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ローラン・ビネ 『言語の七番目の機能』 : 〈存在論的不安〉と メタ・フィクション

書評:ローラン・ビネ『言語の七番目の機能』(東京創元社)

本書の帯には、著者自身の「エーコ+『ファイト・クラブ』を書きたかった」という言葉が紹介されているが、大筋でそういう作品だと考えても良いだろう。

と言っても、私は『ファイト・クラブ』の原作(チャック・パラニューク)を読んでいないし、映画(デヴィッド・フィンチャー監督)を観てもいない(そもそも、アクションやバイオレンスには、興味がなかったからだ)。
ただ、評判の高さは知っていたので、あらすじくらいは知っていたし、今回、本作を読んで『ファイト・クラブ』が、どういう雰囲気の作品なのか、(もちろん誤解かもしれないが)おおよそわかったような気がしたのも事実だ。

その上で、本作『言語の七番目の機能』について、これから読もうという人に助言するならば、本書は『薔薇の名前』でよく知られるウンベルト・エーコへのオマージュ作品ではあるものの、『薔薇の名前』のような「本格ミステリ」ではない、ということである。だから、本作にそれを期待したら、確実に裏切られると思って欲しい。

本作は、エーコで言うならば、『薔薇の名前』ではなく、その次の長編『フーコーの振り子』に近い作品だと言えるだろう。
つまり、本格ミステリ的な「論理的な謎解き(無神論的脱神秘)」を主眼とした作品ではなく、謎めいた「秘密結社」のからんでくる「聖杯(「言語の七番目の機能」を記したメモ)探求」物語であり、主人公たちは「謎」を追ううちに、一種「異様な世界」の深みへと踏み込んでいく、そんなダークでサスペンスフルな物語だと言えるだろう。

そして、そんな物語に『ファイト・クラブ』がどう絡んでくるのかと言えば、それは『ファイト・クラブ』が「賭け喧嘩の秘密クラブ」だったのに対し、実在する思想家・知識人が多数登場する本作では「名誉を賭けた、秘密のデイベート・クラブ(討論クラブ)」が登場する、という仕掛けだ。
ただし、ただの「デイベート・クラブ」ではいささか緊張感に欠けるので、本作に描かれる「秘密の会員制デイベート・クラブ」である「ロゴス・クラブ」の「ランク付けを賭けた勝負」においては、敗者は指を切り落とされるという、いささか「暴力的な要素」が加えられており、その非現実的とも言える妖しさを、濃厚に醸し出している。

つまり、本作が、あるいは作者が、指向しているものとは、「本格ミステリ」が目指すものとは、真逆なのだ。

「本格ミステリ」とは、「密室殺人」や「ダイイング・メッセージ」の登場によって「非現実化」させられた世界を、「理性」の力で解体し再構築して「日常のロジック(正常な論理性)の世界に回帰させる」物語なのだが、本作が描くのは「日常から徐々に異様な世界へと踏み込んでゆき、物語が終っても、日常世界には戻って来れない物語」だと言えるだろう。

本作は、私たちが「当たり前の日常」や「当たり前の論理や理性」と思っているものが、はたしてそんなに「確かなもの」なのか、私たちはむしろ、そんな「夢」を見ているだけではないか、そんな「物語の中」にいるだけなのではないか、といった「存在論的不安」を掻き立てて、「世界からの乖離感」を与えてくれる、不穏な快感に満ちた物語なのである。

その意味では、本作は「パラレル・ワールド」を描いた作品だとも言えよう。
単なる「フィクション」ではなく、こういう「世界(宇宙)」もあり得、あるいは、現にそうなのではないか。私たちの方が、世界を見誤っているのではないか、という「存在論的不安」が作者にはあって、そんな感覚を読者にも共有させようとしているのが、この物語なのだ。

「解説」でも指摘されているとおり、バルト、フーコー、クリステヴァ、デリダ、アルチュセールといった、実在する(した)フランス現代思想のスーパースターたちへの本作の扱いは、かなり酷いものである。
その点について、翻訳者(解説者)は『フランスの若い世代に属する作家たちは、そのほとんどが戦前生まれの現代思想のスターたちが目の上のタンコブのように目障りに感じているのかもしれないなと思ったものである。』(P475)と、「世代論」的なもの(一般的なもの)を指摘しているが、本作における「嘲笑」的で「敵意」剥き出しの描写は、もっと個人的な、作者に独自なものではないかと、私には感じられる。

つまり、作者は「フランス現代思想」のようなものに「魅力」を感じているのではなく、むしろ「不安(あるいは、脅威)」を感じているのだ。
その「向こう側」に、窺い知れない「嘲笑的な悪意」のようなものが潜んでいるのではないかという「不安」が作者にはあって、それを恐れるからこそ、つい弄ってしまう「傷口」、あるいは、否応なく凝視する「悪夢」のような世界こそが、本作に描かれた「思想家たちの歪んだ私生活世界」であったり「敗者の指を切り落とす、秘密のデイベート・クラブ」であったりしたのではないだろうか。

本作が「暴力的」なのは、『ファイト・クラブ』がそうであるように、「肉体的痛み」が「現実感」を回復してくれることを、著者がどこかで期待しているからであろう。
しかし、実際には、そこに描かれる「暴力性や肉体的な痛み」は、どんどんと物語を夢幻化していくように見える。それはたぶん、「リストカットを繰り返す人たち」が、自分の感じている「乖離的な世界」からの逃避として「リストカット」を求めるのと、同じような感覚なのではないだろうか。

そしてたぶん、作者が唯一、心からの好意を持って、ウンベルト・エーコにオマージュを捧げたのは、エーコが(フランス現代思想家たちとは違い)「当たり前の現実」を保証してくれる、「温かな知性の持ち主」だと「慕う」感情があるからなのではないだろうか。言い変えれば、「悪夢」から引き戻してくれる人のように感じていたからではないだろうか。

私は、著者の代表作『HHhH 一一プラハ、1942年』を未読なのだが、著者のメタ・フィクション性とは、かなり「不安神経症」的なもののように感じられたので、『HHhH』もまた、そうしたメタ・フィクション性を孕む作品なのではないかと推測したのだが、さてどうだろう?

初出:2020年10月9日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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