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BE MY BABY 後編

 前編のあらすじ

 カリスマロックバンドRain dropsのリーダーである照山は初めて恋をした。その恋の相手はバンドの宣伝のために出演したテレビ番組の司会をやっていた人気女優の美月玲奈であった。照山は番組の収録後美月に恋をしたことに取り乱し突然スタジオ内を駆け回るという大失態を犯してしまう。しかしそのことがきっかけで彼女と近づくことになる。だが精神的に少年で異性との交際経験がなく、あまりにも不器用な照山はなかなか自分の気持を伝えることができずに時は過ぎていった。

インディアンサマー


 それから照山と美月玲奈は空いた時間を見つけて会うようになった。ただ会うと言っても美月は人気俳優で、照山もブレイク寸前のカリスマロックミュージシャンであったから、デートの時間などたやすく時間など取れるはずもなかった。だが二人はそれでも会いたかった。二人の恋は年中無休の二十四時間営業だった。30分でもいい、いや10分でもいい、開いた時間を無理矢理見つけて互いのいる場所へ駆けつけた。そんなに毎日逢いたいなら同棲でもすればいいじゃないかと事情を知らない人は言うかもしれない。だが美月は人気女優であり、大事なドラマの主演を控えていて、事務所からスキャンダルだけは絶対に避けるようにキツく注意されていたので、同棲どころか事務所に照山との交際を報告することさえできなかった。しかし恋の道をひた走る美月にとってはドラマなんかより照山のほうが遥かに大事であっただろう。彼女は照山が一緒に住もうと一言言ってくれれば事務所をやめてでも彼のもとへ向かったに違いない。だがその肝心の照山は少年丸出しであり、同棲どころかまともな男女関係にさえ踏み込めなかった。彼は美月と逢っている間も彼女の視線の意味さえ気づかずにただ無言で美月を見つめ返すだけだった。

 照山と美月はこのようにデートを重ねていたが、デート中はほとんど美月が喋っていた。彼女は自分の近況や、照山の気を引こうと彼に向かって今聴いてるアーチストや、今読んでいる本のことを喋った。彼女は照山がはにかみながら相槌を打つと喜んで話を続けた。彼女は自分ばかりではなく照山の話が聞きたいと思い、たびたび彼に話を振った。しかし話を振られても精神的に少年である照山は口ごもってしまいまともに話すことなど出来なかった。彼はそんな時いつも「こうして君といられるだけで幸せだ」とか言ってそれっきり口を閉じてしまうのだった。美月は当然照山と一緒にいるだけで幸せだったが、もっと彼の声が聞きたかった。その頑なに閉じた唇を緩ませたかった。照山もまた美月とあった後いつも彼女に対して自分がろくに喋れなかったことを悔いていた。だから彼はせめてものお詫びに美月と別れて家に帰るとすぐに美月にLINEをして自分が今日聴いていた曲を並べて君の心に捧ぐとメッセージを書き、さらに熱い文章で美月への決して変わることのない愛の言葉を綴った。美月はその言葉に感激して照山に負けんばかり熱い愛の言葉で返信した。その中で美月は照山が特におすすめするロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』を聴きたがった。彼は君の事務所にCDを送るからと聴いてくれと書き、早速郵便で『ビー・マイ・ベイビー』だけではなく自分の好きな曲が入ったCDをまるごと彼女の事務所に送った。これは照山の恋であり、また狂気であった。美月は事務所に照山からの郵便が届いたか確認するとすぐに自分の家に届けさせ、いざ荷物が届くとCDの山の中から『ビー・マイ・ベイビー』を取り出して聴いた。そして長い感想をLINEで照山に送ったのだが、その中で彼女は『この曲を聴いてると照山くんと一つになっている気がする。いや違う。気がするじゃなくて一つになっていることが確かめられるの』と書いていた。ああ!美月もまた恋の狂気に侵されてしまったのだ。この青春の光と影を全て味わい尽くした女が肌さえ触れ合っていない男にここまで夢中になるとは。

 しかしこうして二人で会って過ごす時間はじきに終わろうとしていた。美月のドラマのクランクインの日は近づき、照山もまた全国ツアーの準備に入らなければならなかった。二人はそれでもいつものように会ったが、その時照山が珍しく口を開き美月に対してドラマのことを色々と質問した。美月はすぐに照山の意図を察して、今度のドラマは女の子の友情がメインでラブストーリーじゃないから照山くんが心配するようなことはなにもないからと彼を安心させようとした。しかし照山はいつもの寡黙さを放り出し不安げな表情で自分の気持を語るのだった。

「僕は不安なんだよ!たとえドラマでも君が誰かに抱かれていることに耐えられない!そんなものを見たら僕の心臓は張り裂けて無残にも飛び散ってしまうよ!」

「大丈夫よ!照山くん。私事務所に言ってあるから。今後キスシーンやベッドシーンは絶対にしないって!」

 そしてLINEではもっと赤裸々なやり取りが繰り広げられた。照山は毎日君が他の男に抱かれて眠っている夢を見ると具体的なシチュエーションを書き連ね。そして僕の不安を消し去るためにドラマを降板してくれと懇願した。美月は必死に照山を宥め、『さっき言った事をここに誓うわ。照山君のために二度とキスやベッドシーンはしないから』とあらためて誓いを立てたのだった。

 一方美月もまた同様の不安を抱えていた。彼女は自分が照山の忌み嫌う芸能人であることに負い目を抱き、照山が全国ツアーに旅立ってしまったら、ツアー先の地方で純朴な乙女と恋に落ちてしまうんじゃないかという妄想が頭をもたげるようになってしまったのだ。やけになった美月はLINEで照山に私なんか捨ててもいいからと書くと照山はすぐさま返信をして美月に言うのだった。

『君は何を考えているんだ。僕が君を捨てる訳ないじゃないか!どこへ行っても僕の魂は君と共にある!』


 こうして二人の恋は不安からくる苛立ちのあまり度々諍いを起こしながらも続いていた。しかし後から考えて見るとこの時の二人はまだ幸せであった。二人にとってこの時期は一種のインディアン・サマーであった。照山はこの時期LINEで美月に向かってドアーズの『インディアン・サマー』の魅力を熱く語ったことがある。もう少しこのまま二人でいたい。いや、いっそ時間が止まってしまえばいい。二人は近づく秋の到来を前にして逢う度にそう呟いた。しかしこのとき二人はやがて来る未来について何も予想していなかっただろう。運命とは常に残酷に人を弄ぶ。それは照山と美月のような真実の愛に結ばれた恋人たちも例外ではないのだ。

すれ違う二人

 Rain dropsの待望のニューシングル『少年だった』とアルバム『少年B』が発売されるとネットは勿論、音楽業界やテレビ業界に至るまで一斉に大騒ぎとなった。彼らのアルバムはそれほど衝撃的だったのである。彼らは日本のロックが待ち焦がれていた新しきカリスマだった。その少年性をむき出しにした激しく切ない曲たちはファンの女の子は勿論、今まで日本のロックをろくに聴いていなかった年配の老人の心さえも打った。その衝撃は文芸の世界にも及んだ。文芸誌は揃って照山の書く文学性に満ち溢れた歌詞を絶賛し、とある文芸誌などは照山を二十一世紀のランボーだとまで言い切った。その騒ぎの中でどっかの週刊誌が照山の父が大学教授で地方の国立大学でロシア文学を教えていることを突き止めた。多くのファンはやはりあの文学性に満ち溢れた歌詞は生まれ育った環境によるものかと納得したが、その話題に便乗するつもりか、Twitterに照山の父の大学時代の同窓だったという者が現れて照山の父の大学時代のエピソードを思いっきり暴露した。その同窓の話によると照山の父は照山に負けず劣らずの熱い男で、大学時代はロシア=ソビエトの詩人マヤコフスキーを研究しながら自らも詩を書いていたそうだ。しかし照山の父はある時マヤコフスキー好きが高じて詩人と同じように頭を丸く剃ってしまったらしい。しかし元来若ハゲ気質だった照山の父の髪は殆ど元に戻ることはなくそのままツルッパゲになってしまったということだった。同窓は最後にこう書いている。

『いやぁ〜、でも息子さんは立派ですよ。コンドルが鷹を産んだというか、彼は親父にないものを全て持ってるんだから。あいつと違って髪は黒々と溢れるほどあるし、才能なんかもう有り余るほどある。息子さんにはこれからも大活躍して欲しいですなぁ〜!』


 美月は当然このRain dropsのブレイクを喜んだ。インディーズ時代からファンだったバンドがとうとうトップバンドの仲間入りを果たしたのだ。しかしそれと同時に一抹の不安を感じた。彼女は照山が自分の手の届かないところに行ってしまう気がした。彼女はニュースでこのことを知るとすぐさま照山にメッセージを送った。

『照山君おめでとう。Rain dropsあっという間に大きくなっちゃったね。なんか私の手の届かないところに行っちゃいそうだよ』


 Rain dropsの突然のブレイクによって照山と美月はますます会えなくなってしまった。今までだったら美月に比べれば多少暇のある照山が美月の連絡を待つだけで良かった。しかしRain dropsがブレイクした途端照山のスケジュールもたちまちのうちに埋め尽くされてしまった。照山は至るところで新たなる邦楽ロックの新しきカリスマともてはやされ、テレビ出演依頼が後を経たなかった。芸能人は老いも若きもRain dropsを褒め上げ、実際に彼らに会った芸能人は皆彼らの礼儀正しさを褒め上げた。予定されていたツアーは予想外のブレイクのせいで公演会場がいくつも追加されることになり、全国縦断ツアーとなってしまった。憧れの武道館どころかツアー最終公演を東京ドームでやることまで決まってしまった。事務所やレコード会社はこの成功の機会を逃さぬようにと照山に早く次の曲を作るように催促した。Rain dropsにとってはそれはたしかに望んでいた成功だった。だがあまりにも急激すぎたのだ。彼らは突然降ってきた成功という名の豪雨を浴びてただ立ち尽くすだけだった。この激烈な日々が照山とRain dropsを狂わせ後の全てが抜けるほどの大悲劇を産むのだが、それはここでは語るまい。照山はこのあまりに多忙なスケジュールの中で毎日必ず送っていた美月へのLINEを忘れてしまう事さえあった。忘れていたことに気づくと彼は慌ててLINEを開いたが、そこには必ず美月のメッセージがあった。

『照山君どうしたの?私ずっと待ってたんだよ』

 彼はそのたびに慌てて返事を送り忙しくてスマホを見る暇がなかったんだと言い訳を書いたが、そのたびに自分が彼女に対して罪を犯しているような気分になった。美月から電話がかかって来ても話す時間さえなかった。このままではいけないと今度は照山から電話をしたが美月にはつながらず、LINEを送っても返信は来なかった。照山は不安のあまり美月に今すぐ返事がほしいとLINEを送ったが梨の礫だった。勿論後で美月からはごめんねと言葉と共に返事が送られてきたが、そこには照山と同じようにただ忙しくてスマホを見る時間がなかったと書かれているだけだった。

 照山と美月は完全にすれ違ってしまっていた。二人はLINEでどこかで会おうと相談したがその相談の会話さえ途切れ途切れになってしまうような状態になってしまった。美月はドラマの収録でスタジオに缶詰状態だし、照山は照山でスタジオ作業やらテレビの収録やら雑誌のインタビューやらに追われていた。しかももうじきRain dropsの全国ツアーが始まろうとしていた。全国ツアーに入ってしまったら美月にしばらくは会えなくなるだろう。その前になんとしてでも彼女に逢いたい。照山はどうにか暇を見つけて美月にLINEを何度も送った。そして何時間かたった後ようやく彼はリハーサル中のスタジオで美月のLINEを確認したが、そこにはドラマの収録やらCMの収録やら雑誌の取材やらでもう抜け出せないと書かれており、更にこんなことが書かれていた。『最近事務所が私を監視しだしたの。もしかしたら私達の関係バレてるかも』

 バレてるだって?君は僕らの恋をそんなやましい行為だと思っているのか!と照山はスタジオのトイレで憤激のあまり思わずLINEから電話をかけた。照山は彼女を怒鳴りつけてやるつもりだった。僕らの恋は神聖なものだ。それを犯罪行為みたいに言うのはどういうことなのだ。君は僕との恋を犯罪だと思っているのかと。しかし美月は出ない。もしかして僕を避けているのか。照山の頭の中に不安がよぎる。しかしその不安は瞬時に断ち切られた。美月が電話に出てきたからである。

 電話口の美月は明らかに苛立った調子だった。彼女は電話に出るなり照山に向かってなんで電話してきたの?と問いただしてきた。照山はその剣幕に押されてさっきの怒りなど全て吹き飛んでしまった。彼は美月の剣幕に動揺しまくってただこう言うしかなかった。

「君の声が聞きたくて電話したんた……」

 長い沈黙があった。照山はこの沈黙に耐えられず、美月を呼ぼうとしたがこの異様な空気に押されて口を開けなかった。だが沈黙は突然断ち切られた。美月が深いため息をついてから話し出したのだ。

「照山君、今から例のレストランで合わない?お店には開けておくように言っておくから」

ここでキスしてよ!

 照山はこの美月の突然の誘いに今から君の元に飛んでいくよ!というとトイレから駆け出して彼を待っていたメンバーとマネージャーに急用が出来た。僕の命より大事な急用が出来たんだ!と絶叫してリハーサル中のスタジオを飛び出した。彼はひたすら駆けた。やっと美月に会える。どんなにこの日を待ち望んでいたことか。そして照山は美月との待ち合わせ場所のあのレストランに着いた。照山がドアを開けると早速店員が出迎えてくれた。彼はもうこのレストランの顔馴染みだ。店員もあの時のように彼を追い出したりはしなかった。彼は照山を早速美月の元へと案内した。

 美月はテーブル席でワインを飲んでいた。店員によると美月が店に入ったのはついさっきらしかったが、もうボトルを一本開けていた。美月は店に入ってきた照山を見ると頭を振って照山に席に座るよう合図した。

「で、さっきの電話はなんだったの?」

「電話でも言ったじゃないか。僕は君の声が聞きたかっただけなんだ」

「そうなの。たったそれだけだったの?なんか私もっと大事な話かと思ってた。わざわざドラマの撮影すっぽかして損したな」

 照山はこの美月のあまりにつっけんどんな態度を見て、怒りを覚えた。彼はさっきの美月のLINEを思い出して美月が自分たちの関係についてどう思っているかについて珍しく激しい調子で問いただしたのである。

「そうさ、君の言うとおり大事な話だったんだよ。というより今日は君が僕との関係についてどう思ってるかをハッキリと聞きたかったんだ。君はさっきのLINEで僕との交際が事務所にばれてるから気をつけないととか書いたね。僕はそれを読んで怒りを感じたんだよ。なんで事務所なんかに気を使う必要があるんだって。だってそうじゃないか。僕らは全く清い関係で世間に後ろ指さされることは何もしていないんだから。それを君に聞くためにここまで来たんだけどいざこうして来てくれた君を見たら何も言えなくなってしまったんだ。だけどやっぱり君に聞かずにいられない。あらためて聞くよ。君は僕との関係をどう思っているんだ。君はやっぱり事務所の連中と同じように僕との関係を世間に隠しておくべきだと思っているのか?僕は君と太陽に照らされた通りを一緒に歩きたいだけなのに」

 いつも美月の前では黙ってしまう照山だが、今日は珍しいほどストレートに自分の思いを吐き出した。美月は照山の眼差しを食い入るように見たが、やがて顔を背けて照山に向って言った。

「はあ、そういうこと。照山君らしいね。正々堂々と付き合いたいか。そんなこと私だって思ってるよ。私だって隠れてこそこそ逢ったりしたくないよ。だけどさ。私たちってそこまでの関係なの?いつもこうやって逢って話しするだけでその話だってほとんど私がしてるじゃん。照山君はいつも私の話にただ頷いているだけ。それって恋人同士の関係って言えるの?恋人同士だったらほらあるじゃん。相手の心の深くまですべてを共有したいっていうものがあるじゃない。私は照山君のすべてを知りたいし、すべてを共有したいの。だけど照山君は私に何も見せてくれないじゃない。いつも少年のような笑顔で私を見ているだけじゃない。そういうのを見てると悪いけど照山君は本当に私を好きなのかなって疑ってしまうの。結局私なんか照山の中に入れてもらえないんだって思ってしまうの」

 とここまで言うと美月は突然話を止めて頭を振って照山に向かって言った。

「ああ、なんか頭が熱くなってきた!ねえ照山君、外に出ない?酔い冷まさなきゃ!」

 美月はいきなり立ち上がって店員に挨拶するとそのまま店から出て行ってしまった。照山も慌てて店を出て彼女を追った。美月の言った言葉は照山の心をぐさりと突き刺した。すべて彼女の言う通りであった。会っているとき自分はいつも美月のいうことにうなずくばかりで自分からは何も話そうとしなかった。それは話すことが何もなかったわけではなく無意識に自分を守っていたためであった。思いをいったん口に出せば感情は激流のように流れ、自分を少年から限りなく遠くへ連れ去ってしまうだろう。照山にとって少年性とは自らの音楽に必要な表現というだけでなく、生きるための基準であり、生命線であった。少年性のない僕は僕ではない。少年性が世界から消えたらRain dropsは^勿論、僕自身さえこの世にないだろう。それぐらい彼は少年そのものであった。大人の階段を上らず、夏の林間学校のキャンプファイアーで女の子の手つなぎをかたくなに拒否した照山。その彼の前に今巨大な壁として大人への階段が現れたのであった。このまま美月と付き合えばいずれ大人への階段を上らなければならなくなる。手つなぎからはじまり、体を寄せ合い、そしてドラマのようなキスをするだろう。そしてその先には全く未知の世界が待っている。今ならこのまま美月を追うのを止めて少年の道に戻ることは出来るはずだ。だが今の彼にはそれは考えられなかった。なぜなら今照山の美月に対する想いは頂点に達していたからだ。彼女なしでは僕は生きられない。彼女といられるのなら少年なんて捨てても構わないとさえ考え始めた。

 美月は早足で街中を歩いていた。早く捕まえなければ消えてしまいそうだった。照山は駆け足で美月に追いつき声をかけた。しかし美月は照山を無視してひたすら先へと進んでしまった。このままではいつまでたっても二人は平行線のままだ。彼女の肩を叩けば止まってくれるかもしれない。照山は思い切って美月の肩に向かって腕を上げかけた。しかしその時だった。ずっと照山を無視してスタスタと歩いていた美月が突然立ち止まって照山の方を向いたのである。照山は驚いてすぐさま上げかけた腕を下ろして美月の言葉を待った。一体彼女は何を言うのだろうか。一体彼女は僕に何を望んでいるんだろうか。美月は相変わらず照山を見つめている。やがて美月が口を開いた。

「ねぇ照山君。そんなに私が好きなら、そんなに堂々と交際したいなら、今すぐここでキスしてよ!私を思いっきり抱きしめて熱いキスをしてよ!」

 照山はこの美月の言葉を聞いて足場さえ見失うほど動揺した。なんて事を言うんだ。キスしてよだって?君はふざけているのか!僕に、この少年の僕にキスなんて淫らな事できるはずないじゃないか。キスなんてしたら堕落へと一直線だ。少年性は忘却の彼方に追いやられ、残るのは醜悪な欲情だけだ。出来ない、絶対にキスなんてできない。照山はキッパリと断って美月に別れを告げようとした。僕と君は住む世界が違うそう言い放って立ち去るつもりだった。だが彼には出来なかった。彼がただ一人愛した人。その人を今失うなんて耐えられなかった。いっそ彼女の言う通りキスしてやれ。そんな思いも頭をもたげた。だがそんなことは断じてできない。そうしたら自分は一番大事なものを全て失ってしまうのだ。美月は目を潤ませてずっと彼の返事を待っている。もう耐えられぬ。照山の頭の中にさまざまな思いがよぎりとうとう彼はショートしてしまった。彼は頭を抱え何度も同じ言葉を呟いた。それは出来ない、それは出来ない!

「それは出来ない!僕にはそんな事出来ないんだぁ!」

 照山はこう叫びそのまま絶叫して駆け出した。彼は無我夢中で駆けた。というより美月という現実から全力で逃げたのだ。ああ!恋とはなんと重々しい実存を突きつけるのか。恋は甘い幻想ではなく、また淫らな妄想などではない。それは人生そのもののように重かった。照山は学校教育を甚だしく嫌悪していたが、それは大人になることへの本能的な恐怖からでもあった。彼は美月の言葉を聞いて改めて大人になることへの恐怖を思い知った。キスなんかのために純粋な少年性を失いたくない。キスして大人になったら僕は僕でなくなる。ああ!だけど彼は美月を心の底から愛してしまっていた。彼女のために少年性を捧げよと言われたら捧げかねない状態になっていた。今照山の心は真っ二つに割れていた。

恋人よ、君に我が少年を捧ぐ!


 道中で照山は突然蹲って号泣した。もう終わりだ!彼女の前であんな醜態を晒してしまうなんて!もっと冷静に考えてキスができない理由を説明すべきだったのだ。いや、やっぱりキスをすべきだったのだ。頭は見事なまでに混乱していた。頭の中にさっきの恥晒しのシーンが何度も現れて照山を責め立てる。ああ!これで終わりだ!美月からLINEを切られる前にこちらから切ってやれ!恋は幻想、君と僕は所詮住む世界が違うのさ。照山はそう呟いてポケットからスマホを取り出したが、ふと見るとそこに美月からのLINE通知があった。照山は思い切ってLINEを開いた。

『さっきはごめんなさい。私、照山君にとんでもない事言っちゃった。お願いだからさっきの事は忘れて下さい。あれは酔って口が勝手に喋った事なんです。照山君の事は誰よりも理解しているつもりなのに、なんであんな酷いこと言ったんだろう。多分なかなか照山君に会えない苛立ちであんな事を言ってしまったのかもしれません。お願いです。どうか私のこと嫌いにならないで。大好きな照山君に嫌われたら生きていけません』

 照山はこの美月のLINEを涙を流して読んだ。ああ!こんな僕をここまで愛してくれるとは!思えば僕は自分をこれほど愛してくれている人に対して何もしていなかった。いつも笑って頷いているだけだった。彼女は僕に全てを捧げるつもりだ。心も体も全て。そんな彼女に僕は何もしていないではないか。ああ!たしかに彼女の言う通りなのだ!恋人同士と言いながら恋人らしい事を僕は何もしていない。やはり僕も彼女に全てを捧げるべきなのだ。僕の全てを、生まれてからずっと守ってきた少年性を美月に捧げるべきなのだ。それが彼女に僕がしてやれる唯一のことなのだ。照山は一ヶ月後に行われる武道館ライブを思い出した。彼女がライブに来てくれたらそこで僕は彼女に全てを捧げよう。彼女に少年時代の最期を看取ってもらうんだ。僕はライブで泣きながら少年に別れを告げるだろう。そしてライブの後僕は彼女に全てを捧げるのだ。きっと彼女は僕と一緒に少年性を看取ってくれるだろう。これが愛する彼女にしてやれる唯一のことだ。僕の中の少年を全て捧げること。それが美月玲奈への愛なんだ。そして僕は大人となり彼女と共に人生を歩んでゆくんだ。それこそが僕に課せられた使命なのだ。だがそうなったら僕はどうなるのだろうか。少年でなくなった僕は一体どうなってしまうんだ。しかしもうそんなことはどうでもいいんだ!僕の未来は彼女とともにあるのだから!

 こう決意すると照山はコンビニの入り口で必死に美月への返事を書いた。他の客に迷惑をかけていることなんかどうでもよかった。どいてくださいと文句を言ってくる客の事なんかよりうざそうな自分を避けて通る客の事よりも美月のほうがよっぽど大事だった。彼は出口を完璧に塞いで美月への思いのたけを綴り、それから何度も何度も書き直した。そしてようやくすべて書き終えると穴が開くほど美月の名を見つめてからゆっくりとボタンを押した。

『返事ありがとう。さっきの事は全く怒ってないから安心して。いや、逆に僕は君の言葉を読んで深く反省したんだ。たしかに僕は君に何もしてあげていなかった。君はその溢れる想いを必死に僕に伝えていたのに。僕はその想いに全く応えていなかったんだ。たしかに君の言うように僕は心の全てを開いていなかった。だけどそれは君を信用してないとかじゃなくてただ僕の中の少年を守りたい一心だけだったんだ。だけど君の僕に対する想いを聞いてそれがどんなに馬鹿げたことであるか身に染みて感じたよ。だから僕は少年を君に捧げることに決めた。もうすぐ地方公演が始まるから君にはしばらく会えなくなると思う。武道館のライブの前まで東京には戻ってこれない。それで僕は君に一つお願いがあるんだ。君にその武道館ライブに来て欲しい。僕はそのライブの後で君に少年を捧げるつもりだ。君と一緒に少年から大人への階段を、まるで昔のベルリンの壁のような高い一歩を登りたいんだ。お願いだ!大人への階段へ登る僕に手を差し伸べておくれ!僕の少年を捧げられるのは君だけなんだ!』

 照山は美月にこうメッセージを送るとすぐさまスマホを閉じてポケットに入れた。彼は恥ずかしさのあまり頭を抱えた。少年性の塊の照山にとってそれはあまりにも赤裸々な言葉だった。今まで羞恥のあまり口に出すことすら憚られる言葉だった。こんなことを書くべきじゃなかった!彼女が僕のメッセージを読んだらどう思うだろう!あまりにも、あまりにもあからさまにあんなことを!こんなこと誰にも、自分の心にさえも語ったことはなかったのに!だが、もう送ってしまったものを取り消すなんて不可能だ。今の自分には美月の反応を待つことしかできないのだ。

 その時ポケットからスマホの振動が響いた。明らかに美月からの返信である。照山は震える手でスマホを手にとった。彼は自身の手の震えがスマホの震えと共振しているのを感じた。彼は胸が詰まるほどの高まりに耐えながらLINEを立ち上げて美月のメッセージを読んだ。

『照山君、武道館のライブ絶対に行くよ。マネージャーが止めても駆けつけるから。それから……最後まで読んだけど。照山君、ホントにいいの?本当に私があなたの大事なものをもらっていいの?』

『いいさ』 

 照山はこうたった一言書いて美月に送った。もう迷いはなかった。今度の武道館のライブが終わったら僕の全てを美月に捧げよう。美月に僕の少年の全てを注いで彼女と一緒に少年にさよならをするんだ。それから間もなく美月から返信がきた。その中にはたった一言こう書かれてあった。

『ありがとう』

 その後自分がリハーサル中でスタジオに戻った照山は心配していたメンバーとマネージャーに満面の笑みでもう人生最大の急用は澄んだ!と言うなりギターを持って超絶ハイテンションで掻き鳴らした。

帰ってきたRain drops


 それから照山は長い全国ツアーのスタート地である名古屋へと旅立った。Rain dropsの今回の全国ツアーは前半後半に分かれていて、まず西日本と沖縄を周る西日本ツアーで始まり、その後一旦東京に戻って武道館公演を行う。武道館公演後、今度は東日本と北海道を周る東日本ツアーを行う。ツアーの最後は東京ドームで締められる。美月もドラマの収録でスタジオに缶詰状態になっていたが、それでも二人の絆は決して途切れたりしなかった。どんなにLINEや電話のやりとりが途切れ途切れになってももうお互いの愛を疑う事はなかった。ただ一心に相手の返事を待つだけだった。その短いやり取りの中で二人は互いの愛を確かめ合い、そして来るべき武道館ライブについて熱く語り合った。照山は美月に君の好きな曲をやりたいっと書いたが、美月は考えた末にこう書いてきた。

『私の好きな曲『すべての悲しい女の子たちへ』と『恋以上愛未満』、それと『By My Baby』歌って欲しいな。照山くんが教えてくれたこの曲聴くと照山くんと同じものを見れるような気がするの。照山くん言ってたよね。この曲聞くと君の顔が浮かんでくるって。私も同じ気持ちになるんだ。Rain dropsの曲じゃないけどいい?』

 悪いわけがなかった。美月の言ったように今もこの曲を聞いて彼女を思い浮かべる。この曲の主人公は僕に恋する美月だし、その恋心を歌う資格があるのは僕だけなのだから。照山はすぐに美月に向かって返事を書いた。

『絶対に歌うさ!武道館で君だけに歌うさ!僕のすべてを!この僕の少年性のすべてを込めて!』

 二人のLINEのやり取りはだんだん短いものになっていったが、しかし二人の想いは凝縮されたように濃密になっていった。照山は美月の返信がなくても毎日メッセージを書いた。それは美月も同じであった。二人は確実に想いの届くメッセージボトルに相手への想いを入れて流していたのだ。

 そして照山率いるRain dropsは西日本ツアーを終えて武道館公演のために東京に帰ってくることとなった。西日本ツアーは予想以上に盛り上がり、まず名古屋では熱狂的な女性ファンが照山にシャチホコをプレゼントするだぎぁと名古屋城に登って大問題になり、続く大阪ではライブ帰りの興奮したファンたちがRain dropsのためならいつでも死ねるねんと道頓堀に飛び込む珍事まで発生した。また四国の各県のファンはRain dropsどっちゃも行かせんと、空港会社や船舶会社にしばらくの間運行やめてやとひたすらイタ電しまくり、九州では一部のファンが照山をどけも行かせんと彼を桜島に拉致して一生九州に閉じ込めるという計画まで立てられる事態になった。ある県の局のテレビニュースでとあるコメンテーターがRain dropsの歩く所に騒動ありと発言していたが本当にその通りであった。その西日本に騒動を巻き起こしまくったRain dropsがいよいよ東京に帰ってくる。恐らく彼らは西日本ライブの大成功の勢いをそのまま武道館公演に持ち込んでくるだろう。至る所に貼られた武道館ライブ告知のポスターを見て、すでにチケットを購入していた関東のファンはその日が来るのを固唾を飲んで待っていた。

 美月は誰よりもRain dropsの帰還を待ち侘びていた。愛する照山がやっと帰ってくる。恐らく彼は初の全国ツアーでいろんなトラブルを乗り越え一段と逞しくなって帰ってくるだろう。彼女は今すぐにでも照山に会いたかった。照山がもうすぐ帰って来るという喜びでドラマの撮影さえ上の空になりNGを連発してしまった。そんな彼女に対してバラエティの仕事が控えているらしい男性アイドルの共演者はブーブー言った。照山がもう少しで帰ってくる。美月は照山に逢いたい気持ちで一杯だった。それどころか会わなければ照山に対する想いのせいで自分が張り裂けてしまいそうだった。だが彼女は来るべき武道館公演のためにリハーサルを重ねている照山の姿を想像してそんな自分を戒めた。照山は今武道館ライブのために全力で練習している。なのに自分はそんな彼に会えるという事に浮かれてドラマの撮影に集中出来ていない。美月はそんな自分を責めた。こんなんじゃ照山君に向き合えない。こんな私に彼に会える資格なんてない。彼女はそう自分を叱咤してセリフを叩き込むために台本を必死になって読み始めた。その美月にいつのまにかそばにいた先程のアイドルが話しかけてきた。

「なぁ、次回から結構台本変わるみたいだぜ」

 このアイドルの話に台本を読み込んでいた美月は興味なさげに「あっそう」と振り向きもせずに答えた。もう彼女にはバカアイドルと雑談なんかしている暇はなかった。今はただ自分のやるべき事をやるだけ。照山にまっすぐ顔を向けることができるように。


 いよいよ我らがRain dropsが東京に帰ってくる。こんなタイトルでマスコミはライブまで一週間を切った頃から各メディアで大々的に流れ出した。マスコミはずっとRain dropsを取り上げていたが、ライブ前日になると完全ヒートアップし一日中Rain dropsを取り上げた。取材陣は武道館のリハに向かうRain dropsに張り付き、メンバーが現れると一斉にマイクとカメラを向けた。照山を初めRain dropsのメンバーはその記者たちに向かって深くお辞儀をして去っていった。これをテレビで見た高齢の視聴者は今時なんて礼儀正しい若者と一瞬にしてファンになってしまった。

 テレビ各局は至る所でRain dropsの楽曲をかけた。いぢめ問題のニュースには『少年だった』、パパ活問題のニュースには『セブンティーン』、女子高生の自殺のニュースには『すべての悲しい女の子たちへ』等とにかく少年少女の問題を扱ったニュースにこの十代の少女たちのカリスマバンドの曲を無理矢理ねじ込んだ。ファンはもう狂乱状態でライブに参加出来たものも、出来なかったものも明日のライブについて各々熱く語っていた。ファンの一部は明日のライブ会場の武道館の前に集まってRain dropsの名をコールまでしていた。

 そしてとうとう武道館ライブの日がやってきた。当日の九段下は大混乱だった。少女たちの大群で駅構内は埋め尽くされ、降りるに降りれないような状態になってしまった。チケットを手に入れた少女たちは意気揚々と武道館に向かったが、一方チケットを手に入れられなかった少女たちは『Rain dropsのチケット売ってください。私にできる事ならなんでもします』と書いた段ボール用紙を掲げて道行く人にチケットをねだった。彼女たちのこの激しいまでのバンドへの情熱が理解できぬ人は多いだろう。だが思春期とは常に大人には理解できぬものだ。少女たちは今Rain dropsに文字通り青春のすべてをかけていた。

 美月玲奈もまたRain dropsのライブにかけていた。いや、少女たちより遥かに激しくRain dropsを求めていた。今までずっと離れていた照山に今日やっと逢える。収録現場のスタジオの楽屋にいる今も心は武道館へと飛んでいた。美月は度々スマホを取り出しては照山のメッセージを確認した。しかしメッセージはない。照山は今武道館にいる。ああ!今すぐ会いに行きたいけど、私なんかが逢いに行ったら彼に迷惑をかけてしまう。だけどこんなところでいつまでもいたら頭がどうにかなってしまう。美月は収録がいつまでたっても始まらないのに苛立った。予定では収録は夕方には終わり、ライブ開始の19:00には十分に間に合うはずだ。だが今予定開始時間を過ぎているのに呼び出しさえかからない。演出が急に変わったとかでスタッフ同士でミーティングしているらしい。こんなトラブルはしょっちゅう起こることで、いつもは苛立ったりしないのだが、今日は別だ。美月はマネージャーに向かって収録はいつ始まるのか聞くように頼んだ。このまま始まらなかったらもうと思った時スマホが鳴った。彼女はハッとしてスマホを見る。照山からのLINEであった。

『美月さん、しばらくLINEできなくてゴメンね。今まで君に迷惑をかけたくなくてずっとLINEを控えてきたけど、今日はやっぱり君に僕の気持ちは伝えなきゃいけないと思ってLINEしたんだ。今日のライブだけどセットに君のリクエスト全部入れたよ。いつ演奏するかはその時まで楽しみにしていてくれ。僕はとにかく今日のライブを君のためだけにに歌いたい。他のファンには申し訳ないけどこれが今の僕の正直な気持ちなんだ』

 照山のLINEを読んで美月は歓喜のあまり目を潤ませた。照山君は今日は私のためだけに演奏してくれる。私も照山に恥ずかしくないように自分のやるべき事をやらなくちゃと思った所でマネージャーがスタッフを連れてやってきた。ようやく収録の準備が終わったそうだ。

 その日の美月の演技は異様に冴えた。周りもその美月の演技に影響されてか普段以上の演技を見せてNGを出すこともなく、あっさりと本日の全シーンを撮り終えてしまった。その後で軽い最終チェックがあり、それも全て終わると美月はスタジオから飛び出し待っていたタクシーに飛び乗った。今は五時半である。出発が予定よりかなり遅れてしまったが、今から行けば開演には無事に間に合うはず。美月はタクシーに乗ると早速照山にLINEで今タクシーで武道館に向かっている事を伝えた。彼女ははやる心を早くしろボケ!とタクシーの運転手怒鳴りつける事でしか抑えられなかった。心は武道館の会場にいるのに、どうして体は少年とは程遠い汚れ切った親父の運転するタクシーの中なのか。

伝説の武道館ライブ その1


 同じ頃、照山はライブ前の音響チェックを終えて今はトイレでライブに不必要なものを全て出すために全身を集中させていた。ライブには美月が来る。自分はその美月のために歌い弾くだろう。大歓声の中で彼女のところまで自分の歌が届くだろうか。そう考えて彼はふと自分は美月のために他のファンを蔑ろにしていないかと思った。先程照山は美月にやっと会えることに興奮してLINEに今日は美月のために歌うと書いた。だがそれでよかったのか。自分はRain dropsなんだぞ。Rain dropsの歌は全てのファンに届けるべきじゃないのか。彼は沸々と湧いてきた疑念に答えを見出すために必死に自問自答した。美月一人のために歌うか、それとも彼女を含めたファン全員のために歌うか。彼は自問自答の果てにこんな答えを見つけた。美月をはじめとする全てのファンのために歌う。これが照山の出した答えであった。美月は典型的なRain dropsファンだった。女優である前に一人の悩めるか弱い女の子であった。その彼女をはじめとするファンのために僕は歌う。照山はそう自分に言い聞かせてトイレの扉を開けた。すると目の前にいたローディらしき男がトイレから出てきたのが照山だと気づかずその去り行く後ろ姿に向かって思いっきり文句を言った。

「おい、いつまでもクソしてんじゃねえよこのボケ!ほら見ろ、タイルに全部漏らしちまったじゃねえか!」

 楽屋に戻るとすでにライブの準備を済ませていたメンバーが一斉に立ち上がって彼に声をかけた。

「おい、遅いぞ照山!あんまり戻って来ねえからお前を探しに行くところだったぜ!」

 ギタリストの有神がそう言いながら照山の頭を叩いた。照山は照れて頭を掻きながらトイレで精神集中していたのさと答えた。メンバーは照山の滅多に言わない冗談に大笑いし全員で彼の頭を叩いてツッコミを入れた。そしてみんなの笑いがおさまったのを見て真剣な顔で言った。

「今日僕らの記念すべき初の武道館ライブだ。ファンのために命懸けでやろう!ファンの心にRain dropsの名を刻みつけるんだ!」

 照山の言葉にメンバーは喊声を上げて答えた。もう少しでライブは開演する。Rain dropsのメンバーは楽屋を出てステージへと向かう。照山は今運命の扉の前に立っていた。もう少しで扉は開くそこに入ったらもう少年時代の自分には帰れない。だがそれでもいい。僕は美月玲奈にすべてを捧げることに決めたんだから。その照山の心情を察したのか突然スマホが鳴った。照山は美月のメッセージをそこに見た。美月さんが今僕に逢いにくる。彼は心臓の鼓動の高まりを感じながらライブを待った。


 美月を乗せたタクシーは渋滞に巻き込まれ、会場に着い時にはすでに開場時間が過ぎていた。彼女タクシーの運転手に料金を払いすぐに武道館へ向かおうとしたが、なぜかタクシーの運転手が彼女を引き止めた。美月は料金は車の中で払ったじゃないと訝しんだが、なんとタクシーの運転手はにこやかに色紙を出してサインをねだってきた。

「あなた美月玲奈さんでしょ?いつもテレビで観てますよ。私の息子があなたのファンでしてねぇ。息子のためにサインくださいよ!」

 美月は今どういう状況かわかっているのかとタクシー運転手を車に縛り付けてアクセル踏んでどこかにぶつけてやりたかったが、元々人のいい美月はそんなことはできず笑顔でサインに応じた。それが済むと彼女は全速力で武道館へと駆け出した。彼女は帽子もマスクもつけず、顔を晒してただただ武道館へと走った。彼女の頭の中にはRain dropsの『少年だった』がエンドレスで鳴り響いていた。少年だった、少年だった。美月は曲の疾走感に負けじとひたすら武道館へと走った。Rain dropsを求めて武道館まで必死に走る彼女は女優美月玲奈ではなくただの一人の女の子であった。そう彼らの代表曲『すべての悲しい女の子たちへ』の曲で歌われるような。

 武道館でチケットの確認が終わると会場のスタッフはすぐに美月を中に入れた。スタッフはきっと汗だくで武道館に現れた人気女優を見てビックリしただろう。そりゃ確かにRain dropsは今注目の的だし芸能人だってライブにくるだろう。だけどこんな汗だくで息を上らせてライブに来る芸能人なんて見るのは初めてだ。

 美月は会場へと続く扉を前にして震えた。彼女のために会場のスタッフは扉を開けてくれたが、その瞬間馴染みの曲のイントロのパーカッションが地響きと共に流れてきた。『BE MY BABY』である。美月はこの偶然に目頭が熱くなった。しばし歓喜にに咽んで立ち尽くしていた美月をスタッフが中に入るように促した。もう少しでライブが始まるのだ。

 チケットに載っている壁際の自分の座席を見つけた美月はそこからステージを見て結構距離があるのに愕然となった。ライブのホームページの座席表を見て確かにあまりいい席じゃない事はわかっていたが、こうして実際にライブ会場に来てみるとそれがあからさまにわかるので悔しくなった。だが彼女はこうしてライブに来れた事がすでに奇跡なのだと自分を戒めた。

 美月は席に座り隣の客に軽く挨拶したが、隣の客は彼女を見てなんで人気俳優がこんな端っこの席にきてるんだと訝しげに見た。SEはまだ続いていた。会場から次々とエデットで曲が流れていたが、それはすべて照山から教えてもらった曲だった。ビートルズの『アンド・アイ・ラヴ・ハー』、ドアーズの『インディアンサマー』、エルヴィス・コステロの『アリスン』、スミスの『ハンド・イン・グローブ』どれもラブソングだった。美月はそれに気づいて思わず涙を流した。隣の客もまた泣いていた。彼女たちだけでなく会場のあちらこちらで啜り泣きの声が聞こえた。その涙に何よりもファンがどれほどライブを待ちわびていたかを語っていた。だが美月は涙を拭いてまっすぐ無人のステージを見つめた。まだ照山は来ない。だけど彼の息遣いはかすかに感じられる。しばらくしてそれまで人がいなかったステージに人が現れた。もうすぐ照山くんに会えると美月が思った瞬間、突如SEが消え暗闇のステージにライトが灯った。それを見たファンは一斉にステージに向かって叫んだ。美月もまた同じように叫んだ。

 ナレーションが機械的にライブの際の注意事項をアナウンスしたが、会場は誰も聞いていなかった。あるファンなど毎度のアナウンスに腹が立ったのか、「いちいちうるさいわよ!私たちがRain dropsのためにどんだけ注意を守ってると思ってるのよ!」と抗議した。その声に呼応して他のファンも「そんなことより早く照山くんを出して!」と叫びこれに火をつけられたのか会場から照山コールが鳴り響いた。「照山!照山!照山!」美月はさすがに常識をわきまえてこのコールに参加しなかったが、だが衝動を抑えきれず、気づけば会場内で一番声を出していた。美月は照山をおもっきり呼べばすぐに彼が駆けつけてくるものと思った。来て照山くん!私ここにいるよ!間もなくしてステージは再び暗くなった。それと同時にコールも止んだ。もうすぐ始まる。観客は固唾を飲んでRain dropsの登場を待った。

伝説の武道館ライブ その2

「みんなぁ〜!待たせてごめんねぇ〜!」

 ステージにライトが点いたと同時に照山の絶叫が響き渡った。会場の観客が一斉にステージを見ると、なんといつの間にか照山と他のRain dropsのメンバーが立っているではないか。会場は阿鼻叫喚となり観客は悲鳴をあげたり、照山の名前を連呼したり、感じやすいファンはショックのあまりその場に倒れ込んだ。

 美月もまた照山のいきなりの登場に我を失い思わず号泣してしまった。あ、ああ確かに照山くんがステージにいる。いつも以上に少年らしく頭を輝かせて!ずっと会いたかったよ照山くん。涙のせいでステージが歪む。泣いてちゃ遠くてハッキリ見えない照山くんがもっと見えなくなっちゃう。ダメ涙を拭いて照山くんのライブをはしっかり見るんだ。美月はハンカチで涙を拭いてギターをかき鳴らしている照山を見た。今夜のライブは私と照山くんの記念すべき夜。照山くんは私のためだけに歌い、私はそのお礼に照山くんに全てをあげる。照山くん私ここにいるんだよ!こっちを見て!

 照山は無言で軽くギターをかき鳴らすといきなり「僕らのデビュー曲を演奏します。セブンティーン!」と叫んでギターを弾き始めた。いささか突っ走り気味の照山に観客は今日の照山が異様に上機嫌だと気付いた。Rain dropsのライブでよくトップに演奏される『セブンティーン』だが、今日はいつにも増してハイテンションだった。しかし何という演奏ぶりか。バンドのこの急成長は異様だった。このデビュー曲が発売された時、確かに絶賛されたものの、その一方でJPOPとあまり変わらない。ボーカルはいいけど曲が甘すぎるとの批判が結構あった。だが今演奏されている『セブンティーン』にはその甘さがなくなり逞しさがそれに代わっていた。「あの子は毎日がエイプリルフール!裏切られ、裏切られ尽くされた僕。花売り娘花売り娘、君は残酷な花売り娘!」と少年丸出しで叫ぶ照山のボーカルとヤスリのようなギターのカッティング。太いストロークをかます有神のギター。草生と家山の地響きのようなベースとドラム。Rain dropsはたった4ピースでこれほど厚みのある音を出していたのだ。

 Rain dropsのいきなりの襲撃に会場はどよめいていた。あれほど泣いていた美月でさえ涙を完全に吹き飛ばしてしまった。彼女は興奮のあまり震える体を両肩を掴んで必死に押さえた。ちゃんと私のところまで届いたよ。照山くん凄いよ、いつの間にかこんなに逞しくなって。もうデビューの頃とは全然違う。

 一曲目を終えた照山はゆっくりと会場内を見渡した。自分を見つめるRain dropsファンたち。最前列のファンはすっかり顔馴染みだ。彼女たちはどっからプレミアチケットを手に入れたのかわからないが、とにかく西日本のライブで毎回最前列にいる。その他オーディエンスたち。だが美月玲奈の姿が見当たらない。照山は奥の方を目を凝らしてみたが、しかしそこは肉眼で見れる場所ではなかった。彼は一瞬不安になったが、自分を呼ぶ声たちの中に美月の声が一際済んで聞こえたのに耳を止めた。彼女はここにちゃんときている。照山はニッコリと微笑むと大声で観客に呼びかけた。

「みんなぁ!聞こえてるぅ〜!」

 観客は照山に負けないぐらいの大声で照山に返す。

「聞こえてるよぉ!照山くん!」

 観客の絶叫に照山は激しくギターをかき鳴らして応えた。そして声を震わせながら観客に語り始めた。

「正直に言って僕は今すっごく緊張している。だって僕たちRain dropsは今立っているんだよ。ずっと憧れだったこの武道館にぃ〜!」

 照山の再びの絶叫に観客は大歓声で応える。観客が静ったのを見て照山はどこかにいるであろう美月を思い浮かべて再び語り始めた。

「僕たちRain dropsはメジャーデビューしてからひたすらがむしゃらに駆けてきた。ホントに勢いだけでやってきた。あの頃は演奏だって全然下手っぴでとてもライブなんかできるようななかった」

「全然下手じゃなかったよぉ〜!最初から超上手かったじゃん!」

 美月玲奈をはじめとする観客は一斉にこう叫んだ。嘘じゃないよ照山くん。Rain dropsは最初から上手かったじゃない。初めてRain dropsを聴いた少年みたいなルックスなのにどうしてこんなに上手いの?って思ったもの。

「ありがとう!とにかくそれでも僕らは一生懸命やってきた。そしてみんなが応援してくれた。その結果今僕らは武道館に立っている!今夜はそんな僕たちRain dropsが君たちのために最高のライブを送るよ!」

 そう叫ぶと怒涛のような歓声の中照山はまっすぐ前を見つめてギターをつま弾いた。客は照山のギターを聞いた瞬間黙って耳を澄ました。そして二曲目の『窓ガラスの悲劇』が始まった。Rain dropsはそれから一枚目と二枚目の曲を立て続けに演奏した。ファーストから『太陽は僕らの背中を照らす』『少年ランボー』。セカンドから『大人はわかってくれない』『みんな孤独さ』。さらにアルバム未収録曲でいまだ録音すらされていない幻の名曲『ズボンをはいた雲』も演奏された。照山がこの曲のサビの「ぼくの髪には一筋の白髪もないのさぁ~!」のフレーズを絶叫すると客はみんな大合唱した。曲の歌詞のとおり照山の髪は細く艶やかで白髪などあるはずがなかった。そしてとどめはファーストのエンディング曲『サンシャイン・マウンテン』であった。この曲はRain dropsにしては珍しく、陽気なスカビートの曲でファンからの人気の高い曲だった。歌詞は『ほらご覧、山の頂上は、草木も生えないほど光っているよ。さあ僕らも道を塞ぐ心の草木を刈り取って、あの山の頂上で光り輝くんだ!』というデビュー当時のバンドへの思いが素直に反映されたもので、初期ライブでは必ず演奏されていた。この曲をライブの最終に演奏することも多く、観客はいつの頃からかこの曲のサビの「サンシャイン!サンシャイン!サンシャイン!サンシャイン!サンシャイン!サンシャイン!マウンテン!」というフレーズを照山コールに変えて合唱するようになった。今日も観客はステージに向かって「て~るやま!て~るやま!て~るやま!照山っ!」と合唱していた。

 美月も同じようにて~るやま!と大声で歌った。ああ!最高だよ照山くん!ホントにRain dropsに出会えてよかったよ!演奏されたRain dropsの初期の曲はもうダイヤモンドの原石ではなかった。それは完璧に磨かれたダイヤモンドとなっていた。美月はこのRain dropsの急成長を目の当たりにして一抹の寂しさを覚えた。今ここにいるのは、たしかにテクニックはあったものの、いささかバランスがおかしかったり、照山が突っ走りすぎて他のメンバーを置いてけぼりにしてしまったりしていた、デビュー当時の愛すべき未完成なバンドではなく、堂々とした演奏で名実ともに日本最高のロックバンドになろうとしているRain dropsだった。

伝説の武道館ライブ その3

『サンシャイン・マウンテン』の演奏を終えたRain dropsは楽器から手を離して照山を見た。照山はメンバー一人一人に頷いてから観客の方を向いて話し始める。

「みんな盛り上がってるかい?」

「盛り上がってるよぉ〜!」

「ここで、こっからしばらく一ヶ月前に出た僕らのサードアルバム『少年B』からいくつか曲を演奏します。このアルバムいろんな人たちから評判良くて僕らすっげえ喜んでます。だってこのアルバムホントに四人だけで作ったんですよ。勿論お目付け役の(笑)プロデューサーさんはいたんですけど、ほとんど僕らの自由にやらせてもらいました。楽器なんかマジで僕と有神のギター二本と草生と家山のベースとドラムだけしか入ってないんですよ。僕たちがそれでやりたいって言った時流石にみんな困った顔してましたね。だけど僕たちは絶対にそれでやりたいって無理矢理説得したんです。今度のアルバムは裸の僕らを(照山が裸と言った瞬間一部悩ましい歓声が漏れた。)みんなに見せてやりたいって思ったからぁ!」

 観客はこの照山の力強いMCに会場が震えるほどの拍手と歓声で応えた。

「みんなへの感謝としてこの『少年B』からいくつか曲を、僕ボーカルとギター担当の照山、ノエル・ギャラガーよりずっと背の高いギターの有神、おちゃらけ野郎のベースの草生、放っておくとすぐ太っちゃう家山のRain dropsの四人がお届けします!今までライブで演ってない曲もあるから聴き逃がさないでね!『少年B』第一曲目!」

 第一曲目と照山が叫んだ瞬間客席に猛烈な絶叫が起こった。あの曲といったらアレしかない。あの曲しかない。

「この曲を音楽番組で初めて演奏した日の事を今も鮮明に覚えているよ。あの時は生演奏でやるのは初めてですっごい上がっていたんだ」

 鮮明に?美月は照山がライブのMCで自分の番組の卒業回の事を触れるとは思わなかったので驚いた。ああ、ありがとう照山くん。まさかライブであの最終回の事を喋ってくれるなんて。照山くんやっぱりあの時緊張していたんだね。だからあんな目を魚みたいに危険なほどガン開きにしていたんだね。クスリのせいじゃなかったんだね。ああ!今も思い出すよ。

「今回この曲を東京のライブ会場で演るのは初めてなんだ。だから今僕はすっげえ緊張してる。じゃあいくよ!少年だったぁ〜!」

 そう叫ぶと同時に照山はアルペジオでギターを弾き始めた。ああ!いつもより遥かに鋭角的なアルペジオだった。それはまるで少年の心の棘のように痛ましい。その下から有神のディストレーションをかけた太いギターが立ち上ってきた。さらにその後を草生のベースと家山のドラムが猛追撃してくる。その怒涛のように押し寄せてくる波のような演奏の中照山は少年のような澄み切った声で叫ぶ!「夕暮れの中、膝を抱えて、沈みこむ、僕は少年、十五歳の少年!」ファンは純粋さと痛みを切なく曝け出して歌う照山に涙を漏らした。ああ!美月もまた泣いていた。ああ!どうしてあなたはそんなに純粋なの?純粋すぎて純粋すぎて私が醜く思えてくる。ああ!照山くん、やっぱり私なんかがあなたから少年を奪っちゃダメなんだよ。こんな醜い私が……。

 だがそんな美月の躊躇いは「少年だった」のサビで吹き飛ばされてしまった。「少年だった!少年だったぁ!僕は少年だったぁ〜!」と照山は少年をむき出しにして叫んだ。観客はそのあまりの純粋さにたまらず泣き出して絶叫した。美月は照山の少年の叫びを聴いて躊躇いをかなぐり捨てて観客と同じように泣いて絶叫した。ああ!照山くんは私に少年を捧げるために今日ステージに立っているんだからちゃんと受け入れなきゃダメじゃない。ゴメンね照山くん。私最後まであなたを受け止めるから!会場の少年だったの絶叫が響き渡る。今ここにいる観客の誰もがこの瞬間を胸どころか全内蔵に刻みつけただろう。この武道館の『少年だった』は間違いなくRain dropsのライブ史上最高のものだった。ステージの照山は自分に向かって叫ぶ観客を見ながら客席のどこかにいるであろう美月を思った。美月さん、聴いてくれたかい?今歌った『少年だった』は君に捧げたんだ。僕の一番のファンだった君に。

 それからRain dropsは『少年B』の収録曲を立て続けに演奏した。それらの楽曲はRain dropsが確実に新たなステージに立った事を示すものだった。『少年だった』に引き続き爆走する『ナイフを持った少年』シューゲイザー風味の夢見るかのような『白日夢』叙情的に奏でられる『まだ天使になるなよ』アルバムのラスト前の曲で異様な切迫感に満ちた『A-Z Generation』。中でも特筆すべきは今回ライブで初演奏する『君が嗤った』である。この照山の世界中の苦しんでいる人全てに捧げますという曲紹介と共に演奏された曲は、淡々とギターを刻んだ隙間だらけの十分以上に渡るヘビー曲で、照山は裸の王様を告発する子供のように人間と世界の不条理を告発した。『君が嗤った。僕を嗤った。弱い人たちを嗤った。純粋な人たちをただ嗤った』照山は世界の不条理を見事に凝縮してみせた。まるで丸めた頭をテカらせて強靭な言葉で革命を歌ったあのマヤコフスキーのように。曲を聴いた観客はマイナーコードのリプを淡々と刻みながら歌う照山に向かって叫んだ。「私は照山くんを嗤ったりしないよ!」「ゴメンなさい!私昔弱い人を嗤った事があります!照山くん許して!」美月は『少年B』が発売されてからずっとこのアルバムを繰り返し聴いていたが、この曲だけはいつも飛ばしていた。それは曲が好みではなかったからではなく、歌詞の内容があまりにも身につまされ過ぎて耐えられなかったのである。自分は歌詞のように人に嗤われたりしたこともあるし、逆に嗤ったこともある。この曲は彼女にそんな自分の醜い部分を否応もなく見せつけたのだ。美月は耐えきれず思わず耳を塞ごうとしたが、それはできなかった。ステージで歌う照山の姿がそれを止めさせた。ああ!照山くんは私に自分の醜さを見よと言っているんだ。見なくちゃ、私自身の醜さをこの目でハッキリと見なくちゃ。照山くんに向き合えるように。美月はステージの照山を見た。するとその時だった。曲がまるで雨上がりの空のように明るくなったのだ。照山はメジャーコードを弾きながらこう叫んだ。「だけど僕は君たちを殴ったりしない。ただ微笑むだけさ。微笑むだけさぁ〜!」照山がこのサビのフレーズを歌った途端客席から嗚咽の声が響いた。ああ!ステージの照山は穢れなき少年そのものだった。世界の穢れを全て浄化するあの天使のような少年そのものだった。Rain dropsは客席に向かって光り輝く音の雨粒を降らせた。ああ!なんてことだろう!今客席のファンの涙の光とRain dropsの音の雨粒の光が一つの光になって武道館の会場を照らし出した。美月玲奈もまた泣いていた。彼女はこの曲を聴いて自分の嫌な部分が浄化されていくのを感じていた。ああ!ありがとう照山くん、あなたのおかげで救われたような気がするよ!私Rain dropsを好きでよかった。ホントによかった。

 それからライブはとんでもなく盛り上がった。もうRain dropsの在庫一層セールだった。照山たちRain dropsはある限り曲を演奏しまくりアルバム曲だけではなくシングルのB面の曲まで演奏した。観客はこの立て続けのサプライズに狂喜し、一部でトイレタイムと揶揄され、実際に完全に恒例のトイレタイムになっていた有神のオアシスのパチモンみたいなつまらなさマックスのソロナンバーさえ喜んだ。そうして大盛り上がりのうちに一旦ライブは終了し、Rain dropsはステージから去った。観客は照山たちを呼び戻そうと声を張り上げてアンコールを連呼した。美月も同じように叫んだ。会場がアンコールの叫びで覆い尽くされた。その絶叫の中照山たちRain dropsは再びステージに現れた。

BE MY BABY

 観客はアンコールのために再びステージに現れたRain dropsを歓喜の叫びで出迎えた。美月も同じように、いや誰よりも激しくRain dropsの名を叫んだ。ステージの照山はこの大歓声に照れたように笑い客席を見渡して喋り始めた。

「今回のアンコールはちょっと趣向を変えてみたんだ。いつもはラウドな感じの曲やってるけど今回はしっとりした曲を演ります。まずはこの曲を……」

 とここで照山は言葉を詰まらせた。照山はくちびるを噛み締めてしばらく無言でマイクの前で俯いていたが、やがて顔をあげて決然とした表情でこう叫んだ。

「全ての悲しい女の子のために歌います!君がきっと、きっと素敵な笑顔になれるようにぃ!」

 美月はこの照山のMCを聞いた時、いつか照山と交わした約束を思い出した。まさか照山君あの約束覚えていてくれたんだ。私すっかり忘れていたよ。ごめんね照山君、私ライブが凄すぎてあの約束頭から飛んでいたよ。ありがとう照山君!

 そしてアンコールの第一曲目の『世界中の悲しい女の子たちへ』の演奏が始まった。曲がサビへと移るあたりから客席のそこらじゅうから嗚咽が聞こえてきた。これも当たり前であろう。今客席にいる彼女たちはこの曲の主人公である悲しい女の子に自分を重ねてきたのだから。彼女たち号泣しながら自分たちの事を歌っている照山に感謝した。ああ!ありがとう照山君!あなたの歌のおかげで救われた!あなたの歌があったからこそ自分は今生きている。美月もまた他の観客と同じ気持ちだった。幼い頃から芸能界の波に揉まれて見たくないものを散々見せられ触らされ舐めさせられた日々。その地獄の中で何度自殺を思ったか。だが偶然出会ったRain dropsが彼女を救ってくれた。美月はそんな自分の過去を思い出して誰よりも激しく号泣した。ああ!ありがとう照山君!あなたがいなかったら私は生きていなかった!

 世界中の悲しい女の子が終わると観客は一斉にステージの照山に向かって拍手をした。照山は拍手に出れたのか頭を掻いて苦笑いした。そして会場が静まったのを見て喋り始めた。

「次の曲は結構久しぶりに演るんだ。今回のツアーでは一回も演ってないんだけど、まぁなんというか想いってのを伝えたくなってさ」

 照山がそう言って始めた曲は初期Rain dropsを代表する名曲でありながら何故か久しく演奏されていなかった『恋以上愛未満』だった。この曲は恋への少年らしい戸惑いが赤裸々に歌われた曲でありらある意味では永遠の少年バンドRain dropsのトレードマークというべき曲であった。ファンの中にはこの曲を聴きながら少年の照山にあんなことやこんなことをするシュチュエーションを思い浮かべて恍惚となるものもいた。私が少年の照山君を自分の手で大人へと脱皮させたい。そして彼の手を引いて大人への階段を登らせたい。そんないけない事を妄想していた。美月は照山がこの曲を歌い出した時、照山がどれほど自分を愛しているかを感じた。照山君は今夜本気で私に少年を捧げるつもりだ。こんな汚れた私のためにその清らかな少年を捧げてくれるなんて。でも本当にいいの?私は芸能界ですっかり汚れ切った人間なのよ。あなたが見たくもない事をたくさんしてきた人間なのよ。それでもいいの?しかしステージの照山はそんな彼女のためらいを吹き飛ばすように自分の思いを熱く歌った。その照山の想いに美月は感動してまた号泣した。

 こうして『恋以上愛未満』の演奏は終わり、アンコールは次の曲へと移った。照山は割れんばかりの絶叫と拍手の中、何故か躊躇いがちに語り出した。

「次の曲はカバーなんだけど……」

 美月は照山がここまで喋った時急に胸が熱くなった。きっと次の曲はあの曲だ。照山君がおすす目の曲だと言って事務所に山ほど送ってくれたCDの一番上に『これが君が聴きたかったBe My Babyが入っているアルバムだよ》なんてメモ書きが挟んであのロネッツのCDがあったんだ。美月はビーマイベイビーの女の子のように目を煌めかせてステージの照山を見た。観客は若い女の子が大半だからロネッツのビーマイベイビーなんて誰も知らない。だから照山君が曲名言ってもちんぷんかんぷんだった。だけど私は違う。私はロネッツのビーマイベイビーを知っている。何故なら照山君が教えてくれたから。照山君がこの曲は僕たちの曲だって言ってくれたから。

 照山がMCを終えてすぐに曲は始まった。Rain dropsのカバーはほとんどオリジナル通りだった。あのやたらディストレーションをかまして前に出たがる有神さえ今は素直に引っ込んで淡々とリズムを刻んでいた。照山はそのバックの演奏に励まされるようににこやかに歌っていた。カタカナ英語の不器用な歌に美月は照山の自分への想いを感じて胸が熱くなった。ああ!こんなにも人を好きになるなんて!こんなにも人を好きになることが出来るなんて!照山君大好きだよ!こんなにも人を好きになったのは照山君が最初で最後なんだよ!美月は思わず大声で照山の名を叫んだ。曲しか聴こえない会場に美月の低めのあの声が響き渡った。照山は突然聞こえてきた美月の声に驚き声が聞こえてきた方を向いた。そして二人の目が合った。照山は会場の奥の壁際に自分を見つめる美月を見つけたのである。ステージの照山は美月に届くように懸命に声を張り上げた。この曲は僕と君のために作られた曲。だからこの曲だけは純粋に君だけのために歌うよ!美月は観客が自分だけになったような気がした。照山君はたった一人の観客の私に向かって歌ってくれている。あの歌を、私たちの歌を。照山はそんな美月の思いに応えるかのようにさらに声を張り上げ、ついには弾かずにただぶら下げていたギターを持って激しく掻き鳴らした。この照山を見て今まで借りてきた猫のように大人しかった会場は急に盛り上がった。そして最後は会場全員によるビーマイベイビーの大合唱で終わった。

 一回目のアンコールを終えた照山たちRain dropsはステージを去り、しばらくしてから二回目のアンコールのために再びステージに帰ってきた。二回目は通常のアンコールであり、照山は一人疲れ知らずのとんでもないハイテンションで絶叫しギターを掻きむしった。アンコールは、そして本コンサートの最後は本日二回目の『少年だった』で締められた。二回目の少年だったは一回目にも勝るとも劣らない出来だった。一回目の演奏は仄暗い激情が迸っている演奏だったが、この二回目の少年だったは純粋な感情の爆発だった。

間の悪すぎる鉢合わせ

『少年だった』の大爆発でRain dropsの武道館ライブは大盛り上がりのうちに幕を閉じた。ライブの終演を告げるアナウンスが会場から流れでも観客は帰ろうとせず、仲間内でライブについて熱く語り合っていた。美月玲奈の隣にいた客も美月なんか無視して連れと喋っていた。美月はまだライブの興奮から抜けられずしばらくその場で呆然としていた。目を閉じればまだライブが終わっていない気がする。照山君ありがとう。こんなに素敵なライブ見せてくれて。私絶対このライブの事は忘れない。そしてこれから私たちを待っている出来事も……。

 その時下げていたバッグの中のスマホが震えた。美月はその振動音を聞いて我に返り慌ててバッグからスマホを取った。それは照山からのLINEの通知であった。照山の通知を見て早くLINEを開かなきゃと混乱してfacebookや Instagramを間違って開いたりしたあげくようやく開いて照山のメッセージを読む事が出来たのだった。照山はLINEに美月がライブに来てくれた事への感謝を長々と書いていた。照山はその中でアンコールの曲は本当に美月さんのためだけに歌ったんだと正直に語っていた。今までただ一人の異性のために歌った事はなかった。美月さんが初めてだと。そして最後に照山はこう書いていた。『ライブの打ち上げが終わり次第君の所に行くよ。本当は打ち上げなんかに出たくないよ。今すぐ君に逢いたいのにさ。ねぇ待ち合わせ場所はどこにすればいいんだい?』

 美月はこの照山の先程あれほど神がかったライブを演った人間とは思えない無邪気極まりない文面に苦笑した。全く照山君子供じゃないんだからそんなわがまま言わないで。もう大人なんだからそんな……。その瞬間美月の脳裏に照山の少年のような姿が浮かんできた。そう、もう子供じゃないんだから。あなたはもうすぐ大人になるんだからね。美月はいつものレストランを待ち合わせ場所にしようと思った。確実に誰にもバレないように遭うにはあそこしかない。だけどそのあとはどうすれば良いのか。照山君の記念日に相応しい場所は……。いや今はそこまで考えるのはやめよう。あんまり考えているとこの気持ちが醒めてしまいそうだ。彼女はLINEにいつものレストランで待ってるからと書いた。するといくらもしないうちに照山から返信が来た。

『いつものレストランね。わかったさ!打ち上げなんて抜け出してすぐに君に逢いに行くよ』

 美月はその照山の返信を見るとスマホをバッグの中に入れて早足で会場の外へと歩き出した。とりあえずここを出たらレストランに予約の貸切の電話を入れよう。今の時間なら大丈夫だと思うけどもし店の常連がすでに予約を入れていたとしたら……。

 会場の出口はやはり混乱していた。あるファンたちは道を塞いで陣を組んでRain dropsの名を叫んで絶叫し、またあるファンたちは他のRain dropsファンと自分の買った照山のポスターを盗った盗らないで揉めまくっていた。またファンの他にも芸能人が何人か来ていたらしくテレビ番組の記者らしきものがファンをハエ叩きで追い払ってその芸能人にインタビューしていた。美月はこれでは電話するどころか会場から出られないと焦って無理矢理人を掻き分けて先に進もうとしたが、その時誰かが自分の名を呼んだ。

 美月は聴き慣れた声にゾッとして声の方を向いたが、そこにはドラマのプロデューサーと例のバカアイドルをはじめとした共演者たちが並んでいた。

「なんだ美月もライブ来ていたのか。それで収録の後あんなに急いで帰ったんだな。ところでお前どこにいたんだ?アリーナ席で見かけなかったけど」

 美月はプロデューサーたちがライブに来ていたことに驚き声を出すことも出来なかった。

「おいおいなんでそんなびっくりしてるんだよ。俺たちレコード会社から直々に招待されたんだよ。Rain dropsの曲ドラマで使うことになったからな。お前もRain drops見たかったんなら一緒に来りゃよかったのに」

 Rain dropsがドラマに使われる事は美月の初めて知る事だった。確かにそれはRain dropsと自分にとって喜ばしい事であるはずだった。だが彼女は一方で悲しくも感じた。純粋な少年であったRain dropsが世間の毒に侵されてしまうような気がしたのだ。

「あっそうだ。美月お前俺たちと一緒に打ち上げ参加しないか?お前が出たらRain dropsの連中だって喜ぶんじゃねえか?だってRain dropsってお前がやってた番組がきっかけでブレイクしたんだろ?」

 そこにプロデューサーの横にいたバカアイドルが割って入ってきた。

「せっかくライブに来たんだから打ち上げぐらい参加しろよ。俺ら揃ってRain dropsさんに挨拶にいくんだよ。メインキャスト全員で行ったほうが向こうだって喜ぶだろ?」

 美月はバカアイドルを無視してそっぽを向いた。彼女は明日は早いから遠慮しとくと言ってプロデューサーたちの元から去ろうとしたが、その時運悪くテレビの記者たちに見つかってしまった。記者たちは美月とバカアイドルを見つけると大挙して周りを取り囲み、口々に質問を浴びせた。バカアイドルはそれらの質問にすごかったとか、感動したとか心にもあるのかないのかわからない調子でしゃべり散らし最後に僕らこれからRain dropsさんの打ち上げに参加するんですよと勝手に宣言してしまった。

ありえない事態

 レコード会社主催の打ち上げ会は某ホテルのテラスを貸し切って行われていた。会場はレコード会社が雇った司会の見事な仕切りで大盛り上がりだった。だがその打ち上げの主役の照山は一刻も早くここから脱出して美月の元に駆け付けたかった。しかし彼とRain dropsのメンバーの座っている席は会場の真ん中であり逃げようにも逃げられない状態だった。打ち上げ会は全く酷いものであった。この夏の夜だったら虫を大量に呼び寄せそうなほどの、今だと電気代の使いすぎだと国民に叱られそうなぐらいライトアップされた会場で、レコード会社の幹部連中は無礼講だと言って近くのキャバクラから拾ってきたようなバニーガールを呼んできてRain dropsのメンバーの相手をさせた。有神たちメンバーもまんざらでもない様子で鼻の下を伸ばしてバニーガールと話し込んでいた。参加者のテレビ局の幹部連中に至ってはもう遠慮なしにその辺にいたキャンギャルを片っ端から口説いている始末だった。全く醜悪だった。こんな事は今までのRain dropsの打ち上げでは考えられない事だった。やはり売れると業界のハエたちが揃ってタカってくるのか。だが照山だけは周りの狂騒に飲み込まれず一人バニーガールを完全に拒否しずっとスマホを見ていた。彼はさっき美月に向けて早くこんなところさっさと抜け出して君に逢いにいくからとメッセージを送ったが、美月からはまだ返信はなかった。照山は美月に何かあったのかと心配になり、すぐさま打ち上げから抜けようと近くにいたレコード会社の幹部に声をかけた。しかし彼の声は幹部に届かず、幹部はその後すぐにやってきたバニーガール嬢と共にどこかへ消えてしまった。

 それから間もなくして会場の何処からか歓声と拍手が聞こえてきた。この歓迎ぶりからするとどうやら結構有名な人間が来たようだ。テラスの門の付近に座っていた人間が次から次へと立ち上がってこの参加者に向かって拍手を浴びせていた。やがて歓声と拍手は耳障りなほど大きくなったので照山はたまらず顔を上げた。するとそこにいかにも芸能人然とした若い男が後ろに何人か連れて歩いているのが見えた。若い男は白い服を着ていたのでライトで彼だけ目立っていた。照山はじっとこの男を凝視した。彼はこの若い男に見覚えがあった。まさかあの男は!しかし何故あの男がこんなところに!

 照山は芸能界を果てしなく軽蔑していたため、テレビの類はニュースやドキュメンタリーしか観なかったが、美月のドラマだけは欠かさず観ていた。しかし彼はドラマのストーリーなど全くどうでも良く、ただ美月が変な事をさせられていないかチェックするためだけにずっと観ていたのだ。煽情的な衣装を着させられていないか。カメラが変な所を取っていないか。そして彼女が男とキスさせられていないか。照山は保護者のように毎回美月のドラマを徹底的にチェックした。ある時ちょっと美月の太ももが露出している場面を見つけるとすぐさまテレビ局にクレームの電話を入れて僕の美月さんになんて事をさせるんだと苦情担当のオペレーターを激しく問い詰めた。そんな彼であるから当然共演者のことは全員チェックしていた。ああ!この男は美月と共演している北川ヒカルとかいう売り出し中のアイドルだ。このバカアイドルは女好きで頻繁に週刊誌に取り上げられている男である。その北川の後ろを歩いている連中はきっとドラマに出ている連中だ。北川の影になって見えないが、背格好からなんとなくドラマの出演者たちだと察した。だけどどうしてこいつらが打ち上げに参加してるんだ?アイツら別に僕らのファンじゃないだろうに!照山は連中に自分を見られまいとテーブルにうつ伏せになって顔を伏せた。

 しかし北川たちはその照山を見てくるっと回転してRain dropsのメンバーのいるテーブルに近寄ってきた。照山は北川たちが自分の所に近づいてくるのに気づいて顔をあげた。北川は隣に並んでいた小太りの中年男と一緒にRain dropsのメンバーに挨拶をしていたが、へべれけ状態の有神たちは完全に無反応であった。北川と小太りの男は照山のそばまでやって来たが、その時照山は北川たちが連れている人間の中にあの美月玲奈がいるのを見て衝撃のあまり手に持っていたスマホを落としてしまった。

 何故美月がここにいるのか。彼女は今あのレストランで自分を待っているはずだったではないか。しかもなんでこんなバカアイドルの北川なんかと一緒にいるのだ。美月は他の連れの後ろに隠れ後ろめたい事があるのか照山から思いっきり目を逸らしていた。小太りの男は挙動不審の照山に向かって話しかけた。

「あ、あの照山君。びっくりさせちゃってごめんね。僕は〇〇テレビ局のドラマ部門のプロデューサーやらしてもらっている富士丸男って言います。そして隣の彼が僕のドラマに出てもらっている人気アイドルの北川光くん。北川くん意外にもドラマ初出演なんだよ」

 プロデューサーはそう言って北川に挨拶するように促した。北川は「北川っす」と軽くお辞儀して挨拶すると、足元にあった椅子を持って隣に座っていいすかと尋ねてきた。照山はこの突然の言葉に戸惑い、うんともすんともつかぬ空返事をしたが、北川はそれを聞くと早速椅子を照山の右隣に椅置いて腰かけた。照山はこの北川の一連の行動に驚いたが、しかし今の彼にとって北川などどうでもよかった。プロデューサーは続いて美月を紹介した。

「そして後ろにいるのがドラマで主人公演じている美月玲奈さん。彼女は照山くんも知っているよね?うちの局の深夜の音楽番組で何度か出てもらったろ?へへへ、彼女は君たちRain dropsの大ファンなんだよ。今日だって彼女わざわざ自腹でチケット買って君たちのライブに来てたんだよ。ライブ行くって教えてくれたらアリーナ席のチケット一枚譲ってあげたのにさ。てか美月ちゃん、どうしてそんな離れたところに立ってるの?主演なんだから恥ずかしがってないで前に出てこいよ。照山くんに失礼じゃないか」

 照山は離れた場所で自分から目を背けている美月をじっと見つめた。北川たちも美月の方に顔を向けた。美月はいかにも罰の悪いといった顔で躊躇いがちに前に出てきた。彼女は目の前の照山に向かって無表情で「お久しぶりです」とそっけない挨拶をした。照山は久しぶりに逢った美月のこの塩対応っぷりに腹が立った。なんで君はここにいるんだ。しかも北川みたいなバカアイドルと一緒に!君はさっきLINEでレストランで僕を待っているからと書いたじゃないか。あれは冗談だったとでもいうのか?大体久しぶりに会ったのにどうして君はそんなに無表情なんだよ。

 美月は照山の視線が居た堪れなくなって彼から離れようとした。しかし近くにいた打ち上げ会のスタッフの連中が美月たちゴールデンドラマ俳優のために気を利かせて、へべれけ状態の有神たちRain dropsのメンバーや、その辺の雑魚どもを椅子から蹴り落として手に入れた椅子を照山の近くに席を並べてしまったので逃げようにも逃げられなくなってしまった。

 プロデューサーはとりあえず連れている人間を全員紹介すると彼らに席に座るように勧めた。美月は仕方なく照山から一番離れた席に座ろうとしたが、すぐさまプロデューサーに止められた。

「おい、美月ちゃんどこ座ろうとしてんだよ。美月ちゃんの座るところは照山くんの左だろ?スタッフの皆さんが頼み込んでみんなにどいてもらったんだからさぁ!」

 プロデューサーに促されて美月は仕方なく照山の左隣の席へと向かった。照山は躊躇いがちに自分の方にやってくる美月をじっと見た。一体どうして北川なんかと一緒にここに来たんだ、今夜の約束はどうなったんだ。あれは全部出鱈目だったとでもいうのか。今夜僕は君に全てを捧げるつもりだったのに。

「おい、美月何やってんだよ!お前いつもトロいんだよ!さっさと来いっつーの!」

 と、北川が妙に親しげな口調で美月を急かしたので照山はハッとして北川と美月を交互に見た。そういえば僕は美月さんの事を何も知らない。彼女の芸術活動なんかまるで知らないし、彼女と他の芸能人の交流なんてさらに知らない。コイツとはいつから知り合いなんだろうか。きっと僕よりもずっと前から顔見知りなんだろう。でなければ女の子に対してあんな遠慮なくものが言えるわけがない。もしかして美月さんはコイツと……

「あの、スマホ落ちてましたよ」

美月の悍ましき過去

 照山は突然声をかけられたのに驚いて慌てて声の方を振り向いた。するとそこに彼のスマホを持った美月が立っていた。照山は礼もそこそこに慌ててスマホを受け取ると恥ずかしさのあまり俯いてしまった。美月はそのまま照山の左隣の席に座り意味深な目で彼を見た。照山はその美月の視線に気づき、すぐさまテーブルの下でスマホを開きLINEを見た。そこには美月の新しいメッセージがあった。

『ごめんね照山君。私ライブ終わってからすぐレストランに行こうとしたんだけど、出口でドラマのキャストと鉢合わせになって逃げられなくなっちゃった。ほんとごめんなさい!私さっきレストランに深夜まで開けといて電話で頼んだから。打ち上げ終わったらすぐ行こうね。』

 照山は思わず美月を見た。美月もまた照山を見た。一瞬の重ね合いだった。この時二人は互いの決して変わらぬ想いを改めて感じたのである。

 プロデューサーが注文のためにホテルのボーイを呼んだ。ボーイが来ると彼はまず今テーブルに座っている人間たちのビールを注文し、それから一人一人に何か頼みたいものがあるか聞き回った。北川はすぐさまメニュー表を開いてこれが欲しいあれが欲しいと注文しまくり、他のものも遠慮がちに欲しいものを頼んだ。しかし照山と美月だけは何も頼まなかった。二人の心はすでに夜の彼方へと向かっていたからだ。

 ボーイがまずテーブル全員分のビールを運んで来ると、プロデューサーは手ずからビールジョッキを受け取り、各席へ持っていった。照山と美月は出されたビールをどうしようか顔を見合わせたが、場の雰囲気が飲まざるを得ないような感じになっていたのを見て互いに諦めてジョッキを手に取った。プロデューサーはみんながジョッキを持ったのを見て乾杯の音頭をとった。

「じゃあ照山くんたちRain dropsのライブの成功を祝して乾杯だ!」

 北川をはじめ参加者たちはそれに続いて一斉に乾杯と声をあげてジョッキを照山の方に掲げた。照山はこのプロデューサーの厚かましい態度に心底腹が立った。よそからいきなり乗り込んできて我が物顔で仕切り出すとは何事だ。地べたに有神たちを追い出したりして!Rain dropsは僕だけのバンドじゃないんだぞ!僕がと有神と草生と家山の四人のバンドなんだぞ!見ろよ、お前たちのせいで有神たちは泡吹いて気を失っているじゃないか!

 美月は照山が怒っていることにすぐに気づきテーブルの下で彼の腕をギュッと握った。照山は美月が自分を諌めているののだと察して彼女に深く感謝した。美月はやっぱり自分の事を全て理解してくれている。彼は目を潤ませて美月を見た。美月は周りに気取られないかと一瞬心配したが、しかしすぐにそんな事どうでもよくなった。照山くんとずっと一緒にいたい。二人は泡吹いて倒れている有神たちのことなどすっかり忘れてしばし互いに見つめ合った。

 北川は頼んだ酒や料理が来るとすぐにがっつき上機嫌でペラペラと喋り出した。プロデューサーは彼の相手をしてやっていたが、他の連中は彼の話にただ相槌を打ったり作り笑いで誤魔化すだけでろくに相手にしなかった。照山と美月に至っては完全にガン無視していた。二人とも北川に苛立ち早く酔い潰れてしまえと呪った。しかし北川は酔い潰れるどころかさらに饒舌てなりとうとう照山に絡み出した。

「あの〜、照山くんちょっと聞いていいすか?」

「いいけどなんだい?」

「照山くんっていつデビューすか?」

「三年前だよ」

 この照山の答えを聞いて北川は急に笑い出した。

「なんだ照山くん俺より全然後輩じゃねえかよ。俺デビュー十二年だぜ。次からは北川さんって呼んでもらわなきゃなぁ!」

 照山は北川にうんざりしてピシャリとこう跳ねつけた。

「僕は君たちのような芸能界の人間じゃないから君とは先輩でも後輩でもないよ」

 照山のこの言葉を聞いてみんな驚いて彼を見た。美月は北川が照山に暴行を働かないか心配で二人を凝視した。しかし北川が笑いながら「冗談っすよぉ〜照山くん。俺が先輩風吹かせるわけないじゃないですかぁ〜!」と言ったので皆安心して肩を下ろした。それから北川は照山から離れ今度は美月に絡み出した。

「だけど俺らも芸能界長いよなぁ美月ぃ!お前も結構芸能界長いだろ?俺ら確か〇〇テレビのスペシャル番組で初めて会ったんだよな。覚えてるぜ。芸能人総揃いでさあ、お前あの頃デビューしたばっかりだからガチガチに緊張しまくってよぉ。周りはジジイとババアばっかだったら、タメの俺がずっと話し合い手になってやったんだよな。お前覚えてるか?」

「覚えてない」

「あっそう覚えてないっていうのね。照山くん、これですよ。昔のお前は付き合いもすげえよかったのに、今じゃすっかり大俳優気取りになっちゃってさぁ。もうアイドルなんか相手に出来ませんてか?あ〜あ、昔はあんなに付き合いよかったのに。一晩中クラブで入り浸ったりしてさぁ〜」

「やめてよそんな昔の話!今ここですることじゃないでしょ!」

 照山は北川の話に耐えきれず手で耳を塞ぎたくなった。確かに美月から過去にいろいろあった事を聞かされていたが、こうして直接その過去の話を聞かされると今まで培ってきたものが全て崩れ落ちるような気がしてならなかった。

 だがそんな照山の不安をダメ押しするかのように北川が続けてこう言い放った。

「うるせえんだよこのヤリマン女!お前有名になるためにいろんな奴と見境なしにヤリまくってただろうが!なのに人気俳優になったら急にアートとかロックが好きですなんですアピールはじめやがってよぉ。ヤリマン女がRain drops好きで〜すとか言って純真ぶってんじゃねえよ!」

 この発言に流石のプロデューサーも怒った。彼は北川の持っていた酒瓶を取り上げてもう飲むなと叱った。だが北川は人の酒を盗むなと言って酒瓶を取り返してしまった。

 照山は美月をまともに見ることが出来なかった。美月さん綺麗な女の子じゃないってそういう意味だったのか!まさかパパ活みたいなことまでしていたなんて!ああ!君が崩壊していく!

 美月はひたすら自分から目を背ける照山に向かって弁明をしたかった。確かに北川の言ってる事は全部ホントのことだよ。でも今の私は昔の私じゃない!わかってよ照山くん!あんなに汚れ切った私を変えてくれたのはあなたなんだから!

 北川のせいで場の雰囲気はとんでもなく悪くなった。他のキャストたちはもう酒とつまみに手をつけず、どうにかこの場を離れようとそわそわし始めた。プロデューサーは場の雰囲気を和ませようとしてか突然親父ギャグを連発し始めたが、誰も反応しなかった。

ベッドシーン

 照山は心の中で葛藤していた。北川によって暴露された美月のあまりに悍ましい過去。あまりに悍ましすぎて目の前の美月さえ穢らわしく思えた。だけどそれも美月なのだ。美月さんはあの時僕に私は綺麗な女の子じゃないのって言った。僕はその彼女の告白を聞いて誓ったじゃないか。彼女を救おうって。あの時の決意は嘘だったのか。僕の美月さんへの愛は彼女の過去を知ったぐらいで壊れてしまうものだったのか。彼女はRain dropsによって悍ましい過去と決別することができた。だから僕は今のピュアな彼女を抱きしめてやろう。今の美月さんは昔の彼女とは違うんだ。照山はこう決心すると顔を上げてゆっくりと美月の方を向いた。そして美月に声をかけようとしたが、しかしその時北川が美月にとんでもない事を言ったので言葉を失ってしまった。

「怒らせてごめん美月ぃ。酔っ払ってるんだから気にすんなよぉ。お願いだから笑ってやり過ごしてよぉ。近いうちに俺らベッドシーン撮らなきゃいけないんだからそれまでは仲良くしとこうぜ」

 ベッドシーン⁉︎ なんだそれは!そんな話、美月さんから全く聞いていないぞ!どういう事なんだ美月さん!君は僕にこれからは二度とキスシーンもベッドシーンもやらないないって言ったじゃないか!あれは嘘だっというのか?照山は北川の爆弾発言中の爆弾発言を聞いて気を失いそうになった。彼は美月の真意を確かめようと遠慮なしに美月をガン見した。

 美月もベッドシーンのことは完全に寝耳に水だった。彼女は北川が冗談を言っていると思い「冗談はやめて!」と叫んだ。しかし北川は思いっきり笑って言った。

「なにが冗談だよ!台本にも書いてあるじゃねえか!お前ひょっとして十二話の台本もらってないの?そこにベッドシーンしっかり書いてあるんだけど。だけど感慨深いよなぁ〜。初出演のドラマで芸能界を一緒に戦い抜いてきた戦友とベッドシーン演じるなんてさぁ〜!」

 美月はもう北川なんか無視してプロデューサーを激しく問い詰めた。

「富士さん、どういうこと?私何も聞いてないよ!最初に主演のお話いただいた時、あなたはこのドラマは女性の友情がメインのドラマだからベッドシーンなんかないって言っていたじゃない!だからドラマを引き受けたのに!」

 プロデューサーは美月の追及にまごまごしてぐだぐだ言い訳を始めた。

「たしかに最初はそうだったんだけどねえ。……脚本家の先生がねぇ、やっぱり綺麗事ばかりじゃ視聴者に何も届かないって言い出してねぇ、ベッドシーンいれたら多少はリアル感が出るんじゃと仰って」

「なんなのよそれ!意味わかんない!それだったらどうして私の事務所になんの報告がないのよ!台本も寄越さないで!」

「だって事務所に報告したら美月ちゃん絶対ベッドシーン拒否るし……」

「ふざけんなぁ!」

 もう照山の頭の中には現実の有象無象など入る余地はなかった。北川から美月とベッドシーンをやると聞いた瞬間から彼の頭の中は完全に美月のベッドシーンで覆い尽くされてしまった。ああ!美月がよりによってバカアイドルの北川光とベッドシーンをするなんて!ベッドシーン!ベッドシーン!あんな奴に美月さんのあんなところやこんなところを痴漢されるなんて!悍ましい!あまりにも悍ましい!美月さんは天使じゃなくちゃいけないんだ!僕のたった一人の!照山は今ハッキリと頭のどこかがブチ切れる音を聞いた。

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎‼︎‼︎‼︎

 照山は会場に轟くような大絶叫を上げながら打ち上げ会場を突っ走った。美月は照山を必死に呼び止めようとしたが、もはや彼女の言葉は照山には届かなかった。

 美月はそれからすぐに照山を探すために打ち上げ会場から出た。彼女はまず照山に電話をし、次にLINEにメッセージを送ったがなんの反応もなかった。彼女はレストランに電話をして照山が来ていないか聞いたが、残念ながら来ていないどころか連絡さえないという返答だった。どこに行ったら照山に会えるのか。彼女は泣き腫らした目を拭きもせず照山を探して夜の街を彷徨った。しかし結局照山は見つからず日が昇り始めた頃、再び照山にLINEを送った。彼女はその中で昨夜の事を詫び、そして改めてベッドシーンはしないと誓った。


 照山は大絶叫して打ち上げ会場を飛び出した後、そのまま直行で自宅に戻っていた。彼は自分の部屋に入ると床を転げ回って思いっきり号泣した。ああベッドシーン!なんと呪わしい言葉か!ベッドシーン!今ではそれが芸能界の全ての悪を象徴する言葉に聞こえる!ベッドシーン!ベッドシーン!頭の中にこびりつくこの呪わしい言葉から溢れ出てくるあまりに淫らで悍ましい想像!何故、何故美月さんがベッドシーンをしなければならないんだ!彼女は僕たちRain dropsの音楽で過去の堕落から抜け出したばかりなのに!スマホから度々通知が来ている。だけどベッドシーン。この言葉が頭にこびりつく限りスマホなど手に取る気になれぬ。照山はそれから世が明けるまで頭にこびりつく呪いのベッドシーンと戦った。

別れの手紙

 そして朝靄の中ようやく我を取り戻した照山はやっとスマホを開く事が出来た。スマホには美月からの夥しい通知があった。美月だらけの着信履歴。美月だらけの留守電。美月だらけのLINE。それらの大量の美月を見て照山は涙を流した。彼は一通り美月のメッセージを読み、それからもう一度最初に読んだ美月の最新のLINEを読んだ。そこには昨夜の謝罪とベッドシーンは絶対にやらないという内容が書かれていた。

『……最後にもう一度照山くんに誓います。私、美月玲奈はこれから先、何があろうとも絶対にベッドシーンはしません』

 照山はこのLINEの最後の部分を血走りすぎた目で何度も何度も読んだ。そして納得するまで読むと目を閉じて美月の事を考えた。美月があれほど堕落した人生を送ってきたのは芸能界に囚われているからだ。芸能界に囚われているが故に彼女は堕落し、そして今ベッドシーンという呪いをかけられようとしている。美月はLINEでベッドシーンはしないと誓いを立てたが、しかし芸能界に囚われている彼女がどうやってベッドシーンに立ち向かえるのだろうか。美月の周りにはベッドシーンの誘惑が多すぎる。あらゆる人間にベッドシーンを勧められ、そうして知らず知らずのうちにベッドシーンの呪いにハメられていくのだ。

 美月を芸能界という地獄から救おう。そうすれば彼女は二度とベッドシーンの呪いにハメられなくて済むのだ。今すぐ救わねばならぬ。そうしなければ彼女はベッドシーンの呪いに完全に囚われてしまう。照山はそう決意すると早速LINEを開いて美月へのメッセージを書いた。

『美月さん、昨日はごめんなさい。僕は君の過去と君がベッドシーンをやるという話を聞かされた衝撃で思いっきり混乱してしまったのです。僕は家に帰って一晩中君の事を思って泣いていました。君がどうしたら完全に救われるのか。君がどうしたらピュアな君自身でいられるかを頭を掻きむしりながら深く考えたのです。その結果僕はこう考えました。多分僕が今から書くことは君にとって耐えられない事でしょう。だけどこの方法でしか、君は君自身を救えないのです。

 お願いです。今すぐに芸能界を辞めてください。永久にベッドシーンから逃れるには芸能界から引退するしか方法がないんです。君はベッドシーンは最新のLINEで絶対にやらないと僕に誓ってくれました。だけど芸能界という頭の悪い豚しかいない地獄では君は絶対にベッドシーンの誘惑から逃れられません。一体君のようなロックも文学も完全に理解できるほど頭のいい人間が何故そんなに芸能界のようなバカしかいない世界に居続けるのでしょうか。芸能界は嘘を撒き散らす世界です。ドラマも嘘、映画も嘘、全部が嘘だらけの世界ではどうやったってまともな人間にはなれません。君は芸能界に居続ける限り、また堕落し、またベッドシーンの誘惑に取り憑かれてしまうのです。そうなる前に君自分を救いたいならもう完全に芸能界から縁を切って下さい。それが君を救う唯一の道なのです』

 ベッドシーンに取り憑かれた男、照山は興奮状態でLINEを書き綴り、そしてようやく書き終えた時、彼は自分が美月の救世主か白馬の騎士になったような錯覚を覚えた。照山は自分の文章を何度もチェックした後で美月に送った。それから彼はそれから他のメンバーやマネージャーやレコード会社からの連絡を全て無視して、一日中美月の返事を待った。時間がやたら長く感じた。美月は僕のメッセージを読んで自分がどうすべきか悩んでいるのだろうか。だけど悩む必要などないではないか。君が完全に救われる方法は芸能界を引退する事。それだけなのだから。

 しかし、時計が十二時を過ぎた時、ようやく美月からLINEのメッセージが届いた。照山はとうとう彼女が芸能界からの引退を決意したと喜んで早速LINEを開いた。だがそこにあったのは引退するという言葉ではなく自分への強烈な非難の言葉であった。

『……私は今まで生きてきてこれほど酷い言葉を言われたのは初めてです。しかもそれを一番大好きな照山くんに言われるなんて。読んだ後ショックと怒りで思わずスマホを叩き割ろうとしてしまいました。私たちがいる芸能界が地獄ですって?私たち俳優がみんなで一丸となって作っているドラマや映画が嘘だらけの世界ですっ?照山くん、あなたは一体芸能界の何を知っているんですか?何にも知らない人間に私たちの事を好きに書かれたくはありません。私ハッキリ言って頭に来ています。確かに私たちは照山くんみたいに純粋な少年のようなものは作れません。でも私たちはそれでもいいものを作ろうと日々頑張っているのです。その私たちを一絡げにバカにするような事を言うのはやめて下さい』

 照山はこのメッセージを読んで美月がここまで芸能界という地獄に侵されているのかと思って唖然とした。自分をここまで堕落させた芸能界をここまで庇うとは。彼女はまさか自分がどれほど酷い堕落に堕ちていたかまだわかっていないのか?ならばハッキリと教えねばならぬ。照山は憤激して再び美月に宛ててメッセージを書いた。今度は美月に自身が芸能界という地獄に自身がどれほど犯されていたか知らしめるために、北川が話した彼女の過去の堕落を挙げて徹底的に批判した。

『……いいかい?君は昔有名になりたいという浅はかな考えでいろんな人たちと一夜を共にしたそうだね。だけどそれは世間では買春と言われるものなんだよ。君は芸能界にいるから自分の罪の重みを認識できないんだ。そんな君がベッドシーンなんて買春の真似事を拒否できるはずがない。何故なら君は自身が買春していることさえ理解できないのだから。君が自身の罪の愚かさを認識し真から更生するには芸能界を引退するしかないんだよ』

 照山はここまで書けば流石の美月も自分の罪の愚かしさに気づくだろうと思った。美月はマグダラのマリアのように涙を流して彼女のイエスキリストたる自分に跪くだろうと思った。だがそね希望はあっさりと打ち砕かれた。美月からいくらもしないうちに来た返事はこれ以上ないぐらいほど激しい怒りのメッセージだった。

『あなたふざけてんの?なんであなたに私の過去を偉そうに説教されなきゃいけないのよ。私がやってる事が買春?芸能界にいるから私が自分の罪を認識できない?私がどれだけ芸能界で努力してきたかも知らないでよくそんな事言えるね。がっかりだよ。あなたはもっと人の心がわかる人間だと思ってた。あのもうLINEしなくていいから。あと電話もメールもしないでね』

 このあまりに冷たい拒絶を読んで照山は思いっきり号泣した。美月を芸能界とベッドシーンから救おうというあまりとんでもない事を書いてしまった。ああ!美月さん誤解しないでおくれ!僕は君の過去をあげつらって批判したつもりは全くないんだ!僕はただ君を芸能界の堕落から救いたいだけなんだ!

 照山はそれから何度も美月と連絡を取ろうとした。だが美月がLINEに書いた通りどこにもつながらなかった。LINEもブロックされ、電話メールも着拒され、しょうがないので美月の事務所に電話したが即ガチャ切りされた。もう僕らは終わりなのか。照山はショックのあまり入ってきた全ての仕事をキャンセルし、部屋にこもってひたすら美月を想った。全ては誤解なんだ。僕は君を真から救いたいだけなんだ。それなのにどうしてわかってくれないんだ。照山はスマホで撮った美月と一緒に撮った写真をひたすらスクロールしていた。僕らの恋はもう終わりなのか。あの輝かしい恋がこんな最悪の結末で終わるなんて!床にはいつの間にか髪の毛が大量に落ちていた。彼は床の髪の毛を拾ってゴミ箱に捨てた。そしてまたスマホのLINEを開いた。そこで照山は今まで消えていた美月が再表示されているのを確認したのだった。ああ!まさか!美月さんは僕を許してくれたのか。いや違う、ただ僕に弁明の機会を与えてくれただけだ。だがそれでも照山はうれしかった。美月さんに改めて僕の言わんとしていることを伝えたらきっと彼女は僕をわかってくれる。いや、そうでなくてはならないのだ。なぜなら彼女は僕の唯一の人だから。照山はスマホの前で涙を流しながら改めて美月へのメッセージを書いた。彼はそこでまず美月を傷つけたことを詫び、それから自分がどれほど美月を必要としているか、自分が真から彼女を芸能界という地獄から救い出し、二度とベッドシーンを必要としない世界に連れて行ってやりたいか、そして最後にとうとう自分が今まで口に出さなかった言葉まで書いた。

『……美月さん、僕はこの数日間ずっと君の事しか考えていなかった。君なしの世界がどれほど空っぽで生きていても意味のない世界であることを心から理解したんだ。もうこんな事読まされるのは君もうんざりするだろうけど、やっぱり僕は君が芸能界という地獄に囚われているのを見ているのが、身を引き裂かれるぐらい辛いんだよ。たとえ君が強い人間だったとしてもそんな地獄にいたら絶対にベッドシーンの誘惑に負けてしまうよ。お願いだ。この憐れな僕のために芸能界を引退してくれ、そしてベッドシーンなき世界へ二人で旅立とうよ。僕は君と一生添い遂げたい。君と結婚したいんだ。美月さん、僕は君の返事をいつまでも待っているよ。たとえ時が終わっても君の返事を待ち続けるよ。』

 美月に向けてメッセージを送信すると照山は床にスマホを置くと足を組んで座禅を始めた。照山の心は美月への想いをすべて書いた満足感で澄み切っていた。あとはこうしてひたすら美月の返事を待つだけだ。彼女はきっと僕の想いに応えてくれる。だって僕らは純潔な愛で結ばれた者同士なんだから。その彼の願いが叶ったのか、夜半過ぎに美月からのメッセージが届いた。照山はスマホの通知音を聞くとかっと目を開きすぐさまスマホを開いた。そして無言で美月のメッセージを読み終えるとガックリと床に倒れこんだ。それは美月の別れの手紙であった。

『照山君、メッセージありがとう。今までブロックしててごめんね。本当はそのまま放置しとくつもりだった。だけどこのまんま喧嘩別れみたいに別れるなんて辛すぎるから最後にお別れのメッセージを書こうとしてブロック外したんだ。だけどいざお別れの手紙を書こうとしても何から書いていいかわかんなくて、それでずっと迷ってて、だから開いたままにしてたんだ。本当にゴメン。照山君のメッセージ読みました。読んでやっぱり私は照山君にふさわしい女の子じゃなかったんだって事を思い知らされました。照山君が私を本気で心配して芸能界から引退しろって言ってくれた事、実は結構私の心に刺さってた。照山君の文章読んで世間はこんな風に私たちを思ているんだなって思ったし、自分もどこかで照山君と同じように芸能界を見ていたことにも気づかされた。芸能界でずっと生きてきてやめようと思ったことなんか何度もあるよ。Rain dropsを初めて聴いた時芸能界の外にはこんな純粋な世界があるんだって本気で感動したよ。出来たら照山君と一緒にその純粋な世界に旅立ちたいってちょっとの間だけど真面目に考えたこともあった。だけど私にはダメなんだよ。私は照山君と生きていくにはあまりにも芸能界に溺れすぎて、この汚れた水じゃないと生きていけない体になっちゃったんだよ。さよなら照山君、あなたと過ごしたのは短い間だったけど本当に幸せだった。結局手ぐらいしか繋がなかった私たちだけど、本当に最高の恋だった。私はこれからずっとあなたの事を忘れません。照山君、私はこれからもRain dropsを応援し続けます。いつまでも少年のような心で私たちを照らしてください。From:かつてあなたの恋人だった美月玲奈より』

 人間がこれほど泣くことがあったろうか。照山の泣きっぷりは後にギネスブックに確実に乗るほどのものであった。照山の涙は床上浸水を引き起こすほどのものであった。彼はたった今美月という希望を失った。もしかしたら自分を少年から大人へと成長させてくれる人を完全に失った。だが、彼は立ち上がらねばならなかった。長い夢から覚めねばならなかった。照山は泣き終えると、何故か沢山落ちている濡れた髪の毛を拾ってゴミ箱に捨てると、スマホを手にしRain dropsの事務所に電話をかけ明日のスタジオ練習に参加すると伝えた。

再会

 我らがRain dropsの東日本ツアーは関東を回り、東北へから北海道へと北上していったが、そのツアーの様相は西日本と武道館のライブから大きく様変わりしていた。ツアーのセットはほとんど変わっていなかったが、照山が大きく変わっていた。彼は西日本ツアーに比べてぐっと口数が少なくなり、演奏もどこか陰鬱なものになっていた。あるライターはこれはRain dropsが成長した証と評したが、ライブを追っかけているファンはその評はどう見ても違うと反論した。いづれにせよRain dropsはここで大きく変わってしまった。それは未来の東京ドームで起こる悲劇の始まりでもあった。

 Rain dropsは東日本ツアーを北海道で終えて、全国ツアーの最後を飾る東京ドーム公演のために再び東京に戻ってきた。マスコミは相変わらずRain dropsを取り上げまくったが、肝心のバンドは以前のようにマスコミの前に出ることはなく、すべてレコード会社が代わりに対応していた。そして東京ドーム公演が行われたが、これは武道館公演と真逆の意味で伝説のライブだった。Rain dropsはライブ中に全くMCをせずただ淡々と曲を演奏した。その演奏はドームの外の冬空よりも冷たいと評されるほどのものであった。ファンは崩れそうになりながら必死で演奏し歌う照山を見てもしかしたら死んでしまうかもと本気で心配した。武道館ライブと同じくアンコールのラストで演奏された『少年だった』は武道館の時の高揚感と真逆の異様な冷たさで観客を突き刺した。そして全曲演奏し終えると、Rain dropsは挨拶もせずにステージから去っていった。

 その夜の事であった。東京ドームのライブ後Rain dropsのメンバーはドーム近くのホテルに泊まっていた。メンバーは自分たちにあてがわれた部屋に入ってそれぞれの部屋でテレビを観たり、ゲームをしたり、あるいは屁をこいて寝ていたが、照山は何もせずただテレビの真っ暗な画面を見つめていた。もうLINEなどはしなかった。連絡はすべてメールやフェイスブックでするようになっていた。沈黙の中で彼はふと美月玲奈の事を思い浮かべた。しかし思い浮かべた瞬間照山は首を思いっきり振った。ああ!いまだに僕は美月の事に未練があるのか。だけどあの人はもう僕の元から永遠に去ってしまった。あの人は芸能界の人、僕とは住む世界が違うのに。

 照山は冷水を飲んで頭をスッキリさせようと部屋に置いてある冷蔵庫に行こうとしたが、その時いつの間にか床に落ちていたテレビのリモコンを踏んでしまった。その途端テレビがパッと光ってホテルらしき場面を映し出した。それはどうやらテレビドラマのようであった。60インチのテレビの液晶画面の中にはカップルらしきものが部屋の真ん中で抱き合っているのが見えた。照山はこれを見てバカげたドラマだと憤然としてすぐにテレビを消そうとしたが、その時彼はカップルの女が美月に似ているのを認めて思わず目を見開いた。

 まさかここに写っているのは美月なのか?そう思った途端画面は美月本人だと正面するようにクローズアップとなった。ああ!何故、何故美月がここにいるんだ!もうとっくに別れたはずなのに、もう忘れようと思っているのに!クローズアップの美月は照山の前で画面の外の男に微笑みかけてゆっくりと顔を近づけた。ここで画面は切り替わって今度は男がクローズアップになった。照山はこの男の顔を見て愕然となった。こいつはあの北川光じゃないか!いったいこれはどういうことなんだ!だが照山にはこうなることはわかりすぎるほどわかっていた。ああ!あの時力づくでも美月を芸能界から引退させておけばよかった!そうすれば彼女は今僕の隣にいたはずなのに!

 今照山の目の前で美月と北川は熱いキスを交わし始めた。これからの場面は彼にとってまさに芸能界の地獄であった。しかし地獄はまだまだ続いた。美月が肩を露わに出したシャワーシーン。それぞれ胸と腰に一枚のバスタオルを巻いただけの破廉恥な姿ででベッドの脇に座っている美月と北川。ああ!とうとう美月と北川がベッドに上がってしまった。ベッドに横たわっている美月。その彼女の顔から肩を舐めるように撮るカメラ。北川は美月に向かって「いいのか?」なんて演技じゃなきゃ絶対に言わないセリフを吐いて美月の上に乗った。美月は「いいよ」と答えて北川から顔を逸らした。ああ!照山は今すぐ液晶の中に飛び込んで美月を助けたいと思った。こんな事今すぐにやめさせてやると。だが、その時彼は北川から顔を逸らしてこちらを見ている美月が何かを決意した表情で一筋の涙を流しているのを見てその場に立ち尽くした。その表情は明らかに何かに別れを告げる表情そのものだった。照山はそれを自分への別れだと思ってその場に泣き崩れた。泣いていると頭から何かが抜けていって頭がすっきりするような感覚を覚えた。照山はこのまますべて抜けてしまえと部屋に蹲り髪を掻きむしって一晩中果てしなく絶叫していた。

サンシャイン・マウンテン(照山)

 翌日、テレビ各局は揃って昨夜行われたRain dropsのドーム公演を取り上げた。朝、照山はそのテレビ番組がけたたましく流す自分たちの曲に目を覚まされた。曲は朝の時間帯だからか陽気な『サンシャインマウンテン』であった。音源はドームの公演の特集なのになぜか武道館の公演のもので、観客がサビをサンシャインから照山に変えて合唱したものだった。「て~るやま!て~るやま!て・る・や・ま」の合唱が部屋に響いた。照山は自分の曲にハゲまされて体を起こしたが、その時、頭から汚れが取れるように黒いものが大量に頭から落ちて来た。彼は何事かと思って頭に手を当てたが、その時髪を突き抜けて油まみれの地肌に触ってしまったので何事だと思って鏡台へと飛んで行った。そして彼は自分の顔を見て光ってはいけないものが丸光りになっているのを見たのである。照山は体を起こした時の事を思い出して先ほどまで寝ていた場所を見た。するとそこにはかつて自分の体の一部であり命であったものが大量に積まれていたのである。ああ!テレビはまだ例の歌を流していた。「て~るやま!て~るやま!て・る・や・ま!て~るやま!て~るやま!て・る・や・ま!て~るやま!て~るやま!て・る・や・ま!……」エンドレスで流れる自分の曲に向かって照山は絶望的な声でにやめろ~と叫んだ。だがまだRain drops特集は終わる気配はなかった。


 これがあの東京ドームの悲劇の元になったRain dropsの照山の大失恋事件である。照山たちRain dropsはこの大失恋事件の影響で迷走して一時期人気が低迷した。だがしばらくの潜伏期間の後シングル『裸』とアルバム『NAKID』で見事大復活を遂げた。しかしバンドが抱えていた大問題は決して解決されず、後のあの東京ドームの大悲劇を生んでしまった。この時期のRain dropsはその予兆がすでにあったが、しかし照山はこの時は自分の抱えている問題は必ず解決されるものと信じ、少年の心でRain dropsの活動を続けていたのであった。

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