【書評】『楚人冠全集第一巻』明治言論人の慧眼と、マイナンバーカード。
【「平明達意」の名文家は反骨の人】
杉村楚人冠(本名杉村廣太郎、1872~1945)は朝日新聞の人。
少年時代の星新一さんを「平明達意」の文章で夢中にさせ、とても大きな影響を与えました。星さんはショートショートの神様として知られる小説家ですが、珠玉のような随想を遺されているエッセイの達人でもあります。私は楚人冠の名を星さんのエッセイで知りました。
楚人冠の作品には、タイトルからして痛快なものが多くあります。
たとえば『慈善を罵る』『義捐金を笑ふ』『女學生の堕落』。
はじめの「慈善」は、今は「チャリティー」とカタカナ語に置き換えられていることが多いかな。でも意味は同じです。ふたつ目の「義捐金」は「義援金」のことです。
みっつ目には「ああ、まだ封建的だった明治の男はやっぱり」と、軽侮の苦笑を浮かべられるフェミニスト女性も多いことでしょう。そうした皆さんにはこう申し上げたい。早合点なさらないでください、と。
【論旨明快に世人の偏見を笑う】
そのエッセイのラストは、こうしめくくられています。
「漁食(ぎょしょく)の宰相あり、蓄妾(ちくせふ)の法主(ほっしゅ)あり、収賄の議員あり、而(しかう)して此(ここ)に堕落の女學生を生じたるは、自然のみ。花柳病(くわりうびやう・買春で感染した性病のコトです)を患(う)れふる両親の間に出来たる子が梅毒をわずらひたりとて、之(これ)を其(そ)の子の放蕩淫佚(ほうたういんいつ・エッチし放題のことです)に帰(き)せんは誤れり。
此(こ)の際に處(=処)するの策として、男女の同一下宿に住(じゅう)するを禁ぜんとするが如きは、角を矯(た)めんとして牛を殺すの類(るい)なり。」(カッコ内引用者、一部旧漢字を当用漢字に改めています)
解説は不要と思いますが、私なりに可能な限り短く、大意を現代日本語に訳してみます。
要するに楚人冠先生は、
「女学生は悪くない、悪いのは男どもだ」
という真実を見事に看破されていたのです。ね、拍手しましょう。パチパチ。
上記三作は、いずれも明治三十五年に発表されたものです。ですがその主張は今読んでもちっとも古びていません。論旨明快にして新鮮。まさに目からウロコが落ちる思い、がします。
【度肝を抜かれた、大胆不敵なタイトル】
『非忠君悲愛國主義』なんて文を明治四十一年に公(おおやけ)にしていたことには、さすがに私も度肝を抜かれました。しかし、このタイトルは逆説でした。
内容は、「愛国心や、天皇(皇室)と国民の関係」について、令和の今読むとますます深く首肯できる正論を述べたものです。
その一節を引用します。
「凡(およ)そ世に愛國といふこと程、手がかりのつき惡(にく)きものはなし。國を愛せよとの(おしへ)は、屡々(しばしば)承(うけたまは)つて、屡々心得たりと雖(いえど)も、一體(いったい)どうするのが國を愛するといふことになるものかと問へば、戰爭でも始まらねば、何とも見ようもなきものゝ如し。犬猫の類(たぐひ)ならばこそあれ、頭を撫でゝやる譯(わけ)に行かず、抱いて頬ずりをせんやうもなし。可愛がるに可愛がりやうの分からぬものは、誠に國なり。」(カッコ内および漢字表記、先の引用に同じ)
筆鋒(ひっぽう)鋭く世の常識を笑った楚人冠が、真の意味で常識人であったことが分かります。
楚人冠の文を読むと、私はこんな感慨に打たれます。
明治時代の常識人の識見の何と真っ当だったことか、と。
では、令和の今。
真の常識人は、どこにいるのでしょう。
笑うべき「常識」に、みなが疑うことも知らぬまま支配されているのではありませんか。
【図書館で「楚人冠」を調べたら】
私の最寄りの公立図書館で、蔵書検索機を使って「楚人冠」をクリックしてみると、14件がヒットします。
うち2件は彼の評伝で、2005年と2012年に刊行されています。
ちなみに2011年には千葉県我孫子市に、楚人冠の旧宅(築大正年間)を改修した杉村楚人冠記念館が開館しており、戦後(楚人冠の没年は既述のとおりです)は、二一世紀になって評価の高まってきた人であることが分かります。
他に彼の作品を収録した書籍が10件。
『明治文学全集91』(筑摩書房)とか『日本の名随筆79 港』(作品社)とかですね。
『漱石全集 別巻』(岩波書店)には、楚人冠の文『「朝日」の頃』が、『幸徳秋水全集 別巻1』(明治文献)には、同じく『幸徳秋水を襲う」が収録されています。
なるほど、考えてみれば漱石も楚人冠も朝日新聞社員だったのですね(「朝日新聞に寄稿していた」の語記ではありません)。
後者の「襲う」は「幸徳宅に押し入ってぶん殴った」話ではありません。アポなしでお話しする、という意味です。
【コレだから楚人冠はおもしろい】
この10件の中で最も新しいものが2017年刊の『南方熊楠(みなかたくまぐす) 開かれる巨人』(河出書房新社/カッコ内の読みは筆者が補いました)です。
熊楠(1867~1941)がどんな人かと言うと、知の巨人にして変人です。知の巨人とか言われる人はまあ変人に決っていますが(田中角栄の金脈を告発した人が典型ですね)、熊楠は変人ぶりのスケールがケタ違いで、そのことは楚人冠の文を読んだだけで、よく分かります。
この本に収録された楚人冠の文のタイトルが『三年前の反吐』。なんとも強烈ですね。これが、もののたとえでも何でもない。実際に、熊楠が住む借家の書斎(庭じゃないですよ!)に酔っ払って吐いたゲロが三年間放置されていたので異臭がする、なんて話から始まるのです。
こんな名文が大阪朝日新聞に堂々と載っていたのですから、明治四十二年当時がいかによき時代であったかが、偲(しの)ばれます。今の朝日新聞にも傑出した人は多いのでしょうが、こんなタイトル、内容の掲載はまず考えられないでしょう。
ちなみにこの文は、私がもっている『楚人冠全集 第一巻』(本稿末欄外に出典として記載します)にも収録されています。
10件に収録されている10編の中には、楚人冠の筆によらないものも1編あります。もちろん代作とか贋作ではありません。
それは『大正・昭和戦前前期政治・実業・文化演説・講演集、SP盤レコード文字化資料』(日外アソシエーツ、2015年刊)。どういうコトなのか、説明は要りませんね。
なお、1件、「楚人冠に言及した文」を収録したものに『飯田蛇笏集成 第七巻』(角川書店)があり、蛇笏は『楚人冠追想』という文を書いています。楚人冠は、俳人でもあったのです。
【ますます好きになった楚人冠とジャイアント馬場さん】
ここまでお読みになって、お気づきになった方も多いでしょう。
ヒットしたのは14件なのに、お前が書いたのは計13件ではないか、と。
おっしゃるとおりです。
残る1件は書籍ではなくCDです。
タイトルは『お父さん、お母さんが歌ったどうよう ベスト』(キングレコード)。
ここに収録されている文部省唱歌『牧場の朝』(「ぼくじょう」ではなく「まきば」と読みます/船橋栄吉作曲)は、長らく作詞者不詳とされてきたのですが、現在は楚人冠が作詞者であったことが定説となっています。
その1番を引用してみます。
ただ一面に立ちこめた
牧場の朝の霧の海
ポプラ並木のうっすりと
黒い底から
勇ましく
鐘が鳴る鳴る
かんかんと
若い方はご存じないかも知れませんが、私の世代なら、歌詞もメロディーも必ずどこかで聞いたおぼえのある曲です。
これを「収録したもの」に含めなかったのは、活字媒体ではなく音声ソフトだからではありません。いまだ「定説」であり、確定はしていないので、別枠扱いとしました。しかし、私もまあ間違いないだろうと思っていますので、以下その前提で書きます。
私はとても素晴らしい歌詞だと思います。
しかし、この作詞者が楚人冠とは意外でした。
私が大好きな楚人冠の文章には、論旨明晰、ハッキリ言えばへそまがり、個性と主張を前面に押し出す強い文体、といった特色があります。これらの特色のうち前の2点は、星新一さんのエッセイに見事に受け継がれています。ですが最後のひとつと星さんの文体は、むしろ真逆といえます。
そんな楚人冠が、こんなにも叙情味ゆたかな作品を遺していたとは。
あの豪快なプロレスでワクワクさせてくれた、ジャイアント馬場さんの愛唱歌が、童謡『蛙の笛』だったという事実と、一脈通じるものがあります。ともに意外性と、ほんのちょっぴりのおかしみを含んだ、ファンを嬉しくさせてくれる話です。
そうしたことを新たに知って、私は馬場さんも楚人冠もますます好きになりました。
【今こそ読まれるべき! 楚人冠】
さらにもうひとつ、もっと大切なことで、コレはおかしい、と気づかれた点がおありかと思います。
そうです。
図書館で「楚人冠」を検索すれば14件の資料にヒットするのに、彼の単著は、一冊もないのです!
「楚人冠が書いた著書」は、1冊もない。楚人冠の評伝は2冊あるのに。
誰の責任も問うことはできませんが、「主客転倒」とは、まさにこのことです。
昭和十二年に刊行された楚人冠全集は、全十六巻です。
ちなみに私がもっている、その第一巻は、約六〇〇ページあります。※1
日本人に生まれて楚人冠をまったく読まないのは、人生の損失です。大多数の人がその文に接することができないのは、国民的損失です。
内容はちっとも古びないどころか、ますますその輝きを増し、文章もとても読みやすいのに。…といっても「とても」とまで言いきってしまったのは、私が平均的な人より、明治・大正の文章を多く読んでいることも、一因であるとは思います。
しかし、引用したとおり決して難解なものではありません。
たとえば漱石の『吾輩は猫である』。この、今も読み継がれている、文豪の処女作は、明治三十九・四十年刊という、本稿で取り上げる楚人冠の文と、同時代の書です。
けれども私の場合、すでに何度かしていることなのに、『猫』を読み返すには、ほんのちょっぴりの気合いが要ります。ごくわずかなものですが、通読することに骨がないとはいえません。意識的に集中して読もうとします。
楚人冠の文章には、それらがまったくありません。気合いなど不要ですし、読むことに骨はまったくありません。集中などしなくとも、濃密な内容がすらすら頭に入ってきます。
私の引用に、いくらかの「とっつきにくさ」を感じた方も、五十ページほど読み進められれば、おもしろくて止められなくなるでしょう。要するに、慣れです。
少年時代の星新一さんが魅了されたとおり「平明達意」。
それが楚人冠の真骨頂です。
出版各社の見識に期待し、楚人冠の著作の刊行を俟(ま)ちたいと思います。
※1 この本は、ともに楚人冠の著書である『へちまのかは』(大正三年刊)と『白馬城』(大正十四年刊)を、合わせて再録したものです。
なお、この本では『へちまのかは』と『白馬城』のページが連続しておらず、一書の中に目次が二つ存在します。
先に収録された『へちまのかは』が308ページで終わった次が『白馬城』のタイトルページで、その本文部分に1~298までのノンブルが振られています。旧版序文、もうひとつあるタイトルページ、目次などは、このノンブルの対象外です。
【楚人冠、駅の監視と干渉に憤る】
『吾人は人間なるか』※2と題した楚人冠の作を全文引用します。※3
「汽車に乗らんとするには切符を買はせられ、改められ、挟(はさみ)を入れられ、而(しかう)して乗り終れば取り上けらる。プラットフォームには嚴重なる出口あり、驛員といふもの、鵜の目鷹の目に監視して、一人も無切符のものを入(い)るまじと、出(いだ)すまじと、見張り居(ゐ)るなり。預けたる荷物を受け取らんとするに、引換券なくんば、本人現にわが所有の荷物を目前に控へながら、受取ることを得ず。便所に入(い)れば、『石段に昇りて小便すべし』とまで干渉す。
ひとり汽車に於けるのみならんや。人を遇(ぐう)すること、儘(ことごと)く皆(みな)然(しか)らざるはなし。見來(みきた)れば、是(こ)れ動物園に於ける動物の取扱(とりあつかひ)と何の撰(えら)ぶ所ぞや。而(し)かも斯(か)く取扱はざれば危險(きけん)なりといふに至つては、吾等の人間なるかも否かも、亦(また)甚(はなは)だ疑はしからずや。
我徒(わがと)は、必ずしも神を作り、佛(ほとけ)を製するを要せず。希(ねがは)くば能(よ)く人をして人たらしめ、人として遇せられんことを期せんのみ。」(カッコ内および漢字表記、先の引用に同じ)
「切符にハサミを入れられる」という記述、私の年代には説明不要ですが、平成生まれだと分からない人が多いでしょう。
また、その世代の中でも、こうしたことには、ちょっとした情報格差があると思います。別に知っていたからエライとか賢いということでは、全然ないのですが、昭和のテレビドラマや映画をたくさん観ている人ならピンとくるでしょう。
分からない方は、身近な昭和世代の人に聞いてみてください。
「預けた荷物の受け取り」については、私の知る限り、こうしたサービスは、現在の旅客鉄道会社では行なっていないようですが、空港の手荷物受取所で行なわれていることと同様と、考えていただいて差しつかえありません。
※2 この文のタイトルは、目次では『吾等は人間なるか』となっていま す。
内容的にはどちらでもおかしくない、と思います。
※3 文中の「乗り終れば取り上けらる」は「取り上げらる」の誤植と思われますが、原文のままとしました。
【2022年の今、「監視」は】
楚人冠は、世の中全般において、このように監視され、強制され、干渉され、それが危険防止(=秩序維持)のためとされているのは、動物園の動物と同じ扱いではないか、こんな扱いをされて人間と言えるのか、と憤っています。そして人間ならば人間扱いしろ、と主張していたわけです。明治三十五年(1902年)に。
では、120年後の、2022年現在の私たちは、どうでしょう。
駅の改札口は、あたり前のことですが、私たちを見ていません。自動改札機が出入りを「改め」るのはカード(電子乗車券)のみです。
にも関わらず、私たちは監視され続けています。どこの駅でも、駅から下りた街中でも、ふらりと入った店の中でも。監視カメラによって。
スマホで位置情報の提供に同意するということは、すなわち人工衛星による監視下に入る、ということです。
私が大学生の頃まで、「監視する(される)」という言葉には、明らかに不愉快な語感がありました。
「監視する人間」は、警察官とか看守とか、または暴力団員とか犯罪者…などでした。
「監視される人間」は、犯罪者とか受刑者とか危険人物とか、または暴力団や犯罪者のターゲットになっている人とか、権力から不当な弾圧を受けている人…などでした。
それが、常識的理解だったのです。
ところが現在では、誰もが「監視」という言葉に何も感じなくなっています。
人間としてのまともな感覚が、麻痺させられているからです。
【予言的中となった、楚人冠の悲憤】
本人がいるのに紙切れがなければ自分の持ち物(財物)すら自由にならない憤懣(ふんまん)を、楚人冠は駅の荷物受け取りの事例に託して述べていますが、私たちは、常時かつほぼ完全に「自分こそ当人に間違いない」「私はコレの所有者本人だ」と認められなくなっています。
みなが、認められなくてあたり前と思っています。
それを認め得るとされるものは、電子情報やパスワードや暗証番号、各種の登録番号やメールアドレスなどです。
私がよく行く病院のトイレには、「便器は座って使用するように」という注意書きがあります。もちろん、私が入るのは男性用ですよ(そのちいさなトイレには、小専用便器がないのです)。そのほかにも、細かい文字でうるさい指図(さしず)がいろいろ書かれているのですが、面倒なのでいちいち読んでいられません。
私は通勤や通学はしていないので、電子乗車券など必要ないと思っていて、実際にそれをもたなくとも、何の不便もありませんでした。
ところが昨年秋に、もたざるを得なくなりました。
私が月に一度は利用するJRと私鉄の駅で、乗り換え口が紙の切符では通れなくなったからです。
それは突然のことでした。
以後、乗り換えるためには、一度一方の改札を出て、再度別路線の切符を買い、もう一方の改札から入らねばなりません。
これは文字通り、問答無用で「電子乗車券をもて!」と言うに等しい、完全な強制です(「事実上の」なんてつけ加える必要などまったくありません)。
言う間でもないことですが、問答したくても、それをすべき当事者にコンタクトすることすら不可能なのです。
【立ち返るべき、根源的問いかけ】
今日、楚人冠の言う「人を遇(ぐう)すること、儘(ことごと)く」において、こうした問答無用の強制が、どんどん増えています。
典型的な例が、皆さんよくご存じの、健康保険証との統合による、マイナンバーカード登録(所持)の強制です(報道各社は、どうして「事実上の」なんてつけ加えるのですか)。
マイナンバーカードについては、これまで全肯定派(推進派)と、懐疑派とで、議論が分かれてきました。
しかし、どちらの側のいかなる識者の論点も、それを〈もつ(かつ機能をふやす)/もたない(または機能を制限する)〉ことの、〈メリット/デメリット〉のみを問題視していました。
〈メリット/デメリット〉とは、すなわち便益、不便益のことです。つきつめていえば、すべて金銭的な損得勘定に還元できます。時間もプライバシーも、安心感や心のゆとりさえも、(それこそ事実上)値段がついて売り買いされているのですから。
私の知る限り、楚人冠のように根源的な問いかけをした人は、誰もいません。
それは、人間を人間として扱うことなのですか、と。
【私は人間なのか、人間とは一体何か】
私たちは、日々、生活と人生のほぼ全般にわたって、こうした監視、強制、干渉に支配されて生きています。何のための監視、強制、干渉なのかといえば、それは、楚人冠がいみじくも指摘したとおり、「斯(か)く取扱はざれば危險(きけん)なり」と見なされているからです。私たち全員が、ひとり残らず。
マイナンバーカードが現在もち、また今後もち得るであろうすべての機能を思い浮かべてください。
それらはすべてが、第一義的には(「究極的には」と言い換えても何ら差しつかえありません)、危険防止(=秩序維持)のために設計された機能です。ひとつの例外もありません。
楚人冠は、動物園の動物のように取り扱われていることを憤り、「吾人は人間なるか」「吾等は人間なるか」と問いかけました。
しかし、2022年現在、私には「動物のように取り扱われている」と憤ることすら、もはや不可能です。
だって、動物園のどこに、私たちほど徹底的に、監視、強制、干渉で雁字搦(がんじがら)めにされている動物がいるのですか。いるわけがありません。
しかも、私たちになされているそれらは、睡眠中も含め、生存している限り一秒の停止もなく継続し、かつ強度を増し続けているのです。
このような監視、強制、干渉から逃れて生きる術(すべ)など、あるはずもない私。動物園の動物たちすら、比べものにならないくらいの束縛を受け続けている私。そんな私とは、一体何なのでしょうか。
吾人は人間なるか。
米 『牧場の朝』歌詞の引用はウィキペディアによりました。
米 その他の引用はすべて『楚人冠全集 第一巻 へちまのかは 白馬城』(日本評論社/昭和十二年刊)によりました。
この本の奥付の著者名は「杉村楚人冠」ではなく「杉村廣太郎」となっています。
なお、この楚人冠全集は全十六巻です。
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