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吾母識らずの男(あつし)と母の物語~中島敦の母 覚書~


昭和13年頃(1938年)のある日、中島敦は手帳に漢詩の草稿を書き留めました。

生来不識吾母(生来識らず 吾を生みし母を)
病中思母愁傷久(病中に母を思い 愁傷久しく)…

この漢詩を書いた頃の敦は、横浜高等女学校に勤務して6年目。喘息が悪化しはじめ、欠勤が増えてきていましたが、ユーモアある話しぶりと豊富な知識、授業でのたくみな朗読で、あいかわらず人気のある教師でした。
しかし、この1年間に、親しい同僚(吉村睦勝、岩田一男)があいついで学校を去っていきました。
そして敦は30歳(数え年で)になります。
彼の脳裏には、自身の来し方行く末が浮かんでは消えることも多くなっていったのではないでしょうか。

己の過去を思うとき。
敦がまず立ち返るのが「生来識らず、吾を生みし母を」。
「わが母知らず」の自分である、ということでした。

そんな中島敦の「吾母」とはどんな女性だったのか?

中島家に伝わるお話を中心に、まとめてみました。

中島敦の母・岡崎ちよ略歴(中島家監修)

明治18年(1885年)11月23日 ちよ、東京にて生まれる 
父 岡崎勝太郎 母 きの

岡崎勝太郎は旧柳澤藩(郡山藩)撃剣師範の家に生まれたという。安政2年(1856年)生まれ。明治19年(1886年)に警視庁巡査となり、後に東京市京橋区三十間堀警察署会計係を務めた。
ちよ誕生時、勝太郎は29歳。
ちよは勝太郎・きの夫婦の一人娘である。

明治37年(1904年)3月 ちよ19歳 東京女子師範学校卒 尋常小学校教員となる(詳細不明)

明治41年(1908年)12月21日 ちよ23歳 中島田人(31歳)と結婚

田人は漢学者・中島撫山の六男。組合立銚子中学校教員(漢文)
お互いに、当時としては遅い結婚だった。

中島敦の父・田人と母・ちよ。明治41年(1908年)結婚の頃。

明治42年(1909年)5月5日 ちよ24歳 敦 生まれる

生後4か月の敦。「明42.9.11」の文字は敦による。中島家アルバムより

明治43年(1910年)頃 ちよ25歳 すでに夫婦は破局 
ちよは敦を連れて実家の岡崎家(東京市四谷箪笥町59番地/現新宿区三栄町10番地5)に両親と4人で暮らす。

明治44年(1911年)4月4日 ちよ26歳 父・勝太郎 脳溢血により没
享年57(数え年)だった。

同年 8月26日 協議離婚が成立、除籍。敦を中島家へ返す
2歳3か月だった敦に母の記憶はない。

大正3年(1914年) ちよ29歳 当時、岡崎家に下宿していた学生・桜庭進平と再婚

大正4年(1915年)4月9日 ちよ30歳 幸雄 生まれる(敦の異父弟)

大正10年(1921年)7月3日 ちよ 没(満35歳)
ちよは病床で、敦の写真を抱いていた。臨終直前、敦の名を呼んだという。

7月5日 葬儀 戒名「夏雲凉泉信女」
桜庭家には墓もなく、きのは、のちに娘・ちよの遺骨を北青山の菩提寺・浄土宗高徳寺の岡崎家の墓に納めた。(桜庭姓のママ)

昭和17年(1942年)12月4日 敦 没(33歳)

平成3年(1990年)3月27日 幸雄 没(74歳)

ちよと中島家のエピソード

中島家になじめなかった?ちよ
ちよに関して中島家に伝わる話に、義父・中島撫山と「源氏物語」について熱心に語り合っていたというものがあります。彼女の知性と積極性がうかがえますが、そういうところが中島家にはなじまなかったのかもしれない、とも言われています。
当時の中島家の教養は漢学が中心であり、また、女子の教養は男子ほど重視されていなかったといいます。ちよは中島家の中でちょっと「浮いた」存在であったのかもしれません。
(しかし、田人の姉でちよには義姉にあたる志津は女学校教師でした。小学校教師のちよがまったく異質な存在だったとは言い切れませんが…)

ちよと離別後の敦と、父・田人の悲しみ
母と離され、久喜市の撫山邸へ引き取られた2歳の敦。その様子を、父・田人が手紙で綴っています。

◎明治44年(1911年)8月 田人から兄・関翊(せき たすく)への手紙

◎8月27日付け
就寝後1,2時間たつと、徐(おもむろ)にむづかり始め、終いには「カアチャン何処へ往った」「カアチャン処へ往く」といって駄々をコネルには実に閉口いたし候、いくらなだめても、すかしても、泣き已(や)まず、ただ泣き疲るるのを待つのみに有之候 「カアチャン」と泣かるる毎に、腸を寸断せらるる想、男泣に泣き申し候

◎29日付け
第三夜即ち昨夜は更に一層楽になり申候、「かあちゃん」といふ言葉は一回もいはず、折々トウチャントウチャンと申すのみに有之候 最早母は居らぬものと観念し居るものの如く候。しかし親の身になりては、夫れが反って、ふびんにもまたいぢらしく候
(中島田人書簡より抜粋/「中島敦研究」筑摩書房・1978年発行)

その後の母と子
ちよは田人・敦との離別以来、敦との対面を許されませんでした。
タカ夫人によると、
「敦はチヨが自分の写真を胸に抱いて死んだと人伝てに聞き、自分でもチヨの写真を撫でながら見つめていた」といいます。

「生来不識吾母」の詩

「生来不識吾母」の漢詩草稿を書いたのは、昭和13年(1938年)頃。このとき、敦がちよの死を知っていたかどうかはわかりません。
この漢詩草稿についての解説を、「生誕100年記念 図説中島敦の軌跡」(編著者/村田秀明・発行/中島敦の会・2009年)より引用します。

生来不識吾母
病中思母愁傷久
病骨今宵又不眠
燈前翳見病痩手
苦其心志
労其筋骨
餓其体膚

生来識らず 吾を生みし母を
病中に母を思い 愁傷久しく
病骨は今宵も又眠れず
燈前翳して見る 病痩の手
其の心志を苦しめ
其の筋骨を労せしめ
其の体膚を餓せしむ

後年、敦が詠んだ漢詩の草稿が手帳「昭和13年掌中暦」中に記されている。
宿痾の喘息の苦しみを詠う中に生母への思慕の情が表出している。

最後の一句は「孟子」告子章句下十五の一節である。
孟子の説くところは、天がある人物に大任を与えようとする時、必ずまずその人の心を苦しめ、その肉体を疲労させ、飢えるほどに困窮させ、苦境に立たせる。それは天がその人を大人物にしようとするためだ、ということである。敦は自らの詩にこの「孟子」からの引用を加えることで、心身を苛む宿痾や母との生き別れを、天が己に与えた試練として捉え、将来の大成を夢見ていたことが窺える。その夢こそが作家としての雄飛なのである。なお、敦がまとめた漢詩集にこの七言絶句の草稿は採られていない。
(引用 以上)

母を慕って泣いた幼子(敦)は、成長し、その悲しみを力に変えました。
それは年を経て、自分自身が家庭を持ち、母なる存在(妻タカ)、いつくしむ子供(息子たち)を得たからこそできたことだったのでしょう。

<エピローグ>105年ぶりに、母 帰る

中島敦の母・ちよが世を去って100年近く経った頃の夏の日。
彼女をしのぶ、ある法要が、中島家の人々によってとりおこなわれました。
そのことについて、中島家の方からいただいた文章でご紹介し、この話の結びとさせていただきます。

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夏雲凉泉信女、旧姓 岡崎ちよ 中島敦の生母です。
「ちよ略歴」を参照しながらお読みいただければ幸いです。

夫と娘に先立たれ、独り残された岡崎きのは、大正12年(1923年)4月4日、夫・勝太郎の十三回忌、あわせて3か月後の娘・ちよの三回忌に、北青山・高徳寺に岡崎家の墓碑を建立しました。

正面に「先祖代々の墓」
右に夫「實誠院賢覚勝善信士 明治四十四年四月四日」
左にきの「誠心院勝室法信女」 昭和十四年十月二十六日」
建立時には、ここは空白となっていて、戒名は、きのの没後に彫られました。
さらに右側面に「夏雲凉泉信女 長女ちよ 大正十年七月三日」
裏面は「大正十二年四月四日 施主 岡崎きの」

ちよ墓石の拓本

平成28年(2016年)7月2日
ちよゆかりのもの数名参列のもと、高徳寺僧侶2名による読経・回向により岡崎家3人の境内無縁塚への合祀をおこないました。

平成28年7月29日
ちよの戒名の刻まれた石碑は、高徳寺から埼玉県某所、敦の長男家に移されました。
雑木林の中。風戦(そよ)げば木漏れ日の舞う一隅に佇んでいます。

明治44年(1911年)8月、涙ながらに敦を返し中島家を去ったちよ。ここに帰ってくるまでは105年の歳月が流れました。

孫の家、中島家の庭に立つちよの墓標。

資料
「國民過去帳明治之巻」(編/大植四郎・1935年)
岡崎勝太郎
東京市京橋区三十間堀警察署会計係 旧柳澤藩撃剣師範役岡崎勝之丞の男にして安政二年生る 明治19年10月21日警視庁巡査を拝命 勤続26年に至り44年4月4日脳溢血を以て頓死す 年五十七 妻をキノといふ

参考書
「生誕100年記念 図説中島敦の軌跡」(編著者/村田秀明・発行/中島敦の会・2009年)
「夏雲 『山月記』中島敦と、その母」(著者/竹内雷龍・発行/海象社・2012年)
ツシタラ4 中島敦の会会報「お父ちゃまのこと 中島敦夫人タカ 回想録」(インタビュー・テープ起こし/早川由紀子 編集人/中島敏枝・2003年)

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