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花に生かされ、花に奪われたラブストーリー

連載シリーズ 物語の“花”を生ける 【プロローグ】はこちらから

第7回 『うたかたの日々』(ボリス・ヴィアン)

花を生けるというのは、実にお金がかかる。もちろん生ける頻度、花の種類や量、表現したい世界観などによって、かける額は違うけれど、上手になろう、自分の世界を表現して他者に見てもらおうとすると、相応にかかる。

お茶やカメラ、釣り、車、楽器など道具にお金がかかる仕事や趣味はたくさんあるけど、花は道具にはそれほどかからない。花鋏と花器があればいい。花鋏や花器もこだわりをもてばきりがないが、私は高くても数万円程度のものを使っているので、お茶道具の骨董的な価値に比べたら微々たるものだ。

どちらかといえば、素材である花そのものにかかる。しかも花は手元に残らない。食べ物も手元に残らない代表的なものだけれど、食べて体内に取り込める。食用をあつかっているわけではないので、食べられない。

保って1週間、暑い夏場となれば、どんなに水を取り換えても3日保つか保たないか。花によっては水揚げがうまくいかない、茎が折れてしまってその場でダメになるものもある。季節によっては、ドライフラワーや壁掛け用の花束などにしてその後も楽しめるものもあるが、それも数ヶ月の話しだ。

どんなに大切に扱っても、さまざまに手を尽くして手元に残そうとしても限りがある。ほんの束の間、一瞬の植物たちの生命のきらめきに立ち会うためだけにお金を払っているともいえる。

また、当然のことながら、植物には植物のエネルギーがある。生けていると、猛烈に体力を消耗することがある。特に夏に向かう4〜6月の植物たちは、太陽に向かっていくエネルギーが旺盛で、生けようとするこちらにも、格闘するだけの覚悟と体力、気力が要求される。

一方、体力がなくて疲れたなと感じるときに水を取り替えると、終わるころには、心がからだのあるべき場所に戻り、きちっとおさまった感じがする。相手が生命体である以上、よくも悪くもその関わり合いはエネルギーの交換なのだ。

だから、お金と花、花と自分、それぞれのエネルギーがうまく交換・循環しているうちはいいのだけれど、なにかのはずみでバランスを崩し、どちらかのエネルギーが強くなると、あっという間にそのエネルギーに飲み込まれてしまう。

ボリス・ヴィアンの『うたかたの日々』(光文社古典新訳文庫 野崎歓訳)を読んでいると、そんな気になる。

* * *

青年コランはあるパーティーでクロエという女性と出会い、恋に落ちる。綿あめのように優しくて甘い交際期間を経て、結婚。華やかな結婚式で友人たちに祝福されながら、新婚旅行へと旅立つ。

旅行からもどると、クロエが激しい咳に襲われ、意識を失うようになる。肺に睡蓮が咲くという病に冒されていた。睡蓮を肺から追い出すためには、クロエは1日にスプーン2杯の水分しか取ることをゆるされず、身体をほかの花々で埋め尽くさなければならない。コランは花代のために全財産を使い果たし、さらなる花代を稼ぐために職を転々とする。それまで仕事をしたことがないコランは、慣れない労働で消耗していく。

そんな二人の辛苦は、友人たちの人生にも暗い影を落としていく。

奇想、奇天烈のラブストーリー

人の体内で花が咲くなんて、神話や古物語でもあまり見かけない奇想。不思議なのはこれだけではなく、いたるところに奇天烈というか非現実的な仕掛けが施されていている。

たとえばある夕食に出すうなぎは、アメリカ製のパイナップル味の歯磨き粉をめあてに、水道管を通って蛇口に頭を出すが、蛇口に置かれた本物のパイナップルに間違って噛み付いた瞬間、料理人に剃刀で頭を切り落とされたとか・・・。

コランとクロエの初めてのデートには、バラ色の小さな雲が降りてきて、声をかけてふたりをのせたとか・・・。コランのアパルトマンはクロエの病が進むにつれて、どんどん小さくなり窓もなくなり、とうとう得体のしれない植物が繁茂するようになるとか・・・。

一事が万事この調子、不思議をとおりこしてまるでナンセンスギャグの漫画ようで、最初のうちはこれをどう読んだらいいのか分からなくて、ひどく戸惑うのだけれど、ストーリーそのものははっきりとした、悲恋のラブストーリーの骨格を持っている。

コランの友人シックは、パルトル(フランスの哲学者で作家のサルトルを文字っている)のマニアで、アリーズという恋人がいるにもかかわらず、パルトルに関するものを収集することにすべてのエネルギーを使い果たしてしまう。

アリーズと結婚するためにコランが渡したお金もシックは使いこんでしまい、その挙句、アリーズのネックレスなどを売ってパルトルの新刊本の手付金にする。とうとうわずかな給料を得ていた技師として職を投げ捨て、アリーズは出て行ってしまう。税金として納めるべきお金もパルトルに注ぎ込んでしまい、非合法の暴力で税を徴収する執行官が踏み込んでくる。

コランの料理人ニコラは、伊達男でコランの兄貴分といった人物。伝説の料理人のレシピでコランとクロエ、シックをもてなす。ときにはコランにダンスや恋の手ほどきをし、コランとクロエの結婚式や新婚旅行につきそって、その手はずを整える。

クロエの病を知ると心を痛めて、一気に老け込んでしまう。コランの経済状況が行きづまると、料理人として雇えないから他家へ移るよう告げられて戸惑う。シックの恋人アリーズはニコラの姪で、アリーズの身に起きたある悲劇を見届ける。


すべては、ぜんまい仕掛けでひらくからくり睡蓮の中のできごと

コランとクロエの結婚式までは、世界が軽やかで華やかで、ある意味ばかばかしいくらい洒落のきいた雰囲気に溢れているが、新婚旅行のあたりから空気は一気に不穏になり、クロエの病気が明らかになった後は、暗く重々しく、ときに読み続けることが苦しくなるような場面が続いていく。

この『うたかたの日々』には不思議なまえがきがあり、「大切なことは二つだけ。どんな流儀であれ、きれいな女の子相手の恋愛。そしてニューオーリンズの音楽、つまりデューク・エリントンの音楽。ほかのものは消えていい。なぜなら醜いから。」(7ページ)とある。

コランもシックもニコラもこれを体現するかのように、アメリカのジャズグループ、デューク・エリントン楽団の音楽に身をゆだね、きれいな女の子と出会い、恋に落ちる。しかし自分にとって大切なものを守ろうとするあまり財産を失い、逆に社会からドロップアウトしていく。

コランは財産がなくなると、自ら制作を手がけ、友人たちをもてなしてきたカクテルピアノ(ジャズを奏でるとカクテルができあがるピアノ)を売却することで一時をしのぐが、そのお金も底をついてしまい、仕事を探しにいく。

社会の人々は今日明日の食いぶちを得るために働いているが、コランはそうではなく、あくまでも愛するクロエのため、クロエの肺に咲いた睡蓮を追い出すのに必要な花代を稼ぐために働く。生活のための労働を認めないコランにとって、その違いはとても重要だった。

花代のために高額の報酬を得ようと過酷で危険な仕事につくコラン。土の下で銃を生育させる仕事は、銃に人間の体温と栄養を与えるために24時間、土の上から全裸で銃を温めなければならない。ところがコランが温めた銃は薬莢が育たず、白いバラが咲いてしまい、コランはクビになる。バラをクロエのために手折ろうとすると、葉が刃のようにするどく、コランの手から血が吹き出す。

次は、黄金を盗みに来た人間を見つけたら叫んで知らせる仕事で、大きな部屋を時間通りに周らなければならならず、足を痛めて力尽きてしまう。

コランの仕事が過酷であればあるほど、それと引き換えに得られた花の美しさ、花に囲まれたクロエの儚さが際立つ。

 クロエはベッドに横になっていた。薄紫の絹のパジャマに、薄いオレンジがかったベージュのサテンキルトで仕立てた、長いドレッシングガウンを着ていた。
 彼女のまわりには山ほどの花があり、とりわけ蘭やバラが多かった。アジサイ、カーネーション、椿、長い枝にさいた桃の花やアーモンドの花、そしてジャスミンの花も何抱え分もあった。彼女は胸元をはだけていて、琥珀色をした右の乳房が、青い花の大きな花冠と鮮やかなコントラストを見せていた。両頬はうっすらとピンク色を帯び、目はきらきらと輝いていたが、瞳に潤いがなかった。髪は絹糸のように軽やかで電気を帯びていた。

『うたかたの日々』(ボリス・ヴィアン 光文社古典新訳文庫 221ページ)

しかしコランが買い求めた花も、クロエの友人たちが見舞いに持ってきた花も、クロエが匂いを嗅ぐそばから、みなしおれて枯れてしまう。クロエは花で命を長らえながら、花によって生きるためのエネルギーを奪われていく。

ここまで読んでくると、奇天烈な仕掛けをふくめたこの世界のすべてが、コランの過酷な労働で動くぜんまい仕掛けの、からくり睡蓮の中のできごとのように思えてくる。

最後にコランが唯一続けられたのが、役所から渡されたリストをもとに家々を回り、その家の人の死を告げる仕事だった。彼が来たと知るやいなや、家の中から物を投げつけられ、罵声を浴びせられ、門前払いを食わされる。ある日そのリストの中に、クロエの名前をみつけてしまう。

睡蓮は何のメタファーか?

この作品の背景が知りたくて、光文社古典新訳文庫の解説を読んでみる。翻訳をしたフランス文学者の野崎歓さんの解説によれば、作者はフランスの作家で、ジャズトランペッターで、音楽評論家だったボリス・ヴィアン。資産家の父親のもとで何不自由なく育てられていたが、1929年ニューヨークの株の大暴落で破産し、それまで仕事をしたことがなかった父親は生活のために初めて薬剤販売の仕事に就いた。

ヴィアン自身はリウマチ性の心疾患を患い、命と引き換えるようにしてトランペットの演奏に打ち込んだ。またジャズへの心酔とともにアメリカ文化への憧憬が高じて、アメリカ小説を擬した作品を発表。その映画化の試写会で、心臓発作により39歳でこの世を去った。『うたかたの日々』は、生前はほとんど評価されなかったが、1960年代の学生運動の折、熱狂的に読まれたことで、真価を認められたという。

父親の破産と初めての労働、ジャズへの心酔、心臓(胸のあたり)の病と、『うたかたの日々』の主な要素は、ヴィアンの人生そのものにルーツを見出すことができる。

また同解説によると、クロエの肺に咲いた睡蓮は、地に足をつけて生きることへの反感や恐怖を表しているという説や、妊娠のメタファーであり、クロエが真にコランに愛されていないことを暗示しているという説がある。

地に足をつけて生きることとは、仕事をして稼ぎ、税金を納め、国や社会の一員として生きていくことを意味する。コランがついた仕事の過酷さは、社会の歯車になって生きることの過酷さでもあり、1960年代の若者たちに支持されたことを考えると、それもわからなくもないけど・・・・。また女性が体内に何かを宿すとなれば、まず思い浮かぶのは妊娠だけど・・・。

そこでフランス文学では一般的に睡蓮はどのように描かれているのか、どのような事柄のメタファーなのかが知りたいと思い、フランス語の睡蓮「nénuphar」 と文学「littérature」をキーワードにあれこれ調べてみた。

するとフランス象徴詩派の詩人マラルメに「白い睡蓮」という詩があることや、プルーストの『失われた時を求めて』にクロード・モネの絵画「睡蓮」の連作の影響を読み取る研究(※1)などがあることは分かったのだけれど、どうしても私が抱いているクロエの睡蓮とイメージが重ならない。クロエの睡蓮は、コランとその友人たちの人生に暗い影を落とし、最終的には破滅に追い込むものだから、そういったことを連想させるような睡蓮はないかと考えてみた。

先に引用したクロエが花々に囲まれて横たわっているシーンをもう一度読んでみると、19世紀末、英国ビクトリア朝時代の画家ミレーが描いた「オフィーリア」が浮かび上がり、重なった。

花とクロエとオフィーリア:可憐無垢な少女

オフィーリアといえば、シェイクスピア四大悲劇の一つ『ハムレット』に登場する女性で、ハムレットの思い人。狂気を装うハムレットから邪険にされ、人違いで父親をハムレットに殺されたことにショックを受け、精神を病み、川で溺死する。

ミレーの「オフィーリア」はまさに溺死するその瞬間、川面に横たわるオフィーリアを数多くの花を配して描いた。赤、白、黄色、青の花の一つひとつには意味があると思われるが、そこに睡蓮は描かれていない。

ある研究(※2)によれば、『ハムレット』の中のオフィーリアの造形そのものが花と強い関連があり、この時代にいくつも描かれた「オフィーリア」像の花のモチーフは、可憐無垢な少女像から死にゆく女性像へ、そして狂気の女性像へという三つのパターンと展開があったという。

クロエは肺に睡蓮が咲いてからだけではなく、結婚前の交際時から、コランからのプレゼントは花で埋め尽くされていた。また労働や金銭を嫌悪し、コランによって「あんなにやさしい子だったのに」「悪いことなど一度もしたことがありませんでした。心の中でも、行いのうえでも」(336ページ)と回想されるように、社会的な価値に染まっていない純真無垢な存在として語られる。

先に紹介した「まえがき」でも、「大切なことは二つだけ。どんな流儀であれ、きれいな女の子相手の恋愛。そして・・・」とあるように、クロエは大人の女性ではなく、「女の子」つまり少女性を持ち続けた存在でなければならかった。その点からも初期の可憐無垢な少女「オフィーリア」像に通じるものがある。

花とクロエとオフィーリア:死と破滅の睡蓮

さて、気を取り直して、他の画家が描いた「オフィーリア」を探してみる。するとミレーの「オフィーリア」に影響を受けて、ウォーターハウスという画家が「オフィーリア」を描いたことに行きあたった。ウォーターハウスは3点の「オフィーリア」を残していて、そのうち、1894年と1910年に描いたものに睡蓮が見てとれる。

最初に描かれたものは、水辺の草むらで花々に囲まれて横たわり、こちらを見つめるオフィーリアで、睡蓮は描かれていない。1894年に描かれたものでは、オフィーリアは横たわってはいないなくて、木の枝に腰かけて(『ハムレット』の中で、花輪をひっかけようと柳の木にのぼって足を滑らせて川に落ちたとされる)、花々に囲まれて髪を直している。枝の下には川というか沼のようなものが広がり、その表面はいくつもの睡蓮の葉で覆われている。また1910年に描かれたオフィーリアは水辺の木のもとに立ち、手に花を持ってこちらを見つめている。水面には睡蓮が描かれている。

睡蓮はそもそもヘラクレスに恋をして捨てられたニンフがナイル川に身を投げたことで咲いたといわれている花で、学名の「Nymphaea」、フランス語の「nénuphar」は、ニンフの「nymph」にちなんでいるという。

その話しとは別に、ヘラクレスの侍童ヒュラスがあまりにも美しく彼に恋をしたニンフが、泉(沼)に引き込んでしまったという伝説がある。その派生として、睡蓮を摘み取ろうとすると魔物によって水中に引きずり込まれるという伝説がヨーロッパの各地に生まれた。

先の研究(※2)によればウォーターハウスには、侍童ヒュラスがニンフたちによって泉(沼)に引きずり込まれようとする瞬間を描いた「ヒュラスとニンフたち」という絵があり、その泉(沼)には睡蓮が描かれているという。そのことから、彼が1894年と1910年に描いた「オフィーリア」の睡蓮も、死と破滅を予感させるものとして描かれているのではないかという。

そこでもう一度『うたかたの日々』で、クロエが登場してくる前後を読んでみる。

この作品の中でクロエといえば、ヒロインのクロエであると同時に、コランが偏愛するデューク・エリントン楽団の楽曲「クロエ」のことだ。コランはニコラの手ほどきで、「クロエ」をバックに架空のダンスを踊るシーンがあり、以下のような注釈がついている。

「クロエ」は一九四〇年、デューク・エリントンがレコーディングした曲。一九二七年にガス・カーンが作詞、ニール・モレットが作曲したポピュラーソング「沼地の歌(ソング・オブ・ザ・スワンプ)」を編曲したもの。ジャズ批評家としてのヴィアンは一九四七年一○月に書いたレコード評で、この曲を「デュークの編曲よるもっともすばらしい成果のひとつ」と称賛している。ただし実際の編曲者は、エリントン楽団のピアニストにして作曲・編曲者だったビリー・ストレイホーン。
同(47ページ)

この注釈によれば、そもそも「クロエ」という曲は、「沼地の歌(ソング・オブ・ザ・スワンプ)」だったという。「沼地」とは、まさに睡蓮が根を伸ばして咲く場所を連想させる。

あるパーティでクロエを紹介された瞬間、コランは「こんにち・・・。あなたを編曲したのはデューク・エリントンですか?・・・」(64ページ)と楽曲「クロエ」を踏まえた挨拶をし、シックのはからいでこの曲がかかる。

またクロエの病が進行するにしたがい、なぜか住まいが小さくなって、太陽の光すら入らなくなってしまったことについて、コランは「根が深いんですよ」(250ページ)という。

「沼地の歌(ソング・オブ・ザ・スワンプ)」の編曲によって登場した楽曲「クロエ」。楽曲「クロエ」とヒロインクロエは同等の存在。つまりヒロインクロエは沼地に根を伸ばして咲く花、睡蓮の化身そのもの。睡蓮がヨーロッパ文化の中で、死や破滅を連想させるものであったとき、クロエは登場の瞬間から(ある意味、登場の前から)死と破滅を運命づけられてられていた。

そしてコランも、侍童ヒュラスがニンフに魅入られて泉(沼)に引きずり込まれたように、あるいは睡蓮を摘み取ろうとした者が怪物に引きずりこまれるように、死と破滅の沼(過酷な労働、友人たちの破滅、クロエの死など)に引きずりこまれた。

オフィーリアが水の中に沈んでいくように、クロエもまた水に囲まれた島の穴に葬られた。コランが葬儀の代金を十分に用意できなかったせいで、クロエの亡骸(なきがら)は「でこぼこだらけの見苦しい黒い箱」(334ページ)に入れられ、手荒くぞんざいにその穴に落とされた。コランは文字通り絶望の淵に膝をついた。

* * *

ちょうど最後のパラグラフを書き終えたとき、インターホンがなった。いつものところから、注文していた草花、木枝がどっさり届いた。

ピンクオオデマリ、矢車菊、アグロステンマ、バイカウヅキ、ヤマボウシ、ビスカリア、コバン草、アヤメ、オレガノ、金魚草、仙人草、香り梅花、ナツハゼ、白山吹、下野、ホタルブクロ、クレマチス、河原ナデシコ、エビデンドラム、山あじさい、コバノズイナ、ギリア、ベルテッセン、ジャーマンアイリス、芍薬(氷点、深山の雪、オクシナノ、白雪姫)

一度、パソコンのスイッチを落として、水揚げをするために台所へ小走りする。ものによっては、新聞紙に包んだまま、切られた茎の先端もう一度切って、熱湯に2〜3秒ほど浸して、すぐに冷たい水の中に入れる。新聞紙の上からたっぷりと霧を吹いて、暗いところで一晩休ませる。

翌日の朝一番に、それぞれの写真をとって、花器に生けていく。この季節は、暑さと乾燥との戦い、スピードが命だ。雨が降った朝だったので、心の余裕を持ってスタートしたが、大地や大木から切り離されたばかりで、持って行き場のないエネルギーが生々しく残っているものとの戦いは、一筋縄ではいかない。

カチンカチンと鋏の音が心地いいのは最初のうちだけで、ああだこうだと苦戦しているうちに、光が室内に差し込んでくる。

大きな花器3つ、中くらいの花器3つ、小さい花器4つを生けているうちに、足腰が痛くなってきて、最後はふらふらになった。

花屋敷状態になった狭い室内を眺めていると、花をよこせと言わんばかりにこちらに手を伸ばしている女の子の面影が、ちらついた。



※1 プルーストとモネの睡蓮画 : ヴィヴォンヌ川の睡蓮の場面をめぐって 和田 章男(2018年 大阪大学大学院文学研究科教授)

※2 ヴィクトリア朝絵画のオフィーリア図像と花 ―ウォーターハウスの狂気のオフィーリアを中心に― 若名咲香(2016年 筑波大学大学院人文社会科学研究科現代語・現代文化専攻)

●ミレーとウォーターハウスの「オフィーリア」像はこちらから

●ウォーターハウスの「ヒュラスとニンフたち」はこちらから

睡蓮とニンフ、ヒュラスとニンフについては、ジャパンナレッジのオンラインデータベースによる辞書、事典を参照した。


本note執筆にあたっては、光文社古典新訳文庫(野崎歓訳)を底本としたが、新潮文庫、ハヤカワepi文庫からも出ているので、読み比べるてみるもの、面白いだろう。

2013年にフランスで映画化されたこちらでは、奇天烈で非現実的な世界観やデューク・エリントン楽団の楽曲「クロエ」が、みごとに再現されている。

また『うたかたの日々』は、日本の多くのクリエイターにも刺激と影響を与えた。

こちらも女性の胸に花が咲くというモチーフをテーマにした映画

2020年には、米津玄師さんの「感電」という楽曲の「胸に睡蓮、遠くにサイレン」という歌詞が、『うたかたの日々』や『シャニダールの花』を重ねているのではないかとSNSなどで話題になった。



第6回 “死者”に手向ける花 『亡き王女のための刺繍』(小川洋子)

第8回 小町の復讐をかたどる花 『小町の芍薬』(岡本かの子)


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