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私の信仰する天理教の二度にわたる修養科の体験をエッセイにしました。
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#修養科

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私の天理教修養科ものがたり パート6

 私が20歳そこそこで天理教修養科に入った一回目の年は、教祖百年祭の三年千日お打ち出しの旬で本部神殿の東西礼拝場が完成した時期でもありました。
 甘露台は人間宿仕込みの目標(めど)でありますが、それを囲む神殿で最初に造られたのは大正3年に出来た北礼拝場でした。
 その後、昭和初期になって南礼拝場が出来たのですが、修養科に入学するのに同行してくれた私の所属する

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私の天理教修養科ものがたり  パート7

 修養科棟の教室は昔懐かしい雰囲気のする部屋でした。机も椅子も二人用の長いもので、特に椅子は畳表が敷いてあり休憩の時などは横になる人もいました。
 別席の時も同じ椅子で背凭れがないので、居眠りしてひっくり返りそうになることもありました。

 その教室に集まっている人も話に聞いていた通り、若い人もいれば年老いた人もいて雑多な夜間中学のような雰囲気でした。男女

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私の天理教修養科ものがたり  パート8

 修養科で最初に苦痛を感じたのはやはり朝の早いことでした。聞いてはいたしそれなりの覚悟はあったのですが、慣れない習慣にはしばらく戸惑いました。
 修養科の一日は洗顔などの支度と整えると朝の挨拶を済ませて、修養科生全員で列になって歩いて詰所から本部神殿に朝勤めに参拝することから始まりました。先頭の人が拍子木を叩くのに合わせてみ神楽歌を唱和して行きました。
 

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私の天理教修養科ものがたり パート10

 日にち薬と言います。また、郷に入っては郷に従えとも言います。いやいや入った修養科であっても周りの人と気心が知れ、事情に明るくなり始めると次第に毎日の波を楽しめるようにもなって来ました。
 それは初めて聞く天理の教えもそれなりに耳に入って来るようになったせいであったのかもしれません。

 ドストエフスキーの作品で神の存在に触れた私にしてみると、キリスト教の

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私の天理教修養科ものがたり パート11

  二期目で少し天理教を見直し修養科の生活に真剣に向き合うようになってくると、急に時間の流れが速まりました。胸の名札が注意の黄色から安全の青に変わると三期生になりました。
 6月スタートだったので8月・夏本番の季節になっていました。詰所でも後輩の期の世話をしたり何かと気忙しくなってきました。

 おぢばでは、夏休み期間中「子供おぢば帰り」が毎年恒例で催され

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私の天理教修養科ものがたり パート12

 三期生もそろそろクライマックスに近づいて来て私の身辺も急に修養科後の展望が開けてくることになってきました。
 先にも言いましたが、私の所属する美恵分教会は湖東大教会の部内で彦根分教会・付知分教会を経て教えが伝わってきました。子供のころ母の在所に行って、彦根分教会からの郵便を目にしていた記憶があるように彦根市にある彦根分教会が私の人生の転機の上級教会になり

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私の天理教修養科ものがたり  パート13

 私が一回目の修養科を卒業したのは、昭和57年の8月で21歳の時だったようです。「おかきさげ」に書いてあるのを先日確認しました。それから年月を経て、二回目の修養科に入ったのは令和元年の10月の事でした。

 この間の35年間についてここでは詳しくお話しするつもりはないのですが、私も人並みに社会の一員として家族のメンバーの自覚も持って、自分の信念のようなこ

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私の天理教修養科ものがたり   パート14

 天理教修養科第931期は令和元年11月から翌年の1月までの三ヶ月間でした。一回目の時と比べて人数が極端に少なく私の入った1組は付き添いの元教会長さんを含めても15名でした。他に男子2クラスと女子1クラスの3クラスでしたが、コロナ禍を経た今でも歴代の最低人数レベルだろうと思います。

 湖東詰所からは同期生はおらず一人でした。詰所の修養科生は三期生が若

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私の天理教修養科ものがたり パート15

 私は、一回目の修養科卒業から二回目の入学に至る40年ほどの間に、おぢばには何度も足を運びました。妻の修養科中に子供が身上を頂いて一目散に駆け付けて地元と往復した話はしましたが、毎年の献米団参や子供おぢば帰りなどのひのきしんは言うまでもなく、ことあるごとに車を走らせたり電車で帰りました。

 お道の上でも世上の波による影響で様々な移り変わりがありました。そ

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私の天理教修養科ものがたり  パート16

 十人十色と一言で云えても、その人生をすべて知ることはできません。人間は人に言えないところで本当に苦労と苦難を経験しそれがその人を成り立たせているとも言えると思います。

 クラス編成の時に出会った面々は先に言ったように若い頃に入った修養科のクラスの人数の半分にもならなかったのですが、一人一人の因縁の濃さは人数を上回るように私には思えました。同時に自分

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私の天理教修養科ものがたり パート17

  二回目の修養科では身上者が多いのが特徴的でもありました。私も年齢的なことも重なって、三ヶ月通して身上から自分の信仰を確認したように思います。

 生来、私は頭でっかちな人間で子供の頃から体を憎んできたような面もありました。運動が苦手で、特に球技が苦手だったこともあってコンプレックスは相当なものでした。
 天理教では、「身上 かしもの・かりもの」と教え

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私の天理教修養科ものがたり  パート18

 二度目の修養科では忘れられない仲間が多いですが、特にこの世を出直されたお二人に言葉に尽くせない思いがあります。
 
 前に、今回の修養科ではお互いに「おさづけ」を取り次ぎ合うことを奨励されたと言いましたが、岡山の教会長のFさんとはほとんど毎日と言っていいほど修養科の帰りに神殿でお互いに「おさづけ」をし合いました。

 Fさんの身上は癌の末期という事で、

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私の天理教修養科ものがたり  パート19

 一回目の修養科の時は、天理教に反発しながらもストイックに修養生活を受け入れて努力をしましたが、二回目は信仰心が強くなった半面いろんな精神世界の人との付き合いも増える中で自分の欲や高慢をも認めるような立場から、修養科生活に自分の信仰を確かめるような気もちで試行錯誤をしていた違いがありました。

 二回目の詰所生活は修養科生も少ないという事もあったし、自分

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私の天理教修養科ものがたり  パート20

 『糸』      作詞 中島みゆき
 
 なぜめぐり逢うのかを 私たちはなにも知らない
 いつめぐり逢うのかを 私たちはいつも知らない

 どこにいたの 生きてきたの
 遠い空の下 ふたつの物語

 縦の糸はあなた 横の糸は私
 織りなす布は いつか誰かを
 暖めうるかもしれない

 なぜ生きていくのかを 迷った日の跡のささくれ
 夢追いかけて走って 

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