは旅先から帰ってくるといつもと違った様子でしばらく椅子に腰掛け、私と談話することを躊躇していた。何か不幸なことでもあったのかと心配したが、まだ一瓶も酒を開けないない時分のことでどうしても真相を尋ねる気にはなれなかった。その日の彼はまるで別人のようだった。ふと彼が口を開くと、いつも通り摩訶不思議なことを淡々と話し始めた。彼は旅先である女性に出会ったというのだ。彼はその女性を手懐けるのに非常に苦労をしたらしく、彼の言葉からは彼女に対する愛情の傍ら嫌悪の念さえも混じっているように感じられた。旅先での彼女との交流を長々と話している最中のことであった。アンデスはなんの前触れもなく突然シクシクと笑い始めたのだ。生憎私はすでに何本もの空瓶に囲まれていたことで、小説家としての意見を言えるほどに彼の精神状態を分析することはできなくなっていた。単に彼女との悲惨な時間を思い出したことで自分を憐れんでいるのだろうと僅かな理性を振り絞って考えた。しかし、その笑いは哀れみからくるものではなかった。彼は純粋に笑っていたのだ。その証に、自分がいかに幸せ者かをひけらかすかのように徐々に彼の苦労話は彼女との惚気話へと変わっていった。彼の言った言葉に私はとても興味を抱いた。

「私が人生に引け目を抱いていたとき、彼女は現れた」

そして彼は最後にこう締め括った。

「彼女は私にすべてを与えてくれた」

私は不思議で仕方がなかった。はじめは彼が辛そうに話を切り出したかと思えば、今ではそれを幸運だったとほざいているのだ。ひと段落してから私はもう一瓶酒を開けようと思ったが、長話にくたびれた彼の姿を見て途中で手をとめた。肘掛けに両手をだらりと垂らし、顎を引いた状態でただ部屋の片隅にある一点を見つめていた。彼のその姿は、まるで悪魔にでも取り憑かれているようだった。暇を持て余した私はふと、彼の名前がなぜアンデスであるのか疑問に思っていたことを思い出した。そっと彼の横に移動して肩を組みその訳を聞いた。すると彼は同じ一点を見つめながら生気の抜けた声で言った。

「アンデス、それは私の名か?」

「ああ」

「アンデス、私はアンデス」

「ああ、君はアンデス。でもなぜアンデス?」

「忘れてしまった。何もかも」

と言ってから彼は口に続いて目も閉じてしまった。私も彼の言葉を片耳にそのまま眠りについた。

 私は小説家のつながりは少ない方なのだが、唯一一人親睦の深い作家がいた。しかし親睦が深いと言ってももう何年もその作家とは顔を合わせてはいなかった。彼の名ダニエル・マディソンと言い、私と違ってモダンで洒落たストーリーを書く技を持っていた。所謂ロマンス作家である。ある日、私は三年ぶりに彼からの手紙を受け取った。「今度の日曜、私の別荘で友人を集めてパーティーをするんだが君も来ないか」とのことだった。私はすでに作家とは言えない身分となってしまっており、また彼はもはや私には到底届かない文芸界での確固たる地位を築いていただけに、彼に会うことで少々気まずい思いをするのではと断ることを考えた。しかし、もし仮にここで参加しなければ自分の作家としての人格を完全に失ってしまうかもしれないという不安に襲われた私は、妙な焦燥感を覚えながらパーティーに行く旨を手紙に綴った。それに何よりもダニエルは私にとっての唯一の小説仲間であった。

 その日は久々に友人に会うせいかなぜか気持ちが落ち着かなかった。彼の書き留めた住所へと向かう中、後部座席の車窓の丸い枠から流れ去る並木の景色を眺めながら私はダニエルのことを思い出していた。彼に会ったのはもう三年も前のことで、文学賞の選考委員として出席した時のことであった。彼は臙脂の入った背広に紫のネクタイをしており、まさに自分のロマンス作家としての地位を築こうとしている最中のようだった。私はいつものように後ろから彼に声をかけるとダニエルはこちらに振り向き、私に気づいてハグを求めた。

「やあ、また会えたね」

「ああ、久しぶり、でないな」

「今日もつまらない一日を共に乗り越えようじゃないか」

「そうだな。君の言う通りだ」

「いけない。まだ我々は会場内にいるんだった。失礼」

「ああ、ここでは言動に気をつけた方がいい。君の作家人生に影響しかねないからね」

と、私はようやく作家として認められつつあった彼に対して軽い冗談を言った。そんな彼は今や誰もが知る売れっ子作家になり私をパーティーに誘うまでに物書きとしての階段を上り詰めていた。

 別荘のゲートを抜けると、彼の獲得した名声を物語るかのように目の前には大きな庭付きのロータリーが広がっていた。中央には噴水があり西洋風の女神を象徴する石像の上部から水が吹き出しては、まるで時間が止まってしまったかのような錯覚に陥るほどに止め処なく真下の瓶に落下し続けていた。ゆっくりと車窓から見える景色が静止するとドアマンが扉を開けた。私は彼から酒を大量に積んだブラックのキャリーケースを受け取るとチップを渡さずに玄関へと向かった。すでにパーティーは始まっているようだった。ボーイにキャリーケースとその鍵を丸ごと預けると、すぐさま別のボーイが奥のメインホールへと案内してくれた。ホールへと続く廊下を歩きながら、それが初めて歩く廊下にも関わらず、その異常な長さに一瞬自分の体が驚くほど衰えてしまったかのような錯覚に襲われた。ボーイが扉を開くと、私の視界いっぱいに豪華な宴会場の情景が映った。男は ブラックかブルーの質素な背広を着ており、女は長くて光沢のあるドレスを身に纏っていた。床は一面クリムゾンに覆われており、以前ダニエルが文学賞の授賞式で着ていた背広を思い出した。談話をする群衆の中にダニエルの後ろ姿が映った。私は彼に声をかけようと目の前の人混みをかき分けて少しずつ部屋の中央へと進んだ。いつものように後ろから挨拶しようとした時のことだった。一瞬私は心臓を鷲掴みにされるような感覚に襲われたのだ。いや、心臓を突き刺されたと言った方が正しいだろうか。ダニエルの肩を叩く直前、彼のすぐ脇に佇むとある女性と一瞬目が合ったのだ。彼女は周りにいる煌びやかなドレスたちを真っ向から否定するかの如く、光をいくらも映さない墨色のドレスを身に纏っていた。その洗練された体付きはまさにロータリーにいた女神の石像そのものだった。私は彼女の目を見て即座に、何十年もの長い年月の間に自分が失ってきたあらゆる感情の全てを一瞬にして思い出したような気がした。


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