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「すがる」ことから解放されることで、心はかるく、自由になる。

昔々、私の尊敬する女性のblogにこんな内容のことが書いてあったんです。

〝 どんな男性と付き合うかということは、私の幸せには一切関係ありません 〟

これを読んだ当時の私って完全に他人軸・常識軸の世界観で生きていたので、その時の感覚では「そうはおっしゃいましても…」という感じで正直あんまりピンときていなかったんですよね。


でも今になってみて、私の人生観ってこの言葉の影響を大きく受けているんだなってすごく感じるのです。

(ちなみにこのマインドが自分のものになり実生活に活かされるまでに実に五年の歳月がかかっております。汗)


誰に教えられたのか、無意識レベルで「女の幸せは男で決まる」という思い込みが染み付いていて、そのことを私は疑いもしていなかったのですね。


だから、自分を「幸せにしてくれそうな」パートナーを探すことが、女性にとっての人生の正解なのだろうって、(頭では抵抗しつつも)なんとなくそんなもんなんだろうって無意識的に思っていたのです。

理想的な性格、理想的な経済力、理想的な価値観の相手を探し当てることが、女の幸せなんだろうって。


でも、そうじゃなかった。全然違ったんです。

他人に「すがる」ことが、人の幸せであるはずがなかったんです。


そして「幸せを与えてくれる他人と出会うことが幸せ」という観念を手放すことで、私たち女性はすごくすごく自由になれるって、そう思ったんですよね。



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最近彼にたいして心の底からこう思うんです。

自分を大切にして、できれば健康で、できれば楽しく、できれば私の近くで生きていてくれたら、それでいい。

あなたが今この瞬間、何をしてどんな気持ちで過ごしていようと関係ない。

何かしてくれるからとかじゃないの。


私が惚れた男なんだから、どんな時も何してても世界一カッコいいに決まってるって。


「私が惚れた人だから世界一カッコいい」って、自分で言って自分の暴君っぷりにときめいてる。笑。


あー私、多少は成長したのかなあって思った。

こう断言できるようになったのは、私が自分にたいして「あれがダメこれがダメ」ってごちゃごちゃ言わなくなったからなんだろうなあって。

私が自分のこと「わたしだから」っていう理由一択で大好きになれたから。

自分の中の “世話焼きおかん” (いつかの親の幻影)から、親離れができたから。


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子どもの頃に、もうちょっと遊んだら宿題やってやろうかな… と思っていた矢先に「勉強は?」って親に詰められてげんなりする、みたいなシチュエーションってあるあるですよね。

その「勉強は?」って言ってしまいたくなるような、自分や他人への(余計な)親心のようなものを手放すと、人ってすごく楽になれるんだなあって思ったんです。

特にパートナーや家族など、近い他人への期待や干渉ほど、手放す価値がありますよね。

期待や干渉の根底にあるのは、まさに相手に「すがっている」という心の状態だから。


人にすがることをやめると、自分も他人もげんなりさせなくて済むから、環境にやさしい。平和が訪れます。



「こうしたらもっと良くなるのに」って言いたくなるコントロールを手放すと、相手は甘えて何もしなくなるんじゃないんですよね。

その人の持つチカラを、のびのびと “その人のやりかたで” 発揮できるようになる。

純粋に信じてくれる人がいるってことは、それだけ生きる上での心の栄養となるものです。


コントロールを手放すと、自分サイドが想像するのとは全然違う角度で相手が飛躍していったりするので、こちらとしてはハラハラしたり心配になったりもします。

でも、どんなに近い相手であっても他人は他人。

近い他人である私のすべきことは、ただ(自分を)信じて(相手を)見守るだけ。


「この私が惚れてんだから、あんたは世界一いいオトコに決まってんだよ」ってね。


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私がこんなふうに言うと、結構な頻度で「そんなこと言って甘やかしたら男はダメになるのよ」と眉間に皺の寄った顔で返されることがあります。

きゃー怖い、何様なのって思います。

何様なのと思うのと同時に、自分と相手のこと低く見積もりすぎでしょう、と悲しくもなります。


たしかに、相手をコントロールしようとしない(できない)理由が「嫌われるのが怖いから」とか「相手の機嫌を損ねることが怖いから」という忖度によるものだと、そこには暗黙の上下関係のようなものが生まれます。

そして相手の機嫌取りに走るということは、自らその上下関係なり主従関係なりに縛られにいくようなもの。

そんな地盤の緩い場所(自己信頼感の整っていない状態)で安心や幸せを感じようって思ったって、なかなか難しいですよね。


でもそうではなくて、不自然な期待や干渉を必要としない理由が「自分(と相手)を心底信頼しているから」というものなら、そこにはただただ安心の世界が広がっていくだけ。

そして 「なんでかわかんないけど結局大丈夫なんだよなあ」 「なんでなのか上手く説明できないけど予想外に上手くいっちゃうんだよなあ」 みたいな体感で日常が埋め尽くされていく。


まあ、そりゃあそうなんですよね。自分を信頼している世界ってそういうもんだから。


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彼は私と出会ってから、目に見える形で社会的に成長もしているし経済的にも以前より目に見えて豊かになっているらしい。

(これは私のおかげということではなく、愛を注ぐ対象ができたことによる人体の自然な反応によるもの)


でも私は、今はそこにあんまり興味がありません。

もちろんそのことで彼が嬉しいと感じるなら私は幸せだし、以前よりも私に尽くせるようになったことや、以前よりも私の前でカッコつけられるようになったことで気持ち的に余裕や自信が持てるようになったのならそれは喜ぶべきことだけど、

私は脳がイヌさんなので、大好きな人が近くにいてかまってくれたらそれが何よりの喜びなのです。


彼が(社会的に)何者であるのかなんて関係ない。興味もない。

私はただ、彼の笑顔を見ながらしっぽふって目ぇきらきらさせて息切らしながら永遠によだれ垂らしていたい。それだけなんだよな。


***


そういえばあまり話したことがなかったのですが、一時期は今でいう “港区女子” 的なことをしていたことがありました。(単語の説明は割愛)

ただ単純に楽しかったというのもあるのですが、その頃の私は「私を幸せにしてくれる完成品」を探していたのかもしれませんね。


そんな私が、今やこんなことを言っていると知ったら、その頃の友人たちや、何より当時の私は何を思うのでしょう。

真実の愛を求め、出家でもしたような気分です。


そうやって自分自身をリスペクトできないまま恋愛や恋愛ごっこをしてきて、たくさん苦い思いをしたからこそ、

相手に「私の承認欲求を満たしてほしい」とすがらずに、思考や計算を放棄したイヌさんと化してブンブンしっぽふっていられる(純粋にすき!の気持ちに全振りできる)ことの幸せを噛みしめています。


そして自分が自分をリスペクトするのかしないのかで、人間関係の行き先がここまで変わっていくものなんだーという体験を(天国ver.と地獄ver.どちらサイドからも)してみて、本当おもしろいなあよく出来てるもんだなあって思ってます。

そんなわけで、これからも二人の恋愛を興味深く見守ろうと思います。


本日もお付き合いありがとうございました。

ではまたあ。



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