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イワシの頭 川上未映子『ヘヴン』

のっけから嫌な話をするがここ最近いやがらせにあった。
ちいさなものが重なったりした。
「でもこう感じるのもわたしの主観やもんなあ」とも頭の中で考えてしまっていた。
そもそも慣れている、とも思ってしまっていた。
ちいさいころは容姿というか体のことや他のいろんなことを理由に除者にされることが少なくなかった。
そうしていろいろ自分を守るためやつくるためにやってきたいろいろの結果、それでも嫌な目に遭ったり「いろんなこと知ってる人」という風にしか見られなかったりもして悔しさを感じたりもしていた。
「いいねんそれもネタになるし」とずっと思ってきたがこの気持ち(だけなの)もどうなのだろう。
 
川上未映子の『ヘヴン』という小説を読んだ。
 
教えてくれたのは、
業界の大先輩であり関係者であり、
私的に(心の中で)「コンプレックスと自己陶酔のバランスが興味深いなあ」と思っている人だ、読書家で、作家だ。
たまたま読み終わった別の本のことをつぶやいたら、
「今、読み終えた本と呼応しないけれど呼応するかも」とおっしゃって下さったので、他の大量の積読をいったん置き、出先に持って行って読んだ。
 
あまりに重いにもかかわらず、一気に読まずにおれない内容だった。

主人公は2人。
ひとりは壮絶なイジメを受けている14歳の少年。
名前はあかされない、語り手だ。正確にはこちらが主人公。
そして、もうひとりは、
この少年に手紙を送ってつながろうとしてきた少女・コジマ。
2人は同じクラス内で壮絶なイジメを受けている。
 
少年は斜視だ。
一方、少女は汚さや不潔さを理由にいじめられる。
実は彼女はある理由からわざと汚さや不潔さを自分に強いているのだけど、
彼女は少年を「同士」で「同志」だとして「引き入れよう」とする。
と、言うと「弱者の連帯」?  少なくとも最初はそう、かも、しれない。
でもそうではないようになっていく。
少年は最初うれしく、また性的な意識もするようになるのだが、
とあることをきっかけに、いや、だんだんとか、違和感も感じるようにもなる。
 
その違和感の理由は、おおきくは、2つのことからじゃないか、と思った。

(以下からはすこしネタバレになってしまいます。ご注意くださいね)
 
ひとつは、
イジメているチームの中の主犯格ではなく、イジメチームのサブポジションの子と偶然、
学校以外の場で出会って話す機会が出来たこと。
主人公は彼と話す。彼は言う。
「イジメに理由はない」
このシーンは本作の大きな意味を持つところだと思うので詳しくは触れないが、
ページをめくる手が止められなくなった。
もうひとつは主人公に訪れる「思い込んでいたが、変わること」にまつわる選択。
「変わったことで、変わるかもしれないこと」
このことを知った瞬間とそれからのこと。これも大きなことだから伏せる。
 
いろんなことが重なるタイミングもあり、ちょっとドキリとゾッとしながら読んだ。
最後のページをめくり終えると、出先にもかかわらず涙がとまらなくなった。
なんの涙かはわからなかった。
 
出てくる登場人物の「語り」が、どれも、わかるようでわからないと思った。
頷ける、けれどそれが「正しい」のかわからず、「自分に近い」と思うすべての考えはどれもどちらにも頷きながらも疑問を感じ、疑問ながらも頷きだった。
 
わたしはコジマを「きもちわるいな」と思った。
きもちわるいは言葉足らずで誤解を招きかねない。が、まずはこう書く。
 
コジマは壮絶すぎるほどのいじめを受けているにもかかわらず、
「許してあげている弱者の美」みたいなことを説く。
のに? そうして?
主人公が「あるきっかけ」でそこを出ようとする、
出そうになる(という言葉はちょっと違うかもだけれど)際に、ある言動に出る。
それでも自分を変えない。
無駄なのかわからないけれど切実かもしれないそれも感じないくらいかもしれない。
自分のスタンスをどんどんしずかにエスカレートさせてゆく。そして、ほほえむ。
 
インターネット上でのさまざまな感想をみると、やはり、いろいろな、だ。
コジマを「理解できない」という人も多い。彼女を「うつくしい」という人も多い。

 つまり、そういうことだ。そういうことだなあ、じゃないかなあ、と思う。
 
コジマは、つまりはたぶん、宗教だ。宗教のようだ。
 
宗教は、押しつけだと思う。
そうじゃないけど、そうなることが少なくない、なりかねない、ことが多い気もする。
イワシの頭的なものを教祖的なものにして、
連帯の強制で他者を巻き込もうとし押し付ける。
(しかも所詮金銭が発生する、いや、金銭が発生しまくる世界なのに、故に)
極論だが、へんな薬を作ってばらまくのもあれば座禅や護摩行や断食や「手を合わせましょう」やももしかしたら変わらないかもしれない。「修行するぞ修行するぞ修行するぞ」とそう変わりない変わらない気もする。
尤もらしい漢字で書かれた尤もらしい言葉や「汝の隣人」とかって皆でしずかに一緒にトリップ出来る感じの歌なんか一緒に歌ったりして、おおホーリーナイト。
 
一方で、加害者側のサブポジションの少年、彼は、つまりはたぶん、哲学だ。哲学のようだ。
 
哲学も、押しつけだとも思う。
そうじゃないけど、そうなることが少なくない、なりかねない。ことが多い気もする。
古今東西の中二みたいなやつもしくは狂人がよく言えば「ひらめいて」、悪く言えばイってしもーて、「エウレーカ」だのなんだのと叫び、
それを尤もらしいカシコげな言葉で綴ったりなんかをした考えを
主に学者とかを中心とする社会性のないモテないひとたち(モテないは関係ない)が、「俺、他のやつらと違って賢いんですけど」「わたし、わかってますけど」的なひけらかしや、他者の前で自身が自身であるように格好をつけて格好を付けたままそれをキープすることみたいな、それに共鳴して、ってこれも極論だが。おお神は死んだ。
 
意味を付けたい。理由を付けたい。意味を求めたい。理由を求めたい。己のために。ということは、たぶんきっと己のためで、己のためでしかないことでもある。
 
イワシの頭を簡単な例えにしてみたい。
「生きているだけでいいじゃないか。にんげんだもの」
こんな言葉をヘタウマな字で書いた書や見ようによってはただただ気持ち悪い絵は例えば相田みつをや鶴太郎がやったらめっちゃ持て囃される。
百貨店の上の階の画廊とか意識高い系のギャラリーとかで気の狂った値段で売買されたりするし、
結果、居酒屋のトイレにうやうやしく飾られたりする。
でも、これを例えばそのへんの一般ピーポーが書いても笑われたりばかにされる対象となったりする。
もっと言うと、こういうことを書いた障害を持つ人たちのそれがいけすかないやつらによって「芸術」だなんてうやうやしく持ち上げられたりもする。
 
人間は群れる。
そうでないと除者にされ、排除されることや、実際に排除されることが、ことも、多い。
集団でも社会でも世界でも。
例えば家族、例えば会社、例えば民族、例えば村、街、国。同じ性別、同じ肌の色、同じ思想、同じ考え。集団をつくる。
そこでの顔や名を持つことは生きていく上で避けられはしないことで生きることで、それにより人格や考えが形成されもする。
 
でも、「教え」を強要することは、どうなのか。
ましてや、群れてそれ以外のことやものを考えなかったり疑うことをせずに一切排除しようとしたり差別しようとしたりすること。
それは、たぶん、わたしは、こわい。
 
イワシの頭に意味を持たせることで、
自分を、今日を、生きることをちょっとだけ楽に、
それは比重の大小をさておけば、
ほとんどのひとが意識的にも無意識的にもやっていることなのだろうし、
ちょっと極端なまでのそれで、
それがあるからこそ自己肯定のきっかけや生きる上での大事なものとしている人出来る人はいる。
否定することは、おかしい。
ただ、あなたはあくまであなた、あなたはあなた、じゃないか?
群れた中のことだけを正だの義だのと思い込むこと、強要すること、
疑うことをやめること、信じて疑おうともしないこと。
これはたぶん、めっちゃこわい、たぶん、やばい、かもしれない。

言葉や連帯に救われることがある。たくさんある。
連帯することで大きな数になることで立ち向かえる。
その連帯でしか立ち向かえないことがたくさんたくさんある。
連帯でも立ち向かえないないこともあることもわたしたちは知っている。

でもだから、だからでも。

意味を持たせた先の意味にすがる、すがりすぎることの、時に愚かさ、でも、切実さ。
祈りの切実さ、でも愚かさ、

ほんとうに、切実さ。

手遅れになりかねないし、なってからでは遅い。
そう、なりかねない、ならない、しない、ために、は。
 
壮絶なクライマックスを経て、
本作のラストシーンは、主人公である少年のみた景色となる。

みる。選択する。「目」。今、からの、この先へ。
 
だから、涙が出たのではないか。
ほんとうに、止まらなかった。
 
とはいえ、
これらすべてもわたし、
今のわたしのただのまだまとまらないままの1感想にしかすぎません。
主観や思い込みでしかありません。と、思いながら、書きました、書いています。
 
小説はページをめくり読み終わる。
けれど、わたしたちが生きる世界や自分の生は、まだ、ずっと続く。

いじめや暴力、殺人や戦争、あらゆる他人の尊厳を冒すことは、悪だ。

ゆるされることは、あってはならない。

ヘヴンとはなんだろう。

それすら勝手な意味付けの広まりなのかもしれない。



以下は、ちょろっとですがいつもの自己紹介 。
と、苦手なりにもSNSあれこれ紹介、連載などなどの紹介!!も。
よろしければお付き合い下さい🍑✨
ご縁がつながったりしたらとても嬉しい。

大阪の物書き、中村桃子と申します。 
構成作家/ライター/コラム・エッセイ/大衆芸能(旅芝居(大衆演劇)やストリップ)や大衆文化を追っています。
普段はラジオ番組の構成や資料やCM書きや、各種文章やキャッチコピーやら雑文業やらやってます。
現在、lifeworkたる原稿企画2本を進め中です。
舞台、演劇、古典芸能好き、からの、下町・大衆文化好き。酒場好き。いや、劇場が好き。人間に興味が尽きません。

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簡単な経歴やこれまでの仕事など書いております。パソコンからみていただくと右上に連絡用のメールフォーム✉も設置しました。

現在、関東の出版社・旅と思索社様のウェブマガジン「tabistory」様にて女2人の酒場巡りを連載中。

と、あたらしい連載「Home」。
皆の大事な場所についての話。

2023、復活。先日、新作が出ました🆕

以下は、過去のものから、お気に入りを2つ。

旅芝居・大衆演劇関係では、各種ライティング業。
文、キャッチコピー、映像などの企画・構成、各種文、台本、
役者絡みの代筆から、DVDパッケージのキャッチコピーや文。
あ、小道具の文とかも(笑)やってました。
担当していたDVD付マガジン『演劇の友』は休刊ですが、
アーカイブがYouTubeちゃんねるで公開中
(貴重映像ばかりです。私は今回のアップにはかかわってないけど)


あなたとご縁がありますように。今後ともどうぞよろしくお願いします。
皆、無理せず、どうぞどうぞ、元気でね。


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