見出し画像

横浜高女の敦先生トリヴィア 中島敦とバラの話   

「横浜高女の敦先生」のエピソードの雑学(トリヴィア)をご紹介します。
敦が愛したバラの色は、赤か、黄か…⁉という、いささかマニアックな話です。


中島敦が横浜高等女学校で教師だったころ、
彼が授業をするときは、女生徒の手により教壇に赤バラが飾られていた。

これは「教師・中島敦」に関する代表的かつ有名な逸話です。
このエピソードはよほど多くの人々の興味を惹くのでしょうか、雑誌やネットなどでも、たびたび目にします。

※つい先日も、ある雑誌に掲載されていた中島敦の紹介文に、下記の記述がありました。↓

「(中島敦は)そんな秀才ぶりから、女生徒たちに人気があったらしい。授業のときには、女生徒が真赤なバラを生けた瓶を教卓に置いて、中島を迎えたのだという。」

「文豪ストレイドックス」で学ぶ日本の文豪/第一編 中島敦
月刊ジュニアアエラ2024年6月号より引用

このエピソードのおかげで、
敦先生と言えば教壇の赤バラ。赤バラと言えば敦先生。
というイメージがあるようです。
…ようです、が、しかし。
横浜高女の記録を調べてみると、「中島敦とバラ」の話はこれだけではないのです。

実は…
赤バラ、だけではなく…敦先生は黄バラも好きだった…⁉

そこで、横浜高女の資料を見ながら、中島敦とバラの物語をあらためてひも解いてみようと思います。

赤バラと敦先生

では、まずは一番有名なエピソードから。

教壇の赤バラ

中島敦の授業時間には、教卓に赤いバラの花を生けた花瓶が置かれた。
それは熱心な「あっちゃん(中島敦)先生ファン」の女生徒たちの手によるものだった。
鮮やかな炎色のバラ、
黒にも見えるほど濃く極まった黒紅のバラなど、
授業のたびにさまざまな赤バラが飾られた。
敦はその花弁に触れ、ときに香りを嗅ぎながら、授業をおこなった。
授業が終わり、敦が教室から出たら、赤バラの花瓶も教壇から持ち去られる。
なぜなら、バラの花は敦先生だけのものだから…。

これは1941年卒業生の回想です。
「教壇の赤バラ」は「敦先生ファン」を自認する一部の女生徒たちがおこなっていたことで、敦の授業時間すべてで飾られていたわけではないのですが、他の女生徒たちもこれを見て、皆「赤バラといえば敦先生」と思っていたようです。
その他にも、1941年6月に敦がパラオへ旅立つとき、見送りにきた教え子たちが餞別の花束として「敦先生の好きな赤いバラ」を贈ったという話も伝わっています。

「雨が降って肌寒い、お見送りの日、高島桟橋に接岸された南洋行の船上に、級友達と贈った真赤なバラの花束を抱えられた中島先生は、私達を見下ろして立っておられました。雨の為に、投げたテープはすぐに切れて、船と桟橋の間に落ちて、色とりどりに波に揺れていました。
一生懸命に手を振り、声をかけてお別れを惜しむ中にも、船は見る間に遠ざかってゆきました。」

(1941年卒業生手記より 会報14/1992年発行

黄バラと敦先生

敦の死後、卒業生への取材によって赤バラのエピソードが知られるようになりましたが、他の卒業生から「敦先生には黄バラ」という声があがりました。

黄バラの思い出

1942年12月4日。
中島敦逝去。
葬儀は世田谷の中島家宅でおこなわれた。

教え子たちは、敦が好きだった黄バラを持って駆け付けた。
庭前に集まり、悲しみをこらえていた教え子たちがふと家を見ると、廊下の曲がり角に立った妻・タカの姿が…。
おくられた黄バラの花束を胸にかかえ、瞳を閉じて、胸いっぱいにその香りを吸い込み、悲しみに沈んだ白い顔を黄バラに埋め、立ち尽くしていた。

(1937年卒業生の回想 会報7/1985年発行)

その33年後の1975年中島敦文学碑除幕式でも、卒業生からタカ夫人に「敦先生がお好きだった黄バラの花束」が贈られています。

敦にふさわしいのは赤バラ? 黄バラ?

さまざまなエピソードを調べると、敦先生は「黄バラが好きだった」「赤バラが好きだった」と回想する2つのグループに分かれています。
「敦が好きだったのは黄バラ」とするのは1937年卒業生たち、「赤バラ」とするのは1941年卒業生たちでした。
つまり、中島敦在職中(1933年4月~41年3月)の前半期(1933年4月~37年3月)と後半期(1937年4月~41年3月)の教え子達で認識が異なっています。

このように認識がわかれたのは、敦宅の庭のバラの色が関係しているようです。

敦の庭~Mon jardin(私の庭)~に咲いたバラ

中島敦は1935年7月に家族と共に本郷町3丁目の一軒家に引っ越し。それから2年3か月後の1937年10月にはその隣の家に移っています。
庭付きの家に暮らすようになり、敦は園芸に目覚めます。熱中度が増すのは1937年、1月に生後間もない長女を失った年からです。
特に、昭和12年(1937年)の敦の手帳には、庭の草花図や入手した種、苗などについてなど、園芸に関する記録が数多く記されています。
その中の書付より、バラの苗を購入し、庭に植えたことがわかり、それらのバラは黄(黄色みがかった白)と赤だったと考えられます。

敦は本郷町の庭をMon jardin(フランス語で「私の庭」の意味)と呼び、そこに咲くバラを愛し、周囲の人間に話していたであろうことが友人への手紙からも推察できます。

<中島敦書簡より抜粋>
オフェリア(うちの薔薇の名)(の花)は散ったが、ゲエテ(かんな)は未だ蕾をもたぬ
(1938年5月11日※文中によると8日夜記す/岩田一男宛書簡)
 
Mon jardinはまさに繚乱。ばらも咲きはじめたからその中一度見に来てください
(1939年5月7日/吉村睦勝宛書簡)
 
鯛漁のお手紙誠に有難う。当方は相変わらず、桓は益々悪童となりつつあり。いふ事がイチイチ生意気です。Mon jardinは目下バラの盛り
(1940年6月12日/吉村睦勝宛はがき)

中島敦全集

バラの咲く庭で嬉々として庭の手入れをしている様子をうたった漢詩も作っています。

<中島敦作、5月の庭を描写した五言律詩>
馥郁南廂下(馥郁として南廂の下)
薔薇赫奕奢(薔薇 赫奕として奢る)※
浅黄眞冷艶(淺黃 眞に冷艶とし)※
深纏正豪華(深纏 正に豪華なり)
蝶翅嬉珠蕾(蝶翅 珠蕾に嬉れ)
蜂腰没彩葩(蜂腰 彩葩に没す)
可嗤貧寠士(嗤ふべし 貧寠士の)
能栽富貴花(能く富貴の花を栽うるを)

中島敦全集

※庭にはバラが香り豊かに咲き誇る、その浅黄の花びらの色は冷艶である…とうたっています。

書簡の「オフェリア(うちの薔薇の名)」は、バラの品種のひとつで、白や薄いピンク、黄色も見える花を咲かせます。
前掲の漢詩に「薔薇赫奕奢(薔薇 赫奕として奢る) 浅黄眞冷艶(淺黃 眞に冷艶とし)とうたっている浅黄のバラは、このオフェリアと思われます。
 
おそらく、前半期の敦の教え子たちは、庭のオフェリア(浅黄のバラ)の自慢話を敦から聞いたのではないでしょうか。そうして「敦先生はオフェリア=黄色のバラが好き」と思ったのでしょう。

オフェリア/四季咲き 花色は薄いピンク、中心にイエローがまざる。樹高60~150㎝

対して、後半期の教え子たちは、敦の庭に咲いていたもう一種のバラ(赤バラ)が印象に残ったようです。

<1941年卒業生の証言>
中島先生の家を見に、友人と本郷町のお宅へ行きました。先生の家には雨開きの窓のついた洋間があり、その窓下に大きな真紅なバラが咲いているんです。よくお教室で先生が「このビロードみたいなバラの花びら、きれいだね」なんておっしゃってました。

(座談会より会報3/1980年11月発行)

家を見に行くくらい熱心な「敦先生ファン」の女生徒たちの間で、敦先生の家には赤いバラが咲いている→先生は赤いバラが好き→先生に赤いバラを捧げよう!となり、あの『教壇の赤バラ』が置かれるようになったという経緯のようです。
『教壇の赤バラ』をおこなっていたのは、後半期(1941年卒業生)の人たちです。前半期の人たちはその記録はありません。

かくして、敦の前半期・後半期の教え子たちは、「黄バラ派」「赤バラ派」に分かれました。
そしてそれぞれ、敦の「旅立ち」のとき、敬愛と惜別をバラの花に託して贈りました。

南洋への旅立ちの赤バラと、天国への旅立ちの黄バラ。

教え子たちがそれぞれ贈った2色のバラは、敦の運命的なふたつの旅立ちをいろどることになりました。

赤バラも、黄バラも…

残された書簡や記録から、敦が熱心にバラ作りをし、バラ自慢をしていたことがわかります。
黄バラも赤バラも、敦が愛した花。
バラは女生徒たちから敦先生への想いの象徴となったのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?