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横浜高女の敦先生 教師・中島敦エピソード集 中編(J-Q)

「中島敦の会」ポスト(ツイート)まとめ2

横浜高等女学校で8年間、教師をつとめた中島敦。
(1933年4月~1941年3月 ※4月より休職、6月に退職)
彼はどんな教師だったのか?
それを知るヒントになるユニークな証言や資料を集めました。
元・同僚や生徒たちの思い出や、横浜学園(元・横浜高女)の資料から、
生き生きとした「教師・中島敦」の姿がつたわってきます。
意外な一面や興味深いエピソードを、キーワードをつかってご紹介します。

※「中島敦の会」のXのポストのまとめです。
※キーワードをアルファベット順に並べました。今回はJからQまでの掲載です。


J 

Journey 旅行(修学旅行など)

横浜高女時代の敦は、学校行事で関西(伊勢、京都、奈良)、箱根、日光、銚子・茨城など引率旅行へ参加した。その他にも、職員どうしで登山、温泉巡りなどをしている。

修学旅行

登山

K 

kyouteki 羌笛

学校誌「ゆかりの梅」に掲載した14首の和歌集のタイトル。見開きで2ページの小歌集。この14首は、のちに歌稿「霧・ワルツ・ぎんがみ~秋冷羌笛賦~」(全131首)にまとめられている。

L 

Love 恋愛

1937年3月、受け持ちの生徒を卒業生として送り出した敦。その謝恩会の席上で恋愛についてスピーチした。教え子たちの未来(結婚)を思い贈られたこの話は、聞いていた同僚たちにも強い印象を残した。

敦に先立って同僚教師の平野宣紀氏が「青春はふたたび来ない、よい恋愛を必ずしなければならない」とスピーチ。そのあとに中島敦が立ち上がり、非常にユーモラスに、しかしきっぱりと「必ずとは言えない」と述べたという流れ。 言葉を贈られた卒業生たちは、その後、どんな恋に出会ったのでしょうか?

ちなみに、平野・中島両者とも恋愛結婚をしていたことは、学校で知れ渡っていたそうです。 「汐汲坂 中島敦との六年」(山口比男/えつ出版/1993年)、岩田一男氏談/会報2/1980年)より。 写真は「ゆかりの梅」39/1938年刊掲載の1937年卒業式記念写真。

M

Makyokansekitou 麻杏甘石湯(まきょうかんせきとう)

喘息に苦しむ敦が飲んでいた漢方薬。教え子の母(看護協会勤務)に紹介された漢方薬剤師から処方箋を手配してもらっていたという。

Magazine club 雑誌部

雑誌部は主に横浜高女の校内誌「ゆかりの梅」、「学苑」を制作。敦は1936年に顧問教諭の中心となり「編集人」として上記の校内誌の他、「記念祭新聞」「体育大会新聞」を担当した。

学校誌「学苑」

雑誌部の作業風景


N

No,no,no ノゥ、ノゥ、ノゥ

英語の授業で、生徒が間違った答えをしたときの敦のリアクション?
「坊やが甘えているよう」な口つきだから、先生は末っ子じゃないのかしら、などと作文中で女生徒は書いていますが、敦は長男です(笑)

O

Olympics オリンピック

1936年11月、横浜高女の体育祭がおこなわれた際、敦は「体育大会新聞」制作に雑誌部顧問・編集人として参加。その4か月ほど前の7月、4年後(1940年)の東京オリンピック開催が決定している。その影響か、新聞には「讃えんかな!我等がオリンピアード」という見出しが躍っている。

P

Pig ブタのぬいぐるみ

敦の呼び名「トンちゃん」から、トン(豚)→ブタで、ブタのぬいぐるみを作り、敦にプレゼントした女生徒がいた。
「痩せっぽちの彼に、丸々肥ったブタの贈り物とは、何とも皮肉なことだったが、『先生! もっと肥って丈夫になってください』という生徒の願いがこめられているのかもしれなかった」(山口比男/会報12/1990年)

Q

Question 質問

「君たちは哲学ということを考えたことはあるかね?」
ある日の授業中、ふいに敦が問いかけたことに、どう対処すればよかったのか。ある卒業生は、数十年たった後も考え、応えられなかったことを残念に思っていた。

「あまりの突然の質問で、教室の中は一瞬シーンとなった。 どういう意味なのかはかりかねてオロオロしていると、後方の席から『わかりません』と大きな声が返ってきた。 すると、先生はなぜかちょっと狼狽する様子を見せて『イヤ、いいんだ』と言われたきり、あとはそのことにふれなかった。

『イヤ、いいんだ』とはどういう意味だったのだろう。教師と生徒という格差ある日常から、心を開いて生徒の側に入ってきて話をされようとしたことなのか、哲学と言う言葉に対する反応の思いがけぬ次元の低さに狼狽されたのか、よくわからないが、何か心に持っているものを語りかけようとした。

そのいとぐちを摘んでしまったようで、『わかりません」と先生の口を封じたことが、今となって残念に思われる」(会報3/吉田一美・1939年卒)

今回のまとめはここまで。
R以降は後編に続きます。(近日公開予定)

※「中島敦の会」X(旧Twitter)もよろしければご覧ください。




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