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山口尚 『日本哲学の最前線』 : 〈尖ってない〉哲学の最前線

書評:山口尚『日本哲学の最前線』(講談社現代新書)

著者は本書の中で、自身の哲学あるいはその文体を「コラム的」と評しているが、たしかにそのとおりで、むかし流行った「フランス現代思想」みたいに、一般人をまったく寄せつけない、見るからに難解な文章、などではない。
他の著作がすべて本書のように読みやすいのかどうかは知らないが、基本的には著者は、今を生きる日本人として「自然体」な哲学が好きなんだろう。それが文体に表れている。

だが、読んでわかろうがわかるまいが、とにかく「難解そうな文章」の好きな人には、本書はきっと物足りないだろう。せっかく、人が感心してくれるだろう「哲学の本」なんか読んでいるのに、こんなに「普通っぽい」のでは、ありがたみがないからである。ちょうど、お経(経文)や呪文は、意味がわからないくらいの方がありがたいのと同じで、「私、哲学、読んでます」ということをアピールしたい向きには、きっと本書は合わないので、そのおつもりで、と助言しておきたい。

さて、本書で語られているのは、現在の日本の哲学が何を問題としているのか、一一それは「不自由さ」だという話である。もちろん「不自由だ不自由だ」と嘆いているということではなく、不自由さを考え抜くところから自由を見出そうというのが、日本の現代哲学の最前線における共通点だ、という話である。

無論これが、著者の問題意識にひきつけた論点整理であるというのは間違いないし、それは著者自身も認めていることで、別に本書の瑕瑾となるようなことではない。本書でも語られるとおり、物事は多面的であり、「立体的」な意味を持つのだから、どの面どの部分を切り取って語るかは、語る人の問題意識によりけりなのは当然で、もとより一度に全部を語り尽くすことなど誰にもできないのである。

したがって、日本の現代哲学の最前線における問題意識が「不自由における自由」にあるという本書の考え方は間違いではない。そして、そういう問題意識において、6人の哲学者の哲学が整理されて語られるので、とてもわかりやすいのだが、要は、この「わかりやすさ」というのが、なかなか「不自由」なのだ。

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「わかりやすいに越したことないじゃないか」というのは、じつに常識的な考え方なのだが、哲学をする人というのは「難しい」ことを考える(語る)自分を愛している人が多いので、「わかりやすい」というのが好きではない。「わかりやすい」ことをわかったって、誰も感心してはくれないので、他の人はわからないくらい「難しい」ことをわかりたい。わかりたいのだが、本当に「難しい」ことは、本を1冊くらい読んだくらいでわかるわけなんかないんだから、せめて「わからなくても、わかったふり」くらいはしたいので、見るからに「わかりやすい」文体で書かれたものは、初手から無価値なのである。

しかし、本当にこれは「ダメな哲学オタク」だけの話だろうか?

私はそうではないと思うし、こういうところにも現代日本における「不自由」があるのではないだろうか。
例えばそれは、強迫的な「差異化」願望と言ってもいいし、流行りの「承認欲求」と言ってもいいだろう。ご当人は「哲学」しているつもりなのだが、実際には、これは「自由」に哲学することを見失った、イマドキの「不自由」状態だと言ってもいい。内面化された他者の視線に絡め取られてしまって、自分が何をしているのかわからなくなってしまっているのだ。

無論、本書で紹介されている6人の哲学者たちのやっているのは、そんなことではない。だが、まったく無関係というわけでもない。彼らがやろうとしているのは、私たちを「不自由」にするものを見極めること、そして、それから逃れるにはどうすればいいのか、ということである。「不自由」から逃れて、「自由」になるために「哲学」しているのである。

だから、私たちが本書から学ぶべきことは、これらの哲学者が「何をやっているのか」を「知る」ではなく、彼らが「どのようにしているのか」ということ(所作)を「真似ぶ」ことなのではないだろうか(じっさい、自分で哲学論文でも書いてみれば良いのである。そしてそれを、他人の目で読めるならば申し分ない)。

「この哲学者が、取り組んでいるのはこういうことですよ」という説明は、わかりやすい。しかし、わかることと、それを実践できることとは別である。そこが問題なのだ(だから、本書でも指摘されているとおり、哲学できない人というは、言葉が貧困で、おうむ返しの説明しかできない)。

哲学を「わかろう」とする人は、えてして哲学「する」ことをしない。わかることが、すなわちできることだと思い違いしているからなのだが、そんな人の考えている哲学とは、大学で哲学を学んで、無事に卒業できた人なら、全員漏れなくできたようなことでしかない。しかし、哲学者の哲学とは、そういうものではないのである。

自分と世界との向き合い方を会得してこそ、(深いかどうかは別にして)初めて哲学ができる。
言い換えれば、あの哲学がすごいとか、この哲学はつまらないとか、そんなことを言っているお客さまは、終生、哲学とは縁なき衆生であろう。

本書の著者は、哲学ということを、プロパー哲学の範囲内で考えているきらいがあるけれども、実際のところ、著者の哲学は、限りなく「文学」に接近しているように見える。
最近の日本の「文学」は、「娯楽小説」と大差がないかもしれないが、古来、文学者だって「文学する」ことで「哲学する」ことをしてきたのだ。だから、著者の哲学が「コラム的」でも一向にかまわないのだが、問題は、その切れ味であり、斬り込みの深さなのだと言えよう。

「抜けば玉散る氷の刃」も良いけれど、刃を置くとその自重だけでズブズブと切れてしまうような重い刀も悪くない。
哲学者は、刀剣愛好家ではなく、刀そのものであり、その使い手であるべきだ。
この時代は、『鬼滅の刃』などのキャラクターものの(バンダイ製の精緻な)模造刀ほうが、むしろウケが良かったりするのかもしれないが、そんな流行は、また別の話なのである。

初出:2021年8月29日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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