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横浜高女の敦先生 教師・中島敦エピソード集 前編(A-I)

「中島敦の会」ツイートまとめ

横浜高等女学校で8年間、教師をつとめた中島敦。
(1933年4月~1941年3月 ※4月より休職、6月に退職)
彼はどんな教師だったのか?
それを知るヒントになるユニークな証言や資料を集めました。
元・同僚や生徒たちの思い出や、横浜学園(元・横浜高女)の資料から、
生き生きとした「教師・中島敦」の姿がつたわってきます。
意外な一面や興味深いエピソードを、キーワードをつかってご紹介します。

※「中島敦の会」のツイートのまとめです。
※キーワードをアルファベット順に並べました。今回はAからIまでの掲載です。

A

Atchan あっちゃん

女生徒間で敦を呼ぶときに使われていた呼び方のひとつが「あっちゃん」。
例/「あっちゃん先生」「ガスタンクのあっちゃん」
「ガスタンクのあっちゃん」は「(中区本郷町にあった)ガスタンクの近くに住んでいるあつしちゃん」という意味。
敦が住んでいた本郷町の丘は「ガス山」と呼ばれていた。丘の登り口に東京ガスのガスタンクがあったことに由来するという。その「ガス山」上の家へ敦一家が引っ越したのは1935年春。それから間もなくして、女生徒から「ガスタンクのあっちゃん」とニックネームをつけられた。(横浜学園創立90年記念誌)

類語
Atsushi-sama 敦様
一高時代、親戚の家(「渋谷の伯父」関翊(たすく)氏の親族)でその家の召使に「敦様」と呼ばれ、お客様として大切に扱われたという。(会報11・1989年)

B

Baseball 野球

野球は敦の好きなスポーツのひとつ。本人いわく「中学の2年ころが一番上手でした」。(学苑7・1936年)
横浜高女では、校庭が拡張したのをきっかけに、男性教職員が休み時間にキャッチボールをおこなうようになり、それを見た女生徒や女性職員は「とっても明るい風が吹いたような」気持ちになった(学苑 創立60周年記念号・1959年)という。
1936年頃にはチームを結成、Y校(横浜市立横浜商業高校)と神奈川県立第一高女(現平沼高等学校)の職員チームと親善試合もした。(山口比男『汐汲坂』)
なお、敦が同僚たちとキャッチボールをした旧・横浜高女校庭のその場所には、現在、「中島敦文学碑」が建っている。(会報2・1980年)

Chameleon かめれおん

1935年10月、敦が女生徒から託された動物。敦の世話もむなしく衰弱し、後の預け先の動物園で死亡。学校誌「学苑6」(1935年)・「ゆかりの梅37」に写真が載っている。敦の作品『かめれおん日記』のタイトルロール。
後日談では、標本にするべく、はく製にしたが、請け負った業者が眼をガラス玉に入れ替え、舌を赤く塗るなど魔改造をおこなったためその役目をはたせず、活用されることなく理科室の所蔵庫に収められたままになってしまったという。(山口比男『汐汲坂』)「かめれおん」は1945年5月の横浜空襲で横浜高女の校舎とともに焼失した。


D

Desk 机

横浜高女の職員室はせまく、人数分の机を置けないくらいだったため、教師2人で1つの机を使っていた。敦は1933年4月以来、同時に就職した岩田一男と机をシェア。
「あのせまい職員室に先生が全部入ったんですよ。机を並べて…という言葉がありますけれども、そうじゃなくて、1つの机を2人で(使った)。私(岩田)の場合は中島敦君といっしょに使ったわけなんです。僕は中島君とはじめからいっしょでね。どうも楽しかったですよ」
岩田退職後の1938年以降は高橋資雄が座った。(学苑 創立60年記念号 1959年 他)

E 

English 英語

敦は英語も達者で、大学進学の際には英文科を選ばなかったのを意外に思われたほど。
英語教師で後の英文学者・岩田一男は「僕より(英語が)うまい」と言っていた。
校内で敦と岩田が英語で話している姿を女生徒たちは見ているが、これは「他の人にわかると具合の悪い時」のことだったという。(会報5・1982年)
敦は、他人に聞かれたくない会話や、家族などに読まれたくない日記に英語を使うことがあった。

F 

Foreign Cemetery 外国人墓地

敦の散歩コースのひとつ。『かめれおん日記』に外国人墓地を散歩するシーンが描かれている。同地でよんだ和歌も多い。
1989年3月には敦が思索にふけったであろうシドモアの墓の近くに、「中島敦歌碑」が建てられた。

G

Ghost writer ゴーストライター

理事長の挨拶や原稿を、敦が手掛けることがあった。ときには隣の席の岩田一男が力を貸し、敦に感謝されたというエピソードも。
<校友会雑誌にのせる校主さん(理事長)の挨拶の下原稿を、国語の中島敦が書きあぐねて弱っている。なにしろ一つ机を二人で使っているんだからすぐわかる。助けてやろうか、と言わないと義理が悪い。「諸子よ」ではじまり、「わが卒業生を全世界に」と承け、「同窓会館の建設を」と展じ、校主さんの好きな「ともにともに…」という結びにした。「校主さん、喜んでいたぜ、どうも君には校主さんと共通したところがある」にやにや笑って中島は言った。>
(故田沼勝之助先生の憶い出 1964年)

H 

Heichinro 聘珍楼

横浜中華街の老舗中華料理店(2022年閉店)。横浜高女の新年会などが開かれることも多く、敦お気に入りの料理店のひとつ。東京などから訪ねて来た友人を連れていくこともあった。
歌稿「Miscellany」には「聘珍楼雅懐」として14首の歌を作っている。

I 

Illustration イラスト(似顔絵)

マンガ(イラスト)が得意な女生徒が描いた「先生印象記」用の似顔絵が学校誌「学苑7」(1936年)に掲載された。敦はこの時、自分が描かれた似顔絵に複雑な思い(残念そう?)を抱いていたらしい。
<似顔絵を見た、作者への敦の言葉>
「君、すごいね。僕の顔、あんなに君にはみえたのか」
「杉本君のは(似顔絵)、なかなかあれは価値あるものの見方ができている。堀部さんもあれでいいだろう…だけど僕のは…君にはあの程度にしか、受け止めなかったのか」(ちょっと残念そうに)>
のちの教え子たちは「中島先生、ご自分ではもっと良いと思ってらしたのね」と推測している。(会報4・1981年)
しかし、敦はこの似顔絵マンガを描いた女生徒の画力を認めていて、「漫画(似顔絵)の本田章さん」を優秀作に選んでいる。
※「学苑7」後記より
「掲載作品中優秀作に賞品を呈することにした。今回は協議の結果、創作の岡本秀さん、川口直江さん、漫画(似顔絵)の本田章さん、の三君を選ぶこととした」(中島敦)


今回のまとめはここまで。
J以降は中編に続きます。(近日公開予定)

※「中島敦の会」Twitterもよろしければご覧ください。


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