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『始まりの木』 夏川草介 作 感想 2

たまに聞くことがある。「文系学部は必要ない」、「文学や歴史を学んでも就職には役に立たない」、なんて。
この1文が印象に残っている。

130ページより

「今の世の中は、何が正しくて何が間違っているかが実にわかりにくくなっている。だが君も生きていれば、わかりにくいとわめいているばかりではなく、わかりにくい中から何かひとつを選び出さなければならない時が必ずやってくる。」

本の中で教授は、「民俗学」が人生においてどう役立つかを上のように語っている。

就職の役に立たない学問でも、人生の岐路に立った時、その判断を助ける材料は提供してくれる学問というのは、必ずあるはずである。


私は理系で、その上 この先かなり未来がありそうな、就職にも役立ちそうな学問を学んでいる。ただ100%自分の意思でこれを選んだのかと言われれば、なんとも言えない。
文系学部に進むことを、私は許されていなかった。最初から選択肢がなかった。
「就活に役立たない」、「仕事に活かせない」。そんな学問の、何がダメなのだろう。自分で学びたいと思う学問を選べない。大学で学べない。
凝り固まった大人の考えに、疑問を持たずにはいられない。



教授は、学問についても持論を展開している。

90ページより

「我々は陣取り合戦をしているのではない。学問をしているのだ。議論の目的は相手を言い負かすことではないし、講演の目的は自分の名前を売ることではない。そんなことも忘れて、肩書きだけは教授だ、准教授だとわめきたてている。」

"議論の目的は相手を言い負かすことではない"、これを全くわかっていない人は極めて多いように感じる。もちろんどんな議論に関してもだ。「議論」は相手に自分の価値観を押し付け、自分が正しいと言い張り、こちらの意見を認めろと強制することではない。いつでも自分が正しいと思っている人は、議論で常に勝ち負けしか考えていない人は、いつか足元をすくわれる。
そんなふうに私は思う。


自分が学んでいる「学問」に誇りを持てているか?

こんな問いが出てくる。この問いかけを見た時、私は自信を持って「はい」と答えられそうになかった。ある程度学びたいとか、学んでいて楽しいとか、将来に役立ちそうとか、そういうことは考えている。だが自分が学んでいることに誇りを持てているだろうか?誇りを持てるくらい真剣に向き合っているだろうか?誇りを持てるくらい学びたい学問だろうか?
答えはNOなのだろう。大学を卒業して大学院に進学する人は、"研究"という選択を続ける人は、"誇り"とやらを持っているのだろうか。
聴いてみたい。



299ページより

「金銭的な豊かさと引き換えに、精神はかつてないほど貧しくなっている。私には、この国は、頼るべき指針を失い、守るべき約束事もなく、ただ膨張する自我と抑え込まれた不安の中でもだえているように見える。精神的極貧状態とでも言うべき時代だ」

教授は日本という国についてそんなことを言っていた。新型コロナウイルスはまだまだ拡大している。最近の感染者数の増大は恐ろしい。

精神が貧しくなっているのか....それについてまだ考える時間が必要になりそうだが、"頼るべき指針を失い"という点は、心に刺さった。
日本はこれから、どこへ向かっていくのだろう。
就職氷河期は来るのだろうか。もう来ているのだろうか。
私は何を頼りに、どこへ向かっていくのだろう。



この本を読むと、物事の"根本"について考えさせられる。
だからこそ読み返したくなる。
先のことばかり考えていては、足元が見えていなければ、どこかで転んでしまうかもしれない。
自分の中に確かに存在する、"根"、"芯"のようなものをよりいっそう強く、確かなものにしていくための手助けに
もしかしたらこの本は、なるのかもしれない。


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