槍ヶ岳浪人回顧録

22歳の「私」と3人の仲間は、高校山岳部の同級生であり、在学中を含め北アルプスの槍ヶ岳登頂に悪天候が原因で2度失敗していた。物語は「私」がその高校山岳部の機関誌に寄せた回顧録という設定であり、以下は、彼らが三度目の槍ヶ岳登頂に挑み、山中で朝を迎える場面である。

〜本文〜

二日目。一夜が明けた。暗いので明けてはいないが。ここ馬場平で朝を迎えるのは何度目だろう。
ここ馬場平で迎える朝は決まって雨音が聞こえる。
馬場平で朝を迎えた記憶はすなわち槍に到達できなかった日の記憶だ。
アタックの日に迎えた朝は耳という音声の伝達機関のタイムラグの無さを恨んだ。否。恨んできた。
今回、天気に関してはおよそ心配が大きい訳では無い。それでも、目が覚めた時、テントにぶつかるあの音を探す。
存在感ばかり強調した、雨粒本来の大きさである細かいという形容詞を無視し絶望で期待を連打するあの音を。
2018年9月。馬場平の朝は静寂をもって我々をもてなした。

 心配は他にある。尋ねる前に彼は言った。
「痛くない!」
ほんまかいな。というのが正直な気持ちだった。
昨日の様子から考えて痛くないは言い過ぎだろうと。
医療に詳しい訳ではない。本当に一過性のものであったのか。症状と感覚が一致しないことはそう珍しくもないだろう。強い気持ちが痛みに勝ったのか、はたまたそれを我慢や気遣いと呼ぶのか。
この時の綾太君の心身に起こったことは今更探るべき理由もない。なにせ1時間後には脚の調子を尋ねる気も起らぬほど、隊の中で一番元気だったのは彼なのだ。

 アタックザックで進む一同の足取りは軽快である。
せり上がるカールは眼前と呼ぶ距離にふさわしく、山肌一面のキャンパスには朝日に照らされ輝く黄金と陰が一切のグラデーションなく描かれ、堂々と今日の始まりを告げる。
分刻みで陰をたたき起こす黄金は同時に刻一刻と役目を終え、地上で朝と呼ばれる時間には青の衣を翻す。何年かぶりの穂先に挨拶をして、一同は高山帯に入った。

 ハエマツ帯を進み始めると気は否が応でも沸き立つ。
穂先に向かい文字通り山肌をそのまま登る感覚。一歩一歩確実に標高を稼ぐ感覚。
北アルプスの高層階。東鎌尾根に大天井、北鎌尾根、ゴールを目指す複数の道のりをルートと呼ぶことを視覚で実感する。
中央、南アルプス、山脈の脈たる所以。殺生ヒュッテに着くころには、いよいよ。赤く構える槍ヶ岳山荘は舞台袖か。
スコープに入ってから引き金までが長い。とはいえ絶景。この時点で大いに絶景である。余談だが、我々は96年生まれの絶賛若者中である。スマホで切り取るこの景色を、祐輔はこう表現した。「どこをどう撮ろうが映える!」

 一行は殺生ヒュッテを過ぎ山荘を目指している。この時点になると快晴も相まって穂先の存在感はいよいよ増してくる。
王者であろう。
人気や難易度、登山者の年齢層を考えると違和感を覚えるのがこのころだ。まじで「槍」やん…と。
あんなんほんまにみんな登ってんの…
と感心するほど、その姿は荒々しい。山岳信仰の成り立つ過程にも頷ける。そこでそんな不安を軽くしてくれるのが山道をメインで彩るおばちゃん(もとい、おばあさん)クライマーである。挨拶を交わす度に思う。この人等も登るんかぁ。この人等もう登って来はったんかぁ。と。絶景と期待から畏れにおばちゃん達にと、やかましいほどその道中は陽気に、とうとう、いよいよ、槍ヶ岳山荘にたどり着いた。

 快晴である。穂先は鮮明である。
四年前、メンバーは同じ地にたどり着いた。達成感という感情は達成した内容に比例しない。
槍ヶ岳山荘、言うまでもなくこの場所に集まる全ての登山者が穂先の登頂に思いを馳せるための最終準備地点である。同地点での一行の感情はいま確かに一致し、同時に四年前とは確実に異なっているに違いない。
建物前に荷をおろし、改めて背を眺める。
舞台袖に、勝ち戦の舞台袖に立った。山脈のうねりとカールの高低差は、視界に魚眼レンズの迫力をもたらす。快晴につき頂上は鮮明である。
沸き立っていた。
ヘルメットとグローブを装着し、日和の流れに乗り込んだ。

 100mの高低差に所要時間の目安は登り下り30分ずつとある。おおむね差異は無い。噂通り、穂先の登頂には一本のルートのみであり、登山者は列をなし、その道幅から追い越しもほぼ不可能であるからだ。
噂の年齢層と難易度に反し、この短い最終行程は、クライミングの様相を呈していた。下を見てはいけない。頑丈に丁寧に整備されてはいるが、この場での滑落は死とイコールで結ばれていることを圧倒されながら感じる。
筆者は必要以上の心配性である。言葉を選ばずに言うなら超弩級のビビりである。前後の仲間たちに一挙手一投足の指示を仰ぎながら、なんとか最後の梯子にたどり着いた。
この段階になると、である。梯子は人工物であり、高所にたどり着くという行為に簡便さと安全をもたらすことを目的とした人類の叡智であろう。槍ヶ岳の登頂はその穂先という表現から分かるように、登頂直前の急激な高低差と頂上の面積、登頂方法から、この梯子が最後の登山行程となる。
その、梯子である。安全のため一人ずつしか認められない。
頂上は目の前であり、対になる下山用の梯子からはこの穂先の道中すでに見かけた人たちが降りてくる。がしかし、初登頂の際この梯子に恐怖しない者は果たしているのかどうか。あの巨大なはずの槍ヶ岳山荘の赤い存在感が、高低差を数字以上に物語る。この梯子を登るときのみは皆、時間の相対性に弄ばれると言わねばならないだろう。四人は梯子を登り、視界が開けた。

  足が、手が、久方の水平と自由を確認し、身体が乾いた風に喜んだ。面を上げる速度はコマ送りになる。視線の上方向の遷移と共に、景色が一コマずつ完成した。
この執筆の機会を頂いたありがたさを考えると元も子も無いが、筆舌に尽くし難い。この表現が寧ろ最も適しているのではないか。
20人程が立って混み合う程のスペースしかない頂上。他の山と大きく異なるのは再三述べた事であるがこの頂上点の明白さである。参拝し、プラカードを持ち記念撮影。改めて地脈の集合を一心に受け入れる。
正午、槍ヶ岳山頂にて快晴。一行心身健常にして数年越しの登頂を果たした。

  北アルプスの屋上は夢心地である。人間が己の体一つで辿り着き体感することの出来る最も非日常かつ地球的な空間の一つであろう。槍ヶ岳山荘まで下山し、30分前まで自分達がいた穂先を見上げ尚更そう感じた。
この時の我々と、おそらく多くの登山者がそう感じているであろうことを示す情景が一つある。
我々はこの時点で大学生である。山行において節約を考えるのは当然であり、その矛先は食費に向きやすい。今回も例外なく行動食や自炊用の食材を全日程の計画に合わせて持参している。
しかし、誰から提案したのであろうか、穂先から下り、槍ヶ岳山荘にて全員がためらいなく意気揚々とカレーライスを注文することにした。
槍ヶ岳山荘の喫茶スペースでのカレーライスは山荘の景観や雰囲気に相応しい、我々の世代にはレトロと感じられるアルミの平皿でサーブされる。
細かく刻まれながらも存在感のある野菜と肉がしっかりと煮込まれた、標高3000mの立地を抜きにしても舌鼓を打たずにいられぬ逸品である。が、1000円である。
槍ヶ岳山荘の物資はヘリ輸送だ。経済のカラクリよりも、筆者はこの槍ヶ岳山荘という大きな存在が如何に登山者に愛されており、山荘と登山者双方の敬意が爽やかであることに思いを巡らせたい。

  登りと同じルートを下る足取りは達成感を携え、満足感ゆえに軽い。数時間前に遭遇した景色にも少し気取って挨拶が出来る。
我々はこの山行中、スマホなどで各自気軽に多くの写真を撮ったが、私はこの下山時、休憩中の一同が写っている写真が妙に好きだ。聡がおもむろに撮影したもので、各々余り気が付いておらず、ポーズも取っていないが、登頂した後の下山中という気分がのんびり伝わってくる。

  この日は徳澤園にてテントを張り、一泊した。筆者の回想はここまでだ。
今回、一同は槍ヶ岳に登頂した。ただ、この登頂はその言葉では足りず、高校生の頃、この山岳部にて登頂を目指し天候から断念したことに端を発する。高校生の時、そして去年とが一続きになり、ようやく完結した。
目差す山は同じくしてもストーリーは登山者により多岐に渡る。
高校を卒業し、別々の進路を辿り、成人し、離れた土地に住み、学年もきれいにばらけたメンバーが、ティーンエージャーの頃の宿題に蹴りをつけた。このレポートは回顧録である。2019年5月現在、私はこの先もピークを過去に置くつもりはないが、多くの人の辿った、そして辿るであろう10代の経験に愛を込めてこの文章を終えさせて頂きたい。
 The town seemed different. Smaller.

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