マガジンのカバー画像

李家に生まれて

18
「三木才代」という人間がどんなルーツを持ち、どんなことを想い、どう生きるかを決めたか、を記憶を掘り起こして書いています。 自分の過去を大事にお伝えすることで、同じような経験や感覚…
運営しているクリエイター

#自分

李家に生まれて#14

李家に生まれて#14

めまぐるしい台湾生活を過ごすにつれ、

自分は本当に自分の父母から生まれたのだな

とふとしみじみ思うことがあった。

私が留学をしたい、親元から離れなくてはと思い行動した結果は
父が自分の家や国を離れ日本で生活をすると決めたことと
とても良く似ていた。

もともと性格自体も、私はカッとなりやすく感情の起伏が激しい。
私が幼いころの父もそういう一面を私に見せていたから、
つくづくこの親にしてこの子

もっとみる
李家に生まれて #12

李家に生まれて #12

本格的な中国語学習が始まった。
19から台湾に行き、語学学習から始まり
あれよあれよと約7年ほど留学していた。
この期間中、「ことば」の学習はゴールの見えない道のようだった。
語学学習は知識だけではなく自分との向き合うポイントもくれた。
「未知の言語」ではなかったので、より自分と向き合うことになったのだ。

台湾での中国語学習は私が3歳くらいまで家で学習していた
「注音記号」という発音記号を使う。

もっとみる
李家に生まれて #10

李家に生まれて #10

切っても切れない、離れたくても離れられない
それが血縁だし、出自だと深く知ったとき、自分を呪うようになった。

なんで生まれてきたんだろう?
こんな複雑な思いを抱えて生きていきたくない
これから私はどう生きればいいのだろう?

もっとみる
李家に生まれて #8

李家に生まれて #8

念願の志望校合格。
私は完全に浮かれていた。
当時の内部試験は、附属の中学校4校から、
附属の高校を受験希望する者が集まる。
私たちの学校は4校の中でも比較的のんびりというか穏やかというか、
おおらかというか、あまりがつがつしていない雰囲気があった。
事前に高校はレベルが高いから、気をつけてとも言われていた。

実際、入ったのはいいものの私は自己流で勉強していたので
どう頑張っても追いつけないこと

もっとみる
李家に生まれて #5

李家に生まれて #5

早く大人になりたい。
早く家を出たい。
なんて、子どもって無力なんだ。
10代の私は常にそう思いながら家で過ごしていた。
その無力感や束縛感を感じたからこそ、
子どものころの感情を一生忘れないように持っていくと決めている。

もっとみる
李家に生まれて #4

李家に生まれて #4

帰化すること、とはどういうことなのだろうか?
当時の幼い私はただ単純に「日本人の名前になれる」と無邪気だった。

では、私の両親は?祖父母はどうとらえたのだろう?
「国」に対する個人の気持ちを慮れるようになったとき
帰化の動機があまりにも複雑だったのではないか、
と向き合うことが怖くなってしまい、本当のことを訊くのに
私は約30年もかかってしまった。

私のおぼろげな記憶や家族の言動を照らし合わせ

もっとみる
李家に生まれて #3

李家に生まれて #3

隠したくても隠せない名前を持ったことで、
自分は何者か、自分が決めたことは正しかったのか、
常に自問自答していた私に転機が来た。

もっとみる
李家に生まれて #2

李家に生まれて #2

自分の子どもが、自分の母語を話さないと決断したら
親はどう思うのだろう?
記憶では、中国語の発音記号が書かれたカードや
「ご飯粒は農家の方が丹精込めて作ったものだから、大切に食べなさい」
といった教訓めいた絵本を
母親と一緒に読んでいた覚えがある。
しかし、一切の中国語を学ばず話さないと決断した時、
親からの無理強いはなかった。

とはいえ、実はここからがスタートであったとも言える。
親が台湾人で

もっとみる
李家に生まれて #1

李家に生まれて #1

私の名前は李建瑩(り けんえい)。

もうほとんど使わなくなった戸籍上の名前以外、
私にはもう一つ、
「冠品」
という親戚で呼ばれるあだ名のようなものがある。

当時祖父が私の名前に「建」をつけ
どうもその字が男の子にしかつけない
女の子が男の子のように育ってしまうという
謎の迷信のような懸念から
私には別の名がつけられ、
周りから呼ばれるようになった。

私自身は特にそこに違和感はなく、
なぜか

もっとみる