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失って初めて気づく大切さ*°
私は現在大学生ですが小学生の頃から「死にたい」気持ちがあり、自分のことが嫌いでした。自分の人生に興味なんてなく「将来の夢は?」「進路は?」と聞かれるたび「そんな生きる前提での話つらくて出来ないよ!」と苦痛でいっぱいでした。生きる上で「○○したい」と欲があることは重要ですが、私には生きたい欲がありません。致命的だと思いますがそんな中でも今こうして思いを綴っているようにnoteやSNSをやりたいという欲はありすぎるくらいあるのです。noteやSNSをやるには生きてなきゃいけません。よって今生きてる。まさに「生きがい」です。私にとってnoteやSNSは唯一の大切な居場所であり生きがいなのです。こう思えたのには大きな出来事があったからでした。今からその出来事についてお話したいと思います。
2024年9月9日、3800人ものフォロワーがいたXのアカウントが凍結された。
当時、私は患ってる精神疾患の症状が重く強い希死念慮や衝動性に振り回され自殺未遂を繰り返していました。Xにも死にたい気持ちをストレートにぶつけ見た人をネガティブへ引っ張ってしまうような重い内容のポストをいくつもあげていました。凍結される前から👇🏻のような通知メールがXから何度も来ていました。
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凍結の決定的きっかけとなったのは私が「ここから飛び降りよう」と決めていたマンションの13階からの写真とともに「ここからなら上手く落ちれば死ねますよね?」という内容のポストをしたことでした。それを見た人が通報してX側が対応し、1番厳しい永久凍結に至ったということでした。この凍結を受けて私は病状が重いところにXからの追放という追い討ちをかけられてショック状態となり「あ、本当に死のうかな」と本気で考えました。リアルだけでなくSNSでもつらい胸の内を明かすことは出来ないのかと絶望し凍結処置をしたXを心から憎んだりもしました。ですが、時間が経ち物事を冷静に考えられるようになってから「Xが凍結されなければ自分がどんなにXを頼っていてまたどんなにXに癒されていたかが分からなかったのではないか」と思い直すようになりXの凍結を意味のあるものにできるようにこれから行動していこうと思えるようになりました。とはいえ、Xが自分にとっての居場所で生きがいであると分かった以上もうやらないってことは有り得ないので「またXができるようになりたい!」と今でもX再開のために頑張っているところであります。具体的に何を頑張っているかと言うと、永久凍結されたスマホではもうXをすることは出来ないので新しいスマホを新規契約して別人として別端末でXにアクセスする、ということをやっています。ですが、大勢の人と関わりたいという私の望みやいろんな人にいいねやリプを送る私の行為が全部スパムだという風に判断され、それで誤凍結されることが相次ぎ現在もXを使えていません。思った通りの自由な言動が許されなくてリアルでもネットでも生きづらいなと感じているところであります。しかし、ここで諦めるわけにはいかないのでまた必要なことや手順をひとつひとつ踏んでX再開のために頑張りたいと思います。Xが再開できたらnoteを見てくださる皆さまにもすぐにお知らせしたいと思います♪もしXが再開できたらもう二度と凍結されないように細心の注意をはらってやっていきたいです。Xも大勢の人がいる社交の場であることを意識して通報されるような内容のポストを書いてないかしっかり確認してから投稿したいと思います。Xを1度失って何よりも大切な居場所で生きがいであると分かった以上同じことは繰り返さないとしっかり心に決めています。大事な自分のアカウントを守って育てていくためにもきちんと自分自身を管理して気持ちが後ろ向きなときも同じような後ろ向きの気持ちを抱えてる人に寄り添えるようなネガティブでありつつも優しい温かい言葉を紡いでいけたらいいなと思います。
失ってしまったという事実から何を学ぶか。
今回の私の場合はXでしたが人によって大切なものは違ってくると思います。その大切なものの存在が知らない間に自分に染み付いていて「大切だ」としっかり意識出来ていない場合も多くあると思います。よくある例が親や家族です。生まれてからずっと一緒に居て距離が近すぎるゆえに当たり前の存在と捉えがちで大切であるはずなのに普段から「大切だ」と意識ができない。家族が病気になったり亡くなったり自分の元から離れていってから初めて大切だと気づき、もっと感謝や愛情を伝えておけばよかったと後悔することがよくあります。私もXを失ってしまうまでその大切さに気づきませんでした。「失う」ということにはショックや後悔、絶望などが必ずついてきますが、大事なのはそれらの感情に振り回されず失ってしまったという事実から何を学べるか考えることだと思います。失ってしまったという過去の事実は変えられなくてもこれからの未来はいくらでも変えられます。温故知新という言葉もあるように過去から学んでそれを未来に活かしていく。過去を意味のなかった悲しいことで終わらせるのではなく意味のあった財産に変えていく。そうすることが出来れば生きてきた人生の価値がぐっと上がるような気がします。簡単には出来ず難しいとは思いますが、残りの人生全ての時間をかけてやっていくような心持ちでゆっくりのんびり過去と未来それぞれに向き合っていけばいいと思います。
さいごに。
今回は「失って初めて気づく大切さ」についてお話しました。このnoteが私と同じように大切なものを失って悲しんでいる人の元に届いて気持ちの整理の仕方としてこんな考えもあるよと参考程度になってくれたらうれしいです。また、まだ失ってない人で近くにある当たり前のようなあの存在が実は大切だったんだなと気づくきっかけにもなれたら幸いです。大切なものを「大切だ」と認識することがどれだけ大切か、私も心に留めておくので読者の皆様も忘れないでいてくださるとうれしいです。ここまで読んでくださってありがとうございました。今回のところはこの辺で書くのを終えたいと思います。また次の投稿でお会いしましょう。それでは👋🏻´-