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三島由紀夫論2.0

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#夏目漱石

三島由紀夫から見た夏目漱石の読者

三島由紀夫から見た夏目漱石の読者

 三島由紀夫、安部公房だけではない。これまで見てきたように谷崎潤一郎も漱石の評価は低いし、太宰治に関しては「俗中の俗」と漱石を切り捨てている。三島由紀夫のこの発言も、夏目漱石というすでにこの世にない作家の死してなお消えない過剰な人気に対する反発の表れだ。

 しかも芥川龍之介までスタイルは鴎外に近接し、漱石文学から何を継承したのかということさえ曖昧なので困る。

 この三島由紀夫と安倍公房の対談は

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「ふーん」の近代文学23   この感覚は何なのだろうか

「ふーん」の近代文学23 この感覚は何なのだろうか

 ツイッターでは「Soseki Natsumeで検索」がデフォルトになっているので、毎日「Soseki Natsume」に関するつぶやきを目にする。そしてたじろぐ。

 ブックマークしていなかったので今は見つからないが、村田沙也加の代わりに川上未映子が現れることもある。

 これはなんというか、

 たじろぐ。

 つまり大江健三郎も開高健も、後藤明生や黒井千次、古井由吉は勿論、例えば安岡章太郎、

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「ふーん」の近代文学⑬ 小説の神様と云えば

「ふーん」の近代文学⑬ 小説の神様と云えば

 小説の神様と云えば志賀直哉で、芥川も「私の好きな作家」として「志賀氏」の名前を挙げている。実際芥川も志賀直哉のような小説を書きたいと考えながら書けなかった。この問題は芥川が夏目漱石のような小説をついに書かなかったことと併せて実に興味深い。

 ところで「小説の神様」にはもう一人いた。

 この「小説の神様」は抽象的な概念でいわば「ミューズ」のようなもの。抽象的な存在である。

 しかし、この「小

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文章を正確に読むとはどういうことか②

文章を正確に読むとはどういうことか②

 こんなことを私が書いても「いや、そんなはずはない」で通り過ぎる人しか存在しないだろうが、やはり柄谷行人は夏目漱石に関して何か述べようとする度にとんでもない勘違いを露呈させる。

 この書きぶりからすると柄谷行人は田川敬太郎という名前を思い出せなかったようである。そのことはよいだろう。しかし「高等遊民」の意味まで忘れて、なぜこのように持ち出してきたのか、その神経が分からない。

 残念ながら『それ

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創作世界の発見

創作世界の発見

訂正を肯んじえない読み誤り

大正五年に書かれた夏目漱石の『明暗』では、主人公・津田由雄の元恋人らしき女・清子が昔飛行機に乗ったことになっている。

日本で民間の飛行機利用が始まるのは第二次世界大戦後のことであり、これは私が確認できる史実とはあからさまに矛盾する。大正五年以前に清子が飛行機に乗るなど、けしてありえないことなのだ。

当時の飛行機は旅客機ではなく曲芸飛行機であり、おそらくまだ将来的に

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作家にとって思想とは何か①

作家にとって思想とは何か①

 この二週間ばかり、考え続けていることがある。まずは何の先入観も持たないで、このツイートを眺めて欲しい。

どうして萩の月は食べるとなくなってしまうのか

 ……なるほど。「どうして萩の月は食べるとなくなってしまうのか?」この問題は「食べたから」という以上の答えを持ちうるだろうか。寧ろこの人は萩の月のおいしさ、もっと食べたいという感情、そういうものを表現しているのであって「どうして萩の月は食べると

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シンプルな読みに向けて

シンプルな読みに向けて

 これまで私は夏目漱石から谷崎潤一郎までのいくつかの作品について、何か書いてきた。それを「新解釈とは言えないまでも私なりの感想のようなものをまとめてみました」とでも書いてしまえばいささかでもお行儀が良かろうものを、私は「宇宙で初めての新解釈です」と云わんばかりに書いてきた。これはどう考えても私なりの感想のようなものではない。現に、『途上』のからくりにさえ、誰一人気が付いていなかったのではないか? 

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やがて色んなことが解らなくなる 『虞美人草』における「大森」の意味

やがて色んなことが解らなくなる 『虞美人草』における「大森」の意味

 大岡昇平の漱石論を読みながら羨ましかったのは、大岡昇平が『それから』や『彼岸過迄』に描かれる電車や駅の位置関係に関して実地の記憶を持っていることだった。当然『それから』や『彼岸過迄』が書かれた後も電車や駅は日々変化していたので、大岡昇平の記憶は夏目漱石が見ていた電車や駅そのものではない。しかし今の新橋駅と漱石の作中の新橋の停車場が別の駅であると知識としてではなく感覚として知っていること、昔の中野

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ある死をめぐる考察 静子が殺されたことは明らかにおかしいのだ

ある死をめぐる考察 静子が殺されたことは明らかにおかしいのだ

 吉田和明の『太宰治はミステリアス』(社会評論社、2008年)は太宰治を聖化しようとする太宰ファンたちの神話を突き崩そうという試みであり、少なくともこれにより太宰の死に顔は微笑んでいたという神話は明らかに突き崩されているように思える。しかし太宰ファンではない、ただの太宰信奉者ではない、単なる浅はかな太宰作品の愛読者であるこの私にとって、太宰の死体がぶよぶよであったことなどはどうでもいい。ここから始

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夏目漱石作品と芥川龍之介の生活 夏目さんにしてもまだまだだ

夏目漱石作品と芥川龍之介の生活 夏目さんにしてもまだまだだ

 皆さん、あの『こころ』の「私」のところへ「芥川」を置いてみてください、と『芥川龍之介の文学』で佐古純一郎は書いている。これが近代文学1.0における根本的なミスの事例であることは指摘するまでもなかろうか。佐古純一郎は芥川龍之介は漱石文学を継承したというストーリーを持っていて、そのストーリーに芥川作品を無理やりはめ込むつもりなのだ。だから芥川が漱石に対して感じていた畏怖や圧迫感をすがすがしい敬愛に置

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「イカは皮つきでは刺身にならない」(江藤淳) イデオロギーは引きはがせるか

「イカは皮つきでは刺身にならない」(江藤淳) イデオロギーは引きはがせるか

 「イカは皮つきでは刺身にならない」と江藤淳は語るが、げそは皮をむかない。果たして文学作品からイデオロギーをむくことなど可能なのだろうか。

 これも実にありふれた今ではどこにでも転がっている三島観だ。石原慎太郎、野坂昭如他、三島由紀夫に近しい作家たちからこの程度のことが言われていたのは事実。しかし細かい点を指摘すれば、三島は『鏡子の家』で挫折したわけではなく、新境地として思い切ってぼんやりとした

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芥川龍之介の論理・太宰治の意地・三島由紀夫の蟹

芥川龍之介の論理・太宰治の意地・三島由紀夫の蟹

人の悪い芥川「お父さんは相当な皮肉やさんだったけど、私や使用人にも荒いことばで何か言ったり怒ったことはない人でした」「お父さんは普段怒らないし、やさしい人だったけれど、皮肉やさんでしたね」(芥川瑠璃子『双影 芥川龍之介と夫比呂志』)これは文の言葉である。瑠璃子は「ちょっと人の悪いところもある龍之介」と書いている。

 私は既に芥川龍之介作品の核は「逆説」であると書いた。この『実感』では「死骸の幽霊

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漱石・芥川・太宰・三島のらっきょう

漱石・芥川・太宰・三島のらっきょう

 鞄に入る入らない問題、そして副知事室に4500万円トイレ設置で有名な作家猪瀬直樹は三島由紀夫について『ペルソナ 三島由紀夫伝』でこう述べている。

 らっきょう頭から生まれる絢爛たる文学といえば、やはり芥川龍之介のことを思い出さざるを得ない。芥川龍之介の小中学生時代のあだ名はやはり頭の形から「らっきょう」だった。このらっきょう頭、太宰では顔になり、精神になる。

 このらっきょう顔について、夏目

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三島由紀夫の死、あるいはサバイバーズ・ギルトのある風景

三島由紀夫の死、あるいはサバイバーズ・ギルトのある風景

 福田恆存の『人間とは何か』の冒頭では文芸評論家であることの矜持が語られる。曰く、小説家にもなれず学者になるほど豆でもないものが文芸評論家になるのだそうである。その福田恆存は本書において芥川龍之介の自殺を自然なことだと見做す。私はそうした作家のプレゼンスとアクティビティと作品をごっちゃにしたようなものが文芸批評であるとは思わないが、芥川龍之介が自然主義的な既成の「小説」というものに徹底的に抗しなが

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