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吾母識らずの男(あつし)と母の物語~中島敦の母 覚書~
昭和13年頃(1938年)のある日、中島敦は手帳に漢詩の草稿を書き留めました。
生来不識吾母(生来識らず 吾を生みし母を)
病中思母愁傷久(病中に母を思い 愁傷久しく)…
この漢詩を書いた頃の敦は、横浜高等女学校に勤務して6年目。喘息が悪化しはじめ、欠勤が増えてきていましたが、ユーモアある話しぶりと豊富な知識、授業でのたくみな朗読で、あいかわらず人気のある教師でした。
しかし、この1年間に、
昭和13年頃(1938年)のある日、中島敦は手帳に漢詩の草稿を書き留めました。
生来不識吾母(生来識らず 吾を生みし母を)
病中思母愁傷久(病中に母を思い 愁傷久しく)…
この漢詩を書いた頃の敦は、横浜高等女学校に勤務して6年目。喘息が悪化しはじめ、欠勤が増えてきていましたが、ユーモアある話しぶりと豊富な知識、授業でのたくみな朗読で、あいかわらず人気のある教師でした。
しかし、この1年間に、