中島敦と久喜<中島家遺族より>

中島敦が書いた手紙について、ご遺族が心配していたこと。
久喜についてのひとことが、あらぬ誤解をうけているのではないか、と。
たいせつな地であるからこそ、あらためて、言いたいこととは…


はじめに

「久喜市郷土資料館特別展「敦 中島家の系譜」が2022年10月8日~12月4日に開催されました。
中島撫山が居を定めた明治以来、中島家と縁の深い土地・久喜ならではの充実した展示内容でした。
 
その展示資料のひとつに関して、中島家の方から一文をいただきました。
 
その資料…中島敦から妻タカへの手紙…については、以前から、中島家ご遺族は
「ご覧になった方々、そしてとくに久喜のみなさまが誤解されないか、お気を悪くなさらないか…」
とご心配なさっていました。
 
この機会に、誤解ないように当時の事情などもあわせて、皆様に知っていただきたいと、ご丁寧な文をお寄せくださいました。

まずは、「中島敦の会」より経緯を簡単にご説明いたします。

「世田谷は駄目、久喜も…」手紙の背景 

中島家が「久喜の皆様に誤解を招く」と心配しているのは、中島敦がパラオから妻・タカにあてた次の書簡です。

1941年9月2日 パラオから(一部抜粋)
(日本へ)帰れ帰れとお前はいうが、いったい何処へ帰るんだ?
オレの家はもう無いじゃないか? 
トレニアと白サルヴィヤの咲いているはずのオレの庭もないじゃないか?
三月になると、桜草どもが、もう蕾をふくらまし始める、あのボロ庭もないじゃないか?
何処へ帰れというんだ?
世田谷の家が僕の身体に駄目なことはもちろんだし、久喜なんかマッピラだよ。

(中島敦全集3)

これは、日本に残してきた妻・タカへの手紙(部分)です。
敦がパラオへ渡ったのは6月。
到着してすぐ急性大腸カタル、デング熱にかかり、食べ物もあわず、体調不良が続いていました。それに加えて、南洋は世界大戦へ向かう最前線の逼迫した空気が日に日に色濃くなっていきます。
敦はそういった状態を父・田人や妻・タカへの手紙に書き記しました。
それを読んで心配したタカから「日本へ帰れ帰れ」と書いた返事が届きます。受け取った敦の答えが、この手紙です。

手紙の中での「久喜なんかマッピラ」という表現が目についてしまいますが、敦が「マッピラ」と言っているのは「寒さ」であるのは、それまでの彼の健康状態からわかります。敦は喘息が悪化する冬の寒さに悩み続け、暖かい南への転地に活路を見出そうとしました。
しかし、その新天地となるはずの南洋で、赴任早々体調を崩し、食糧事情や国際情勢の逼迫を感じ、執筆もままならず…と、思うとおりに運ばないいらだちがあったようです。
その思いのままに綴ったため、いわば「やけっぱち」のような表現になったのでしょう。
素直に心情を吐露できる妻への手紙です。敦はまさかこの手紙が世間に発表される日がくるとは思ってもいなかったでしょう。

この、個人的な弱音を吐いた手紙が公開されることで、気を悪くされた方はいないか、誤解されていないか。
長年、心配されていた中島敦のご遺族からのメッセージを、次にご紹介させていただきます。

「久喜は大事な父祖の地」中島家より 皆様へ


久喜市には、曽祖父・中島慶太郎・撫山が、招かれ、町の皆様にたいそうお世話になリました。
私どもには大事な父祖の地です。
久喜の皆様に誤解を招くような手紙につきましては、父・敦に代わりまして遺族から深くお詫び申し上げます。
南洋に行きたい気持ちが強かったのだと思います。喘息の発作に苦しみ、暖かい場所への転地をよほど望んだのだと思います。
満洲への叔父からの誘いも断りました。
寒さに耐えられないと思ったのです。
・眠りてふ大き宝を人みなは宝と知らず羨しろきかも
・わが歌はわが胸の辺の喘鳴をわれと聞きつつよみにける歌
・わがいのちみじかしと思ひ道行けばものことごとに美しきかな・・・・
父の眠れない夜の苦しさに免じてお許しいただければと存じます。


本会より

以上、僭越ながら、いただいたメッセージのご紹介をさせていただきました。
久喜が、中島家にとって大切な場所であることをあらためて感じます。
久喜市のますますのご発展をお祈り申し上げます。


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