見出し画像

見た目と個性 2

昨日の続きとして、湊かなえさんの「カケラ」という本を読んだ感想を書いていく。(あらすじは1つ前のnoteを参照。)

今日は自分が個人的に印象に残った場面を取り上げ、話の内容の中心に関係があるか否かに関わらず、自分の意見や感想などを述べていく。


——人生のリセット期間は必要なんじゃねえかな。これまでの自分のことを知らないヤツら相手なら、なりたい自分になれるし、そのために少しは努力しようとも思えるし、それが恥ずかしくないだろ。

(104ページより引用)

この次に読んだ別の本の感想を書く際にも書こうと思っていたことだが、私は人から「忘れられる権利」をとても欲している。詳しくは今後のnoteで書こうと思っているが、私は昔の自分の見た目や性格に関して、地元の周囲の身近な人間から忘れられたいのだ。
自分のことを知らない他者に囲まれた世界で生きたくて、地元の大学ではなく県外に進学する、という選択をする受験生は、少なくないと思う。自分という人間の過去を知っている誰かから、逃れたくなるのだ。たくさんの黒歴史を抱えながら。なりたい自分になるために、

人は何度だって生まれ変われる、っていうセリフだと少し臭すぎるかもしれないが、「努力すれば人として変わることができる部分」というのは少なくないと思う。なりたい自分になれるチャンスを逃さないかは、本人の選択と意思にかかっている。

この本でも1番たちが悪いのは田舎を出て行った時の記憶のまま時間を止め、もう何年も経過しているのに昔の印象のまま接してくる人間だ....なんていう風に書かれているが、本当にその通りだと思う。
私たちは小さい頃地元で親しかった人間の過去を、いくらでも語ることができてしまう。有る事無い事噂することができてしまうのだ。
だからこそ私は「忘れられたい」と思うのだ。全てを捨てて地元を出たい、ということではないけれど、忘れられたい気持ちがしぼんでいくことはない。




美容整形外科の医師、橘久乃は、美容整形をしにくる患者は「個性を与えてもらいに来ている」ように見えることがあるという。その後に続く話。

集団から逸脱したり、目立って攻撃されたりするのが怖くて、声の大きな人や多数決で意見の多い方に迎合するくせに、胸の内では、自分らしさや自分だけに向けられた賞賛や評価を求めてるんだよね。(中略)
今の子たちってそれ(=個性)がわかりにくいの。本人がアピールしないし、学校というか世の中が、競うことを良しとしないし、順位なんかも公表しちゃいけないから。(中略)
なのに、教師は、生徒一人一人の個性を見極めてそれを伸ばす補佐なんて、要求されるんだよ。
アピールはしない。人と比べないでほしい。だけど、個性に気付いてほしい。

(137~138ページより引用)

私は教職の授業をいくつか履修していたが、「生徒の個性を伸ばすこと、個性をから可能性を広げること、褒めて認めることで自己肯定感を伸ばすことが必要であること」というような文章は、たった半年学んだだけで何度も何度も見かけた。

「個性」を伸ばすことが難しいというより、きっと「個性を見つけ(てあげ)ること」が難しいのだ。
上の引用では橘先生に、教員である登場人物が一人称で話をしている場面であるが、教師に求められることというのはあくまで「理想」でしかなくて、実際に生徒1人1人をよく見て個性を伸ばしていけるような支援や指導をしていくことは、難しいことなんじゃないかと思ってしまった。

「自分らしい」部分を褒めてほしいと思う人は少なくないとは思うが、集団の圧力に身構え、集団(クラス)の中で異質なものとなることを良しとしない生徒たち。彼ら1人1人の隠された長所や個性や可能性を見出し、支援する。成長や自己肯定感、自信に繋げるために。口で言うのは簡単だが、教師の仕事量から考えてもきっとそれは「理想論」でしかないのかもしれない。

この部分にはまだ続きがある。

結局、学校だけじゃなく、世の中全般的に、アピールしなくてもわかることで人を判断するようになるわけよ。
そう、見た目。美人かブスか。ハンサムかブサイクか。背が高いかチビか。痩せてるか太ってるか。
見たまんまが個性になるならまだしも、(中略)見た目で性格まで決めつけられることがあるでしょう?

だからこそ美容整形のような商売が繁盛するのだ、橘先生が儲かるのだ、と登場人物の教員は考えるのだ。


なるほどな〜としみじみ思ってしまった。
私は見た目で人を判断するまではいかなくとも、その人の第一印象がほぼほぼ見た目で決まってしまうことがある。良くも悪くも見た目にインパクトがある相手なら特に。アピールしなくても もう丸見えである「見た目」というもので人を判断してしまう人は絶対に減らないだろうなと思うのだ。
人を見た目で判断するのはやめよう、なんていう道徳教育を続けていったとしても、その価値観はなかなか変わらないだろう。付き合いが浅い中でその人の長所や個性を見い出すのは難しい。内面を知るためには、相手と付き合い関係を続けていかなければならない。
だからこそ「見ればすぐにわかる」容姿の印象というのは先行してしまうのだろう。


「見た目で生徒を判断するような教師」というのはクズに決まっている(この本にもそういう登場人物が出てくる)ので、「内面」を見て生徒のことを判断したいというのはもちろん当たり前であるが、自分が仮に教師になった時には、生徒たちの個性をどのように見い出していけばよいのか、まだまだ考えていかなければ....「個性」とは何なのか、まだまだ考えていかなければ....と、なんというかとても思い知らされた。


個性がないから見た目で個性を出す,...という生徒は少なくないだろう。(髪の毛を個性的な色に染める生徒はその一種だと思っている。)だがそういう生徒こそ、もっと自分の内なるものを誰かに見い出してほしいのではないか...などという風に私は思うのだ。そして「個性がない」ことを、重荷に感じてしまわないようにすることも、1つの大人に与えられた使命のような気がしている。


「人を見た目で判断しない」という道徳教育に意味がないとは言えないが、価値観はなかなか変わらない。変わらないからこそ、その「変化しないもの」についてきっと考え続けていかなければならないのだ。




明日は他に何か書きたいことがあったとしても、#8月31日の夜に というハッシュタグをつけてnoteを投稿すると決めている。
今日の続きは明後日書こうかな。



それではまた明日。


この記事が参加している募集

推薦図書

読書感想文