映画 『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』 : 憧れの「友情物語」
映画評:『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(アニメーションディレクター・黒川智之)
本作は、人気漫画家・浅野いにおの同名原作(全12巻)を「前後編あわせて4時間」にまとめた作品である。4時間というのは、映画としては十分に長いものの、全12巻の漫画原作からすれば、そのごく一部しか描けないということになる。
そこで、原作では「群像劇」的に何人かの主人公(たち)が順に描かれ、それで作品世界の全体像を立体的に描き出すという大作ならでは手法が採られていたのだが、本作アニメ版では、あえて「小山門出と中川凰蘭」という女子高生コンビの物語を中心にすえ、その視点から作品世界を描くという「選択と集中」方式を採って、「物語」の結末までを描いている。
一一とは言え、私は「原作マンガ」の方は読んでいないし、この先も読む予定はないので、以上の説明は、あくまでも映画パンフレットなどからの情報をまとめたものに過ぎない。
つまり、原作がどれほどの作品なのか、結末がどうなっているのかをハッキリとは知らないまま、このアニメ版を評価するということなので、その点はあらかじめ断っておきたい。
ちなみに、私が「原作マンガを読む予定はない」と書いたのは、このアニメ版から推して「原作を読む必要はないだろうと判断した」ということではない。端的に、原作者である浅野いにおの「絵柄」が好みではないだけである。
浅野いにおに関しては「だいぶ前に『ユリイカ』誌などでも特集が組まれててたような」という「誤った記憶」があるくらいだから、かなり評判の良い作家であるというのは承知しているし、パンフレットに寄せられたキャストやスタッフの中にも、浅野マンガの読者はいて、そこで語られていたのは「浅野のマンガは突き刺さる」ということだった。つまり、「人間や社会を描いて、鋭く呵責のない作家」だということなのであろう。そのギャグ漫画にも見えかねないようなキャラクターデザインにもかかわらず、浅野は、重い内容を描く「厳しい作家」なのであろうと、そう推察されたのだ。
そして、私自身は、そういう作家はむしろ好みなのだが、しかし「絵柄が好みではないと、いかに内容が良いと聞かされて興味を持っても、どうしても読む気にならない」というのも、これまでも何度か書いてきたとおりで、私としても、如何ともしがたいところなのだ。
したがって、原作『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(以下『デデデデ』と略記)についても、このアニメ版を見るかぎり「十分に面白そうだ」とは思うものの、やはり、絵柄の合わなさを押してまで、全12巻もの大作を読む気にはならないのである。
さて、先に私は、原作の方は「群像劇」的だったものを、本作アニメ版では「小山門出と中川凰蘭」という女子高生コンビに絞り、「選択と集中」方式で「結末」まで描いた作品だと紹介したが、言い換えれば、原作の方は「この世界」を総体的に描こうとした作品であり、本作アニメ版の方は「門出と凰蘭の友情物語」として描いた作品だと、そうも言えるだろう。
つまり、アニメ版の場合は、「この世界」自体の問題は、あくまでも「友情物語の背景」として後景に退いているし、そのやり方しかなかったということである。
だから、原作マンガの方は、このアニメ版とはハッキリ違った「テーマ性」を強く持っているとも推察できて、私もそこに興味がないわけではないのだが、やはり全12巻の大作を読む気にはならない。まただからこそ、ここで本作アニメ版について語るにしても「門出と凰蘭の友情物語」を中心とならざるを得ない。そして、そこだけに注目するならば、本作は「傑作」と呼んで良い作品になっているとは言えると思う。
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じつのところ、本作は、特に見たかった作品というわけではなく、他の映画を見に行くついでに「前章」を見てみただけ、であった。しかし、これがとても良かったので、「後章」は迷わずに見に行った、というような次第である。
で、「前章」で何が良かったのかといえば、これは「門出と凰蘭を中心とした友情物語」の部分であった。
この部分は、なかなか「突き刺さる」ものがあって感心させられたのだが、「前章」を見終えて帰宅してから、「そう言えば、この作品の監督は誰だろう」とネット検索してみると、なぜか、「監督」ではなく、「アニメーション・ディレクター」という肩書きで、「黒川智之」の名前が出てきた。
「見たことのある名前だけど、どんな作品をやってきた人だろう」とさらに検索してみると、その前作は、私が以前、ほとんど全否定した『ぼくらのよあけ』であることがわかり、かなり驚かされた。私の印象としては、ほとんど「別人の作品」だと感じられたからである。
上の『ぼくらのよあけ』のレビューで、私は同作の「弱さ」を、次のように指摘した。
つまり「丁寧だが、メリハリに欠けて、ドラマとしての力の無い作品」だというような評価で、その原因は「監督の人間ドラマに関する演出力不足」だと、そう厳しく評価していたのだ。
だが、『デデデデ』前章を見るかぎり、むしろ「人間ドラマ」の部分がよく描けていたので、同じ監督の作品だとは思えないほど、だったのである。
そんなわけで、『デデデデ』前章は「人間ドラマ」がよく描けていたという事実において、私は黒川監督への評価を、率直に改めなければならないだろう。
無論「原作の良さ」や「脚本家のうまさ」といったこともあるのだろうが、少なくとも「原作の良さ」という点では、前作『ぼくらのよあけ』だって『デデデデ』に劣らぬ傑作だったのだから、原作の問題にだけ還元することのできない「何か」があって、本作『デデデデ』では、黒川監督は本来持っている力を発揮したのだと、そう評価したいのである。
もちろん、「人間ドラマ」の部分だけではなく、物語の背景となる「(本作中で、人類から一方的に)侵略者と呼ばれる異星人」の飛来(「襲来」ではない)と、それに対する「人類の対応」といった部分も、すくなくともその「絵的な見せ方」のおいては、悪くはなかった。
『ぼくらのよあけ』では『ベターッと丁寧』なだけ、と評した部分なのだが、本作では、それなりに面白く描かれていたのである。
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本作の「ストーリー」は、次のとおり。
シンプルにまとめてしまえば、「前章」で「門出と凰蘭を中心とした友情物語」を描きつつ、この「終末的世界」に隠された各種の「謎」が描かれる。そして「後章」では、そうした複数の「謎」としての伏線を回収しつつ、すべての真相が明かされて、物語は「破滅か否か」というギリギリのクライマックスを迎える、というようなことになろう。
【※ 以下で、本作「アニメ版」の、原作とは違うオリジナルのラストに触れますので、未鑑賞の方はご注意ください】
前後編ふくめて鑑賞し終わった、今の印象からすれば、「前章」の「ジリジリと詰めてくるような迫力」に比べると、「後章」は、やや呆気ない「種明かし」に終わったという印象が否めない。
「なるほど、そういうことだったのか」と納得はするのだけれども、それ自体は、言うなれば「よくある真相(パターン)」でしかなく、しかも、細かく見ていけば、「それでいいの?」と言いたくなる部分が、いくつも目について、そのあたりに「粗さ」が感じられるのだ。
例えば、「前章」で描かれる「小学生時代」における門出と凰蘭の「過去の性格」と、二人の「現在の性格」との違いや、「門出の投身自殺を思わせる過去シーン」などについては、「後章」への「思わせぶりな引き」としては効果的だったのだが、「後章」でいざ種明かしをされてしまうと、「そのパターンか」という印象しかなかった。
どういうことかというと、「現在」とはガラリと違って、「過去(小学生時代)」の凰蘭は、非常におとなしい引っ込み思案の少女だったために、せっかく仲良くなった門出の自殺を止められなかった、という「過去」があるのだ。
小学生の門出は、いじめに遭っていたこともあって、たまたま手に入れた「侵略者」の武器を使って「正義」をなそうとして暴走し、取り返しのつかない結果を招いて自殺したのである。
だから、その死に絶望した凰蘭は、「侵略者」の「超科学」を使って、自分の意識を「別の世界線の過去」へと飛ばして、門出との出会いから人生をやり直していたのであり、つまり「現在」として描かれる世界は、凰蘭たちの「小学生時代の世界」とは別の、言うなれば「パラレルワールド(平行宇宙)」なのである。
つまり、「侵略者の超科学」は、タイムマシンではなく「意識だけを移動させる」もので、同一人物がダブることはないのだが、それでも、その先の世界、この場合「現在の世界」は、「過去の世界」とは似て非なる別の世界で、そもそも、まったく同じような過去・現在・未来を持つわけではない。まして「意識だけ」とは言え、「未来の記憶」を持った者が移動するなら、移動先の世界は多少なりとも、その意識によって「改変」されるわけであり、タイムパラドックスは避けられないのである。
そして実際、「過去の世界」の方では、その後、「侵略者」の母船は、やがてみずから母星へと立ち去って、人類の危機は回避されるのだが、凰蘭が移動した先の「現在の世界」は、そうはならなかった。
それが、凰蘭個人のせいかどうかはわからなくても、少なくとも門出一人を救うために、凰蘭は、人類まるごとの破滅の危機を招いたのかもしれないのである。
しかしだ、凰蘭の「気持ち(主観)」として「目の前に門出が生きている、現在の世界」が「現実」に見えようと、それで(捨ててきた)「過去の世界」が「変わった」というわけではない。「過去の世界」の門出が生き返ることはないのだ。
凰蘭が移動したのは「別の時間軸」の世界線なのだから、「過去の世界」の門出は「死んだまま」だし、「現在の世界」の門出は、「未来」からやってきた凰蘭が友達にならなずとも、別の友達を作って、無事に生き延びていたかもしれないのである。
つまり、凰蘭は「大切な門出を救うため」と考えて「別の世界線の過去」へと移動し、その目的を達したつもりなのだが、実際には「死んだ(過去世界の)門出」を救ったわけではなく「別の(現在世界の)門出」と新たに出会っただけなのである。
だから、厳しい言い方をするなら、凰蘭のやってことは、単なる「現実逃避(未来の現実から、別の過去の現実への逃避)」でしかないし、「大切な友達」を失った悲しみによる傷を癒すために、その死んだ友達に「そっくりな別の友達」を作ることで、「大切な友達の死」から、目を逸らして誤魔化しただけだとも言えるのである。
たとえそれが、小学生時代の幼い凰蘭による、やむを得ない選択だったとしてもだ。
実際、このことは「現在の世界」でも、のちに指摘されることになる。
凰蘭が好きになった少年・大葉圭太は、じつは、人類からの攻撃で深傷を負った侵略者の子供の頭脳を、その際の事故に巻き込まれて負傷し、死にかけていた大葉の身体に移植した人物なのだが、言うなれば「ハーフ(心は侵略者、身体は人類)」の立場にある彼は、故障した動力炉の暴走により、人類を破滅させる大惨事を今しも招かんばかりの状態にある「侵略者の母船」にひとり赴いて、その動力炉を止めるための決死の行動に出ようとする。
そして、そのことを察し、そのせいで失踪したかに思われた凰蘭について、凰蘭らと大学で知り合った田井沼マコトは「もしかすると、また別の世界線に飛んで、やり直そうとしてるんじゃないか。でも、救うんなら、この世界で救わないと、それは誤魔化しだよ」と主張するシーンがあるのだが、私は、これこそが真っ当な意見だと思うのだ。
さて、本作アニメ版のラストだが、母船の動力炉の停止作業はギリギリのところで成功し、それまでにすでに大きな犠牲は出していたものの、人類絶滅の危機は回避される。
例えば、凰蘭の兄や父親はたぶん助からなかったし、凰蘭の友達の弟などの周辺キャラにも助からなかった者が少なからずいるはずだが、しかし、ひとまず「凰蘭と門出」、そして凰蘭が好きになった大葉も助かるのだから、この結末は「多大な犠牲という代償を払いながらも、ひとまず主人公たちは助かる、ハッピーエンド」だと、そう言っても良いだろう。
そして、これが「アニメ版オリジナルの結末」であるのならば、たぶん「原作マンガ」の方では、「凰蘭と門出」は、助からなかったのではないだろうか。
つまり、このアニメ版は、「凰蘭と門出」の「強い絆」を中心的に描いて、観る者を感動させ、言うなれば、その「純粋な(理想的な)友情」に「憧れ」を感じさせる作品となっているのだが、その部分に目をとらわれることなく細かく見ていくなら、かなり「ご都合主義的に、説明していない(誤魔化している)部分」があり、その意味で「粗(あら)」の少ない作品だとも言えるのである。
実際、私などとは違って「門出と凰蘭の友情物語」の部分にはさほど惹かれず、もっぱら「物語の作り」に目が行った人には、「粗ばかりの目立つ作品」だったようで、そうした立場の代表が、次のレビューだろう。
最後の『キャラデザでキャラの重要度がわかる』云々のところ以外は、「まったく同感」というしかない評価である。
要は、政治家やテロリストの行動が、あまりにも「無茶」すぎるのだ。
たしかに「現実の政治家」などは、ここで描かれている程度に、案外「馬鹿で無茶」なのかもしれないし、それが原作者の「シニカル」な人間観の反映なのかも知らないが、しかし「物語(フィクション)」でそうした「人間の愚かさ」を描くのであれば、それはそれなりの「段取り」や「理路」というものがなければならない。「現実がこうだから、それをそのまま描いただけ」では、「現実を、フィクションの中で描いた」ことにはならず、単なる「不十分な描写」にしかならないのである。
だが、多くの観客は、そうしたところにはあまりこだわらず、言うなれば、アニメ版の作り手の狙いどおりに、本作を「門出と凰蘭の友情物語」として楽しみ、感情移入した二人が助かることで、ひとまず「よかったよかった」と思ったことであろう。
しかし、それはそれで、あまりにも「安易」だと言うほかないのである。
木花咲耶氏も支持するとおり、『結局のところ大勢の意思や行動ではなく個人の感情で世界の命運が動』かされたその結果に、凰蘭が責任を感じて『罪の意識を持つかどうか』という点については、「全人類の命よりも、目の前の親友の命を、私は選ぶ」という選択も、決して「間違いではない」だろう(この逆も「間違い」ではない)。
しかし、そんな「友情物語」が、実は「過去の門出」を忘れ、「別の門出」を選ぶことで成立しているものだという事実を想起するならば、本作は「甘ったるい誤魔化し」の上に成立した作品だと、そう呼ぶしかないのではないだろうか。
私としても、田井沼マコトが主張したとおり、「そっくりな平行世界がいくらあろうと、私のこの世界は唯一の私の世界だし、この世界の親友は、別の世界の同一人物とは交換不可能な唯一の存在だ」というのが、本当の「友情」なのだと思う。
仮に「この世界の親友」が自殺したとしても、「その代わりがあり得る」などという考え方は、あまりに「友達甲斐」のないものなのではないだろうか。一一その気持ちは、わかるとしても。
(2024年6月4日)
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