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横浜・2つの中島敦記念碑2

作家・中島敦が8年間を過ごした地・横浜。
多くの人に親しまれ、慕われた彼と、横浜のゆかりを記念しようと、
2つの記念碑がつくられました。
本項では、2つの記念碑のうちのひとつ、
「中島敦歌碑」について、「中島敦の会」の記録を中心に、
その成り立ちやエピソードを紹介・解説いたします。

その2「中島敦歌碑」

所在地 横浜山手の外国人墓地内

外国人墓地は横浜在住時代の敦の散歩コースのひとつで、勤務地の横浜高等女学校にも近い。
のちに紹介する『かめれおん日記』中で、墓地の門番と顔見知りになるほどよく訪れていた。
その敦なじみの場所に、記念碑が建てられることになったのは、彼の死後47年たった1989年のことだった。

外国人墓地。石棺がシドモア(スキッドモア)家の墓

※横浜外国人墓地内は通常非公開。ただし2~7月、9~12月まで毎週土・日曜日、及び祭日(雨天のぞく)の12時から16時に募金公開をおこなっています。

1「中島敦歌碑」隣の墓に眠る「エリザ・シドモア」とは?

「中島敦歌碑」近くの墓に眠るエリザ・シドモアとは、どういった人物なのか?
エリザ・シドモア(1856~1928)は、19世紀末から20世紀初めにかけて活躍したアメリカの女性旅行家・文筆家。
たびたび来日し、日本についての著述も多い。彼女が日本について書いた文章は『日本・人力車案内』(有隣堂/恩地光夫・訳)で読むことができる。

エライザ・ルアマー・シッドモア著
1986年発行

※彼女の名前の日本語表記は「エリザ・シドモア」「エライザ・シッドモア」「スキッドモア」「スィドモア」などがある。ここでは「エリザ・シドモア」と呼びます。

シドモア女史は桜咲く日本の光景を愛し、母国・アメリカにもその光景を実現しようと考えた。その結果、実現したのがワシントンのポトマック河畔の桜並木である。
いまやアメリカの桜の名所となり、毎年春にはその様子がニュースとして報じられている。

シドモア女史は1928年にスイスで死去し、その遺灰は横浜へ葬られることとなった。横浜・外国人墓地には、彼女の家族…日本総領事をつとめた兄ジョージと実母…が眠っている。夫を持たなかったエリザは家族と同じ墓に入ることになったのだった。

この3人のシドモア家族の眠る墓の隣が、中島敦の歌碑が建つ場所である。

2中島敦作品に描かれたシドモア家墓地

シドモア家の墓近くに「中島敦歌碑」が建てられたのは、中島敦の作品『かめれおん日記』の一節にちなむ。

(外人墓地の)入り口の印度人の門番に一寸会釈をして墓地の中にはいる。勝手を知った小径々々を暫くぶらつき、ヂョーヂ・スィドモア氏の碑の手前に腰を下ろす。ポケットからルクレテウスを取り出す。別に読もうという訳でもなく、膝に置いたまま、下に広がる薄霧の中の街や港に目をやる。

中島敦『かめれおん日記』

『かめれおん日記』の他にも、歌稿『霧・ワルツ・ぎんがみ』中の「於外人墓地十七首」の中にジョージ・シドモア氏を詠んだものがある。

たらちねの母と眠るよ亜米利加の総領事とふジョーヂ・スィドモア
ははそはの母を悼むと築きし墓に子も入りてよりはやも幾年

中島敦歌稿『歌稿/霧・ワルツ/ぎんがみ』《於外人墓地17首》より

3「中島敦歌碑」建設へ

中島敦の記念碑を、外国人墓地のシドモア家墓傍に建てようという計画が立ち上がったのは、1987年3月末のシドモア桜植樹式において。
横浜ペンクラブ、中島敦の会会員の間で、『かめれおん日記』の話題となったことからはじまった。
同年8月発行の「中島敦の会会報9」で横浜ペンクラブ事務局長・生出恵哉氏がその計画について以下のように寄稿している。
「来年の桜の季節に、シドモア桜を見る会の開催を計画している。それまでにはシドモア家の墓のかたわらの敦が『日記』に書いた墓の手前の腰をおろした場所、すなわち「敦の場所」に小さな銅板のこんな説明板を立てようと思う。
≪小説家、中島敦は、昭和8年から16年まで私立横浜高等女学校(現横浜学園)の国語教師を勤めた。元町や山手の丘は敦のよく散歩する道であり、外人墓地もたびたび訪れた。作品『かめれおん日記』には「スィドモア氏の碑の前に腰を下ろす」とあり、この場所で休み、街や港の景色を眺めている。≫

この言葉どおり、「敦の場所」説明板制作がはじまった。
しかし、進めるうちに当初の構想から変更が加わり、銅板ではなく石碑とすることになった。
増加した制作費をねん出するため、横浜ペンクラブ(内田四方蔵会長)と中島敦の会(会長・田沼智明横浜学園長)が寄付を募った。
そして、予定から1年遅れて1989年春、「敦の場所」に歌碑が完成した。

4さくらさくら…桜の中の除幕式

「中島敦歌碑」の大きさは高さ50センチ、幅30センチと、元町の文学碑に比べるとかなり小ぶりなものとなった。
黒の御影石で、上に中島敦の歌が刻まれている。

朝曇りこの墓原に吾かゐれは汽笛とよもし船行か見ゆ

中島敦歌稿『霧・ワルツ・ぎんがみ』《於外人墓地17首》より


正面には以下の文(《敦の場所》の紹介)が刻まれている。

かめれおん日記(敦の場所)
小説家、中島敦(1909~42)は、昭和8年から16年まで私立横浜高等女学校(現横浜学園)の国語教師を勤めた。
元町や山手の丘は敦のよく散歩する道であり、外人墓地もよく訪れた。作品『かめれおん日記』には「スィドモア氏の碑の前に腰を下ろす」とあり、散歩の途中ここで休み、港の景色を眺めたことがうかがわれる。

この記念碑の除幕式は、1989年平成元年3月31日に挙行された。
当日の次第は以下のとおり。

第三回シドモア桜の会
●墓前祭 
エライザ・シッドモア女史 外人墓地納骨満六十年記念
・中島敦記念碑完成とカルミア移植
・除幕式
・朗読『かめれおん日記」』の一部
・合唱「さくらさくら」
・桜湯 桜餅

当日配布式次第より

この年はシドモア女史の遺灰がスイスから日本に移されて60年にあたり、「60年記念墓前祭」のプログラムとして中島敦記念碑除幕式がおこなわれた。
除幕式ではワシントンに桜を送った女史にちなみ、「さくらさくら」が合唱された。
中島敦のかつての教え子たち、そして敦のかつての同僚・渡辺はま子も参加していて、ともに歌った。

中島敦が「かめれおん日記」の構想を練ったのは昭和10~15年頃、1935~1940年頃だったという。
『かめれおん日記』の中で、彼は「ヂョーヂ・スィドモア氏の碑の手前」に腰を下ろして、次のような思索にふける。

「去年のちょうど今頃、やはり霧のかかった朝、この同じ場所に座って街や港を見下したことがあった。私は今それを思い出した。それが何だか二三日前のことのような気がした。というより、今もその時から続いて同じ風景を眺めているような変な気がした。」

中島敦『かめれおん日記』

時の経過を忘れて「続いて同じ風景を眺めているような」心持ちで中島敦が眺めた港と街は、結局は時の経過の末に消えてしまった。
そして50年ちかくもの時が経った1989年の平成元年、変わってしまった風景の中。
自分が腰かけた場所に記念碑が作られ、その傍らでかつての同僚と教え子たちが「さくらさくら…」と、歌ってくれるとは。
さすがの中島敦も想像できなかっただろう。

「さくらさくら」を歌う参列者たち。左前列2人目赤いスーツが渡辺はま子元教諭

《付記》家族の証言・散歩と本と《チビ》の思い出

中島敦の長男・桓氏の記憶より…
外国人墓地の思い出話をご紹介する。

敦は散歩に本を持っていっていた。
幼かった桓氏(敦はチビと呼んでいた)は、そんな父の真似をして、
絵本を抱えてついていった。
外国人墓地にも一緒に行った。
敦は《チビ》に墓碑を読んでくれた。
愛児を墓に残して帰国する外国人の話をしたことを覚えている…。


敦の歌稿『霧・ワルツ・ぎんがみ』の《於外人墓地17首》中にも、「小さき墓」を詠んだ歌が2首ある。
親としても、小さな墓石(幼子の墓)を見過ごせなかった…そんな敦の心情が垣間見えるエピソードである。


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