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【エッセイ】駿河①─富士山のあれこれ─『佐竹健のYouTube奮闘記(72)』

 伊豆へ行った次の週の土曜日。私はまた小田急に乗って小田原へと来ていた。

 今回の行く先は、駿河国にある駿府城。

 前回熱海からはSuicaが使えないという衝撃の事実が判明したので、小田原駅で東海道本線に乗り換える前に切符を買って行くことにした。

 根府川や真鶴から見える海を眺めながら、熱海で静岡行きの列車に乗り換え、目的地を目指す。ブックオフで見つけた司馬遼太郎の『箱根の坂(中)』を読みながら。

 移動中読んでいたところは、ちょうど今川新五郎範満とその弟小鹿孫五郎が北条早雲により討ち取られるところであった。


 静岡へと向かう途中車窓を見た。

 車窓からは、大きな富士山が顔を覗かせていた。

「富士山だ!!」

 思わず私は、心の中で叫んでしまった。こんなに大きな富士山を見たのは、高校以来だったので。確か三島駅を通過し、名古屋へ向かう新幹線の中で見た富士山もこんな感じだった覚えがある。

(もしかして、あのとき富士山を見た場所はこの辺りでは!?)

 そんなことを思いながら、車窓から見える富士山を眺めていた。


 富士山は古くから日本人にその存在が認知されていた。

天地の 分かれし時ゆ 神さびて
高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を
天の原 振り放け見れば 渡る日の
影も隠らひ 照る月の 光も見えず
白雲の い行きはばかり 時じくぞ
雪は降りける
語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 
富士の高嶺は

田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ
富士の高嶺に雪は降りける

 富士山を詠んだ和歌で有名なものとしては、『万葉集』にあるこの2つの歌が有名だ。前者は天地開闢の昔からあり、沈む日や照る月の光も隠し、さらには雲の行く手も阻み、季節問わず雪が降り積もっているそんな不思議の山富士山を語り継いでいこう、という意味の長歌だ。後者は返歌で、富士山の頂上に雪が積もっている情景を詠んだものとなっている。

 物語にも富士山は登場している。

 日本最古の物語といわれている『竹取物語』には、かぐや姫が月に旅立つ前に帝に残した手紙と不死の薬を富士山で焼いている。「士の富む山」と「不死」の薬を焼いたという意味で、

「ふしの山」

 つまりは「富士山」と呼ばれるようになった。

 ちなみに「士の富む山」が「ふしの山」とどう繋がってくるのか? まず「士の富む」これを漢文風にすると「富士」になる。そしてそれをそのまま読むと「ふし」となる感じだ。そして同音の「不死」とかけられて「ふし」となったのである。

 中世には修験道の信仰の対象となり、御師というキリスト教の宣教師のような役割の人が各地を旅して広めたことで、その信仰は各地に広がった。また、江戸時代には、庶民の旅行ブームも相まって一大観光地となった。

 観光地化されたと書いたが、女人禁制が守られていたり、江戸市中に富士の神を信仰している町内の住民が富士講というサークルを作ったりと、一応霊場としての面も残っていた。

 富士講に属している人たちは、いつも町から見える雪の被った富士の山を信仰対象にしていた。裕福な町人なら、東海道や中山道を歩いて見に行っていたことだろう。だが、富士山へ行くまでの路銀が無かったり、年齢や病気などの関係で行けない人もいた。そうした人たちは口を揃えて、

「俺も人生で一度は、富士の山に登りてェ人生だった……」

「ワシも登りたかったが、もう歳じゃからの……」

 と言っていたことだろう。

 そんな同胞たちを見かねた富士講の仲間たちは、彼らにも富士の力を分け与えたいと思った。そして、ある閃きを思い付いたのである。

「江戸にも富士山を作ればいい!! そうすれば、行けないオレたちでも、富士のありがてぇご利益を授かることがてきるかもしれねぇ!!」

 この思い付きにより、江戸の神社などに富士山を模した富士塚という塚が各地に築かれるようになった。もちろんご利益とか富士感を感じられないといけないから、形を富士山に似せたり、頂上に富士山の神様や溶岩を祀った神社や祠を建てたりしている。

 現在でも富士塚はいくつか現存しており、初夢の一富士二鷹三茄子と関係のある駒込の富士塚と護国寺の中にある音羽富士は特に有名だ。

 明治以降も富士山は日本の山の象徴であった。だが、引き続き「日本一高い山」であったかといえば、そうではない。

 明治の終わりに日本は日清戦争に勝って、台湾を手に入れた。そこに新高山(玉山)という山があったのだが、その山が富士山より高かったのだ。以来終戦で台湾を失うまでは新高山が日本一大きな山だった。

 日本一高い山で無くなったとしても、日本人にとっては、富士山が特別な山であったことに変わりはない。内地(北海道、本州、四国、九州、沖縄など)では、一番高い山で信仰対象であったから。

 第二次大戦で日本が連合国に負け、朝鮮半島と台湾、南樺太、北方領土を失ってからは、また日本一の山に返り咲いた。

 さすがに近現代ともなると、信仰の場というより、観光名所という面が強くなっていく。そして10年ほど前に世界遺産に登録され、今に至る。


 富士山の世界遺産登録について、私はテレビで見ていた。そのときは中学2年生だったろうか。

 当時テレビをつけたら、どこのテレビ局も富士山のことばかりやっていた。昔のことなのでおぼろげだが、NHKで先ほど話した御師や富士講、そして富士塚の話をしていた。その番組は、おそらく『ブラタモリ』か『歴史秘話ヒストリア』のどちらかであった覚えがある。かなり昔のことなので、どっちがどっちであったか詳細は忘れてしまった。

 そのときに私は、富士山についての詳細を少し知った。当時の私にとっては、日本一の山であること、かぐや姫が月へ行ったことを悲しんだ帝が、不死の薬と自身に向けて残された手紙を燃やした山ぐらいの認識しかなかったからだ。

 同時にテレビというのは、とてもミーハーだなということも改めて痛感した。

 何か目新しいものができると、どこのテレビ局もその話ばかり。テレビの液晶の向こう側の人間が飽きてもゴリ押ししてくる。

 むろん、これは首都圏のテレビ局だけの話ではない。地方のテレビ局の番組でもそうだ。

 そのおかげで、どんなに目新しい話題も一週間ぐらいで飽きてしまう気がする。知らないことを知れるいい機会にもなるけれど。


戸田橋の土手から見える富士山(埼玉側)
戸田橋の土手から見える富士山(東京側)

 東京からも富士山は見える。前にも話したと思うが、晴れている日に戸田橋の土手に行くと、高島平の団地の向こう側からいつも顔を覗かせている。都内だと、こことスカイツリーが、一番よく富士山を眺められる。だが、去年の春先、東京またはその周辺で富士山を見ることができる場所を、新たに二つ見つけた。

柳瀬川の土手から見える富士山

 一つ目は、東京都内から少し離れた清瀬市という場所である。その清瀬市と埼玉の所沢との境に柳瀬川という川が流れているのだが、そこの土手から見える富士山がとてもきれいだった。十数キロ離れているせいなのか、戸田橋や笹目橋から少し離れた場所から見えるそれより大きく見える。

稲村ヶ崎から見える富士山

 もう一つは、鎌倉(神奈川)の稲村ヶ崎というところだ。以前関東城めぐりエッセイ版で新田義貞の伝説を話した、あの稲村ヶ崎である。「鎌倉①─鎌倉と源氏の英雄─」『佐竹健のYouTube奮闘記(28)』リンクを貼っておいたので、新田義貞の伝説について知りたい人は読んでもらえるとうれしい。

 どこから見えるのかといえば、岩場にある公園だ。公園といっても、遊具らしいものは無く、新田義貞が戦ったという石碑があるのみの場所なのだが。

 稲村ヶ崎から富士山が見えるのは有名な話である。だが、ここから見える富士山は、東京からそう離れていない場所から見えるものとは思えないほどきれいなのである。海が見えるし、潮騒も聞こえるから、とても趣深い。


東海道線の車窓から見えた富士山

「撮らねば」

 私はポケットからスマホを取り出し、車窓から写真を撮った。

 何度か失敗したけれど、3回目くらいでかなりきれいなモノが撮れた。

 列車は田子の浦とかがある辺りや富士山のお膝元である富士吉田、そして源平の決戦が行われる予定だった富士川を通り過ぎていく。


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