【3】 母、今度は食道がんに。私は睡眠薬と抗不安剤のお世話になりはじめました
母の二度目の乳がんは、幸い全摘出手術で取り除くことで終わり、私もようやく人心地ついた気持ちで、再び平穏な日常生活を送りはじめていました。
ところが、半年も経たぬうちに、今度は母の「食道がん」が発覚します。
酒もたばこもしない母。
食生活だって、ほぼ百パーセント自炊で、至って健康的です。
そんな母が「熱いお茶が飲みづらくなった。沁みる感じがする」とぼやくようになりました。
「一回病院行ってみるわ」
母は、何もないことを確認するために検査に行くと、後日、母からの「ダメだった」という電話。目の前が暗くなりました。
この時には、まだ食道がんとも分からずに、喉なのか、食道なのか、胃なのか、とにかく消化器のあたりにガンがあるようだとのこと。
想定外の変化球に、私の緊張が一気に高まりました。
消化器なら、乳がんの転移ではない。
でも、そもそも半年前の乳がんの際に、PET検査やCT検査など、全身を隈なく検査しているのに、どうしてそのときに発見されていないの? 見落とされていたってこと?
さまざまな感情がない交ぜになって、再び深い不安の渦に巻き込まれてゆきました。
その後、「食道がん」だということが確定。すべてのデータを引き取る手配をし、母を転院させることに決めました。
新たな病院は、都内の大学病院。
友人がかつて看護師として勤めたこともあり、母の事情を話したら勧めてくれたのでした。埼玉から通う母にとっては通院が少し遠くなりますが、私の暮らす地域からは近く、付き添うには便利な場所です。
転院を決めた病院で、初診の日がやってきました。初診の日は、たまたま母の誕生日。75歳になりました。後期高齢者の仲間入りです。
採血やCT、内視鏡など、朝からさまざまな検査を終え、夕方になっていました。
次回の、二週間後の診察日までは、とりあえずゆっくりできそうです。
「やれやれ」とふたり、「誕生日だし、何か食べて帰ろうか……」などと話しながらロビーのソファで会計を待っていたところ、ひとりの医師がこちらに近づいてきたのです。
「今日このまま、入院してください」
いきなりそう告げられ、心臓が飛び跳ねました。
訳が分からず、けれども医師からそう言われたら、入院するほかありません。男性医師に連れられ、三人でエレベーターに乗り、再び診察室に戻りました。
「食道内に空気の輪のようなものが見られ、それが一体何を意味するのか分かりません。ですが、しばらく飲食禁止、絶対安静です」
ええー。昨日まで、母は普通に食事をしていたのに?
これから、何か食べに行こうって話していたところだったのに……。
そんなに母は、悪いの?
生きた心地のしないスタートに、泣き虫の私は、早くも目が潤んできました。
なんなの? 何が起こっているの?
医師の説明を聞きながら、声を震わせている私に気づいた母が、私の背中をさすってきます。
病人は母なのに、なぜか母に慰められる娘なのでした。
その後はどうにか気持ちを奮い立たせ、次々渡される書類に、無我夢中で記入し続けました。
突然のことで病室が空いておらず、個室に入院することに。
ベッド代。その額、1日53,000円。
父に電話をかけ状況を伝えると、緊急入院の事実にも、ベッド代にも、ギョッとし、動揺しているようでした。
「それで、ガンだったのか?」
70 代の父が、いまさらトンチンカンなことをきいてきます。
もうこんがらがって、頭の中がパニックです。
(とにかく、私だけはしっかりしなくちゃ)
病院のコンビニで、母のパンツや歯磨きセットを選びながら自分を奮い立たせるのですが、呼吸が浅くなり、首や肩がずっしりと重たく凝り固まって、私の方がいますぐ入院したいくらいです。
何も考えられずに会計を済ませボーっと歩いていると、母の入院病棟への道が分からなくなって、またうろちょろ。
(どうしよう、どうしよう。でも、とにかくしっかりしなくちゃ!)
心を落ち着かせようと、頭の中で、こんな風に考えます。
(母も75歳だよ。ガンになったってちっともおかしくない年齢まで生きた。平均寿命よりは短いけれど、上出来じゃないか。いつか親は死ぬんだよ。そんなこと、当たり前じゃないか。人は、皆、いつか死ぬ)
しかし一方では、まったくその現実を受け入れられていない自分にも気づいて、愕然とします。
(母はこんなに元気なのに、もうすぐ死ぬの? そんなの無理だよ、まだ心の準備ができていないよ。せっかく乳がんの治療が無事終わったばかりなのに……どうしよう、どうしよう……本当にどうしたらいいんだろう……)
私はハアハアと浅い呼吸を繰り返しながら、慣れない病院内をさまよいました。
その後、心身ともに下降の一途を辿った私は、緊張する場面が多くなり、夜はうまく眠れず、日中は倦怠感に襲われ、睡眠薬と抗不安剤のお世話になり始めました。
家で仕事をする夫が、合間を縫って、食道がんについてあれこれと調べ、この後の段取りなどを考えて提案してくれました。夫の言葉はいつもロジカルかつ建設的、しかも私の感情をないがしろにしないよう、共感をも示してくれます。
しかしこのころ、「もうダメかも、もうどうしていいかわからない。私がつぶれる」。そんな感情ばかりが肥大化してしまい、夫の言葉も私の中にうまく吸収されずに跳ね返ってゆくばかりになりました。
世界が恐怖に染められ、現実が辛すぎて、睡眠薬によって意識ある世界から無意識の世界へと逃げる。それがひとつの拠り所となっていきました。
一週間ほどの緊急入院を経て、母の「空気の軌道」の原因はよくわからないままでしたが、問題なさそうだとのこと。そして食道がんのステージ1であることが確定しました。埼玉の病院では「ステージ2~3です。他に転移があるかはまだ不明」と診断されていたため、嬉しい知らせでした。
ところが今度は、最初にして、最大の選択が提示されます。
手術をするのか、化学療法(放射線+抗がん剤)にするのか。
この二択です。
母に「どうしたい?」と尋ねると、「先生に聞いてみたい」と言いますが、医師はそれぞれの治療法を説明すると、「どちらにしますか」とこちらに選ぶように促してきます。医師の経験値をもってしても「どちらがいい」とはっきり言えない状態なのだろうと察しました。
「これからいろいろ調べて、納得いく方を選ぼうよ」
待合室で母に話しかけますが、
「もう、別にいつ死んでもいい。まあまあいい人生だった」
母が平然とした様子で、そんなことを言ってきます。さらに母は「抗がん剤なんてイヤ」とぼやきます。かといって、長い食道を全摘出して、胃をひっぱりあげての再建手術は、十時間近くもかかるという大手術。想像するだけでも恐ろしい絵面が浮かんできます。
それから次の診察日まで、食道がんの治療例を調べまくる日々が始まりました。夫も強力してくれ、多くの助言をしてくれます。
私は、母の未来を案じ、「ああでもない、こうでもない」と行ったり来たり。
こうも考えられるし、でも、この可能性もある。でも、こっちの本ではこう、ネットではこんな例もある。
でも、こうかもしれない。でも、でも。でも、でも……。でも……。
「一番大事なのは、お母さん本人が、どうしたいかだよ」
夫がそんな風に私をたしなめてきます。
一回り年上の夫は、20代の頃から付き合っていた交際相手を、30代でガンで亡くすという経験をしています。
約7年に渡る闘病の話を聞く度に、彼女の苦しみや、当時の夫の悔しさの両方を想像しては「世界は、無慈悲な場所だ」と感じてきました。
どれほど治療を頑張っても、どれほど強く祈っても、「若い女性を、もう少し長く生きさせてほしい」というささやか願いは、神様には届きませんでした。
そして50代になった夫は、亡くなった彼女さんの闘病を振り返って「もっと彼女の要望に応えてやればよかった」と後悔しているところがあるようでした。
当時30代前半だった夫は「治すためなら、どんな治療だって試してみるべきだ。それ以外ありえない」と信じて疑わなかった。彼女を助けるために、まだ認可されていない治験に参加したりと、やれる治療をやり続けるという選択をしてきたのでした。
だから時に、彼女がつらい治療に消極的になっても、励まし続け、どうにか彼女を治療に向かわせた。夫は、見えざる敵に対する怒りを原動力に、彼女の闘病を支えてきた人なのでした。
その夫が、今「お母さんがどうしたいかが、一番大事」と言っている。夫が長年かけて掴んだ真理とも言えるその言葉は、とても重たいものでした。
私は、口論中、夫に機関銃のようにイラ立ちの言葉をぶつけながらも、こういう夫が私のそばに居てくれることに、どこか感動のようなものを覚えていました。
病気の彼女さんが居てくれたからこそ、夫は深い洞察を得た。そして彼女がもう生きていないからこそ、私は夫とこうして一緒に暮らしているとも言えるのです。
彼女さんが受けた治療が、彼女の命を延ばしたのか、縮めたのか。
答えは闇の中です。
「結局……ただのギャンブルだよね」
亡くなるという「結果」がでた後にも、治療との因果関係が判明しないギャンブルに、今、私は直面している。
母の治療を、どちらにするの。
手術するの? それとも抗がん剤と放射線?
いくら考えても、正解がない。
正解がなくても、選ばねばならない。
つづきはこちら⤵
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