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「知りたい」という欲望 2

再び課題地獄に「こんにちは」と挨拶をしたわけだ。
うちの大学はオンライン授業によって成績が上がった人と下がった人でかなり二極化している。上がった人は簡単だ。友達が多くて課題を相談できる。タスク管理がしっかりできる。テスト一発より課題をコツコツ積み重ねるのが得意。下がった人も簡単だ。テストだけで十分なのに毎週の課題はやる気が出ない。提出締め切りの確認漏れ。寝坊でzoomに参加できず出席がもらえない。家での勉強で自分に「甘え」が生じてしまう。
オンライン授業の成績には、「やるべきことを期日までにこなすことの繰り返しを続けていける能力があるか否か」ということがにじみ出ているような気がしている。


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今日も今日とて湊かなえさんの「落日」を読んだ感想を書いていく。この本の感想は今日で終わり。授業が始まったのでしばらくゆっくり本が読めないかもしれないが、この一週間は多くの本を読めて幸せだったなぁ。


276ページより

想像力において大切なことは、まず、自分の想像を疑うことではないのか。

この文章はなんとなく自分の中で印象に残った1文である。「想像力」において大切なことなんて今まで1度も考えたことはなかったけれど、考えたことがなかったからこそ印象に残ったんだよ!っていうやつだ。


誰かの人生の過去や誰かが歩んできた道を想像するときに、この文章をちょっと思い出して立ち止まって考え直してみたくなった。



326ページより

それでも知りたいと思う自分のエゴに対する嫌悪感は、(略)長谷部監督に対して抱いた感情と似ている。監督がいつも謝っているのは、過去に自分が傷つけた相手に対する罪悪感からくるものだけではなく、他人が隠しておきたいことに、自分が立ち直るという大義名分をかかげながら、土足で踏み込んでいくことを自覚しているところからも来ているのではないか。

この話全体を通して、「事実を知ることはなくなった人に対する『救い』となるのか」ということが問われているように感じた。「真実を探し、それを『知りたい』と思って行動する人たちによって『救われる』人や命があるのだろうか」ということを考えさせられた。

大概のことにおいて、「知りたい」というのは人間のエゴなのかもしれない。相手のことを、他者の中身を、知りたい時は特に.....。迂闊に土足で踏み込んでしまうことによって、誰かを傷つけてしまう可能性があるのは当たり前だ。それ以上に「知ろうとする」ことによって自分が傷つく可能性だってある。それはいわゆる「知らない方が良かったのに」というようなことだ。

「知りたい」けれど、事実を知ろうとすることは誰かを傷つけてしまうかもしれない。そこに新たな悪意や悲しみ、苦しみなどのマイナスの感情を生じさせてしまうのかもしれない。
それでも人間は、「知りたい」という自己の欲望に逆らえないというときがある気がする。知ってしまったら、良くないことが起こるかもしれないし、自分が傷つくかもしれないのに。そして絶対に見てはダメと言われたものが、むしろ余計見たくなってしまうようなことだってよくあると思う。

恋愛とか事件とか、様々な人の感情というか思惑が複雑に交わるような人間関係を伴うような物事に関して、「知りたい」という感情は時に恐ろしいもののように思う。事実関係を明らかにし、見えていなかった人間関係を明らかにすることでわかってくる事実や、見えてきた新たな感情なんてものもあるかもしれないけれど、何か真実が見えてきた分、裏でさらなる苦しみを抱えてしまう人が増えるような気もしている。


時と場合によって、「知りたい」という欲望との付き合い方は難しい。だからこそ1度知る前に立ち止まって考えたい。
自分が「知る」ことによって起きると考えられる、その後の出来事に思いを馳せて。


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