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28.ストレスケアの真の敵は自分

こんばんは!がっきーです!

今回は実際に怒りやストレスに

直面したときのメカニズムについてお話ししていきます。

僕もこれを知ることでだいぶ考え方が変わり

落ち着いて対処できることが増えました。

よければ参考にしてみてください!


前回のおさらい

・ストレスに強くなるには食事・睡眠・運動が1番効果的

・しかし、これらを整え習慣化するには少し時間がかかる

・まずは自分のトリガーを知る

・現在抱えているストレスは脳のリソースを

 消費してしまうため

 怒りをコントロールする訓練の前に現状を把握し、

 ストレスを解消する方法を持っておく

ことについてお話ししました。

まだ読んでいない方は是非こちらをチェックしてください。

我を忘れる

僕自身、何か好きなことや気になっていることの

考え事をしているとき電車が来ていることに気づかず

乗れなかったりすることが時々ありました。

子供の頃は遊びに出かけると100%門限を破り、

家の鍵がかけられ野宿を繰り返す日々もありました。

そんな我を忘れる体験や無我夢中になっているときを

振り返ってみると

個性を求めるよりも自分を無くす方が

楽しいのではないか?

と疑問に思うことが多くなりました。

そんな中行き着いたのは仏教であり、

ブッダの智慧を借りることです

彼が2500年前に仏弟子に残した言葉は

現代でも活かせるというのは誰もが

一度は聞いたことがあると思います。

無我の魅力を追い求めている最中、

感情的にならないために必要なことも

たくさん知ることができました。

私たちは今も苦しみに押しつぶされそうに

なりながらもがいて生きていますが

ブッダはその仕組みを2500年前に

すでに見抜いています

最近は、長文ばかり続いているので

今回は少し短めにお話しできるように

がんばります。。。

無常な世の中では誰も苦痛は避けられない

”人生は苦である”

ブッダは2500年前にそう言い切りました。

人生は苦しい体験ばかりであり、

最後には命を落とし塵に帰る。

否定したくなるような断言ですが、

ブッダはあなたの人生を不幸扱いしたいわけではなく、

古代インドの苦とは、虚しさ、不快さ、

思い通りにいかないことへの苛立ちを含む

幅広い概念であり、人生の絶望や苦悩のように

大袈裟な状態だけを意味しないからです

どんなに好きな仕事をしていても、

その過程で地味な作業に退屈感を抱き

計画通りに進まず怒りを感じることは

誰にでもあるでしょう。

簡単に言えばブッダは

生きづらさは人間のデフォルト設定だと

解いたわけです。

個々の感情の役割を知る

怒りや不安、悲しみなどはごく日常的な感情ですが

発生している苦しみの種類は違います

これらの感情に共通しているものはなんでしょうか?

結論から言うとあなたのニーズが

満たされていない状態です。

他人に言うことを聞いてほしい

友人の反応を知りたいなど様々ですが、

表に現れた感情は違えど、

何の不満もないのにネガティブな感情を

味わい続ける人はいないでしょう。

根っこにはどれも、

”大事なものが失われた”

”必要なものが足りない”

といった感覚があるはずです。

すなわち、私たちの苦しみは

あなたに不足を知らせているのです

個々の感情がどう進化してきたかについては

まだ議論がありますが、

まずは生存に必要な感情を持ち、

集団生活を送るようになって複雑さが増し、

できるだけ周囲の援助を勝ち取り、

裏切りを減らすために進化の圧力は

別の感情をインストールしていきました。

これらを社会的感情と呼び、

次のような機能があると考えられます

・怒り

自分にとって重要な境界が破られた

・嫉妬

重要な資源を他人が持っている

・恐怖

すぐそばに危険が存在する可能性を知らせる

・不安

良くないものが近づいている

・悲しみ

大事なものが失われたことを知らせる

・恥

自己のイメージが壊されたことを知らせる

もしもこれらの感情がなければ危険を察知できず

大事なものが奪われても取り戻そうとしないでしょう

ネガティブな感情は私たちを守るもののはずが、

なぜ苦しみを拗らせてしまうのでしょうか?

真の苦しみは第二の矢

悟りを開いた人は何事にも動じないイメージが

あると思いますが、

原始仏教の経典”雑阿含経”の中にこんな話があります。

一般の人も仏弟子も同じ人間であることは変わりない。

仏弟子とて喜び、ときには不快に感じ憂いを

覚えることもある。

何が一般の人とは違うのだろう?

ブッダにこう聞かれた仏弟子たちは困惑して

黙り込みましたが、ブッダはこう答えました。

一般の人と仏弟子の違いは、

第二の矢が刺さるか否かだ

生物が生きる過程ではある程度の苦痛は

避けられません。

捕食者の襲撃、天候不良による飢え

予期せぬ病気など、様々な苦痛は

誰にでも等しく訪れます。

それはランダムに発生するので

いかなる知性でも予測は不可能でしょう

これが第一の矢です。

すべての生物は生存に伴う

根本的な苦痛からは逃れられず

受け入れるしかありません。

この絶対的な事実を雑阿含経では

第一の矢と表現しています。

ところが、多くの人はここで第二の矢を放ちます。

例えば、あなたが忙しいとき

いきなり上司から急な仕事や

変更を押しつけられたとします。

ここでの第一の矢は忙しいなか急な仕事や変更を

押しつけられあなたのキャパシティに

限界が訪れることでしょう。

あなたは続けてこう思うでしょう。

なぜこんな忙しいとき自分ばかりや、

こんなタイミングで言われても

間に合うわけがない馬鹿なのか?

など考え、さらなる思考が巡りしまいには

第三、第四の矢を

次々と放ち続けるようになります。

このように一つの悩みが別の悩みを呼びこみ、

同じ悩みが頭の中を巡り続けることを

はんすう思考と言います。

はんすうとは牛が一度飲み込んだものを胃から再び

戻して噛むことから来ています。

はんすう思考のダメージは計り知れず、

複数のメタ分析でうつ病や不安障害との

強い相関が出ているほか、

脳卒中や心臓病にかかるリスクが高く、

早期死亡率も高まると報告されています

第二の矢を放つことは私たちの生活では、

あまりにも多く、放たれる矢の数も多くなる可能性は

この事実を知らない限り下がらないと思います。

まず私たちが取り組むべきことは、

自分で矢を放たない練習、

すなわち、反応しない練習です。

ヒト以外の動物は明日のことでくよくよ悩まない

ヒト以外の動物は明日のことで悩んだりしません。

かく言う私たちヒトも農業が始まるまでは

未来という概念はなく

現代とは違い、悩む必要がありませんでした。

この感覚は、四季や天気を読み対策を練る上で

必要だったため今さら無くすのは不可能でしょう。

しかし、今ではその機能もエラーを起こし、

ぼんやりとした将来への不安が

私たちを押し潰してしまうこともあります。

今を生きているのに過去や未来に囚われ

何もできずになってしまうのは、

あなたのメンタルの問題ではありません

まずは、そのことをきちんと理解しましょう。

最後に…

こうした時間感覚やネガティブな感情は

私たちの生活を守る上で大事なことですが、

その反面、私たち自身にも牙を向くことは

身に染みて感じていることかと思います。

誰もが避けられない苦痛を

必ず味わうことになりますが

トドメを刺しているのは自分自身であり

自分の敵は自分自身です。

これまで数々の名言を残してきた

哲学者達の言葉に間違いはありません。

そして次回は、反応をなるべく少なくして

第二の矢を放たなくするための

実践的な手法についてお話しします。

皆さんが過去に学び、今を生き、明日に期待できる

お手伝いになれていれば幸いです。

結局長くなってしまいましたが、

最後までお付き合いいただきありがとうございました。


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