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漱石・芥川・太宰・三島のらっきょう





 鞄に入る入らない問題、そして副知事室に4500万円トイレ設置で有名な作家猪瀬直樹は三島由紀夫について『ペルソナ 三島由紀夫伝』でこう述べている。

 三島由紀夫の父、祖父はいずれも頭の形が変である。らっきょう頭である。物悲しく、頼りない。存在感として確固たる何かが欠けている。彼らはいずれも官僚を志向し、落伍した。その血脈から一筋の愚直さがこぼれ、絢爛たる文学が開花した。(猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』)

 らっきょう頭から生まれる絢爛たる文学といえば、やはり芥川龍之介のことを思い出さざるを得ない。芥川龍之介の小中学生時代のあだ名はやはり頭の形から「らっきょう」だった。このらっきょう頭、太宰では顔になり、精神になる。

 どうして僕の顔は、こんなに、らっきょうのように、単純なのだろう。眉間に皺を寄せて、複雑な顔を作ろうと思うのだが、ピリピリッと皺が寄ったかと思うと、すぐに消える。口を、ヘの字形に曲げて、鼻の両側に深い皺を作りたいのだが、どうも、うまく行かない。口が小さすぎるのかも知れない。曲がらないで、とがるのである。口を、どんなに、とがらせたって、陰影のある顔にはならない。馬鹿に見えるだけである。(太宰治『正義と微笑』)

 このらっきょう顔について、夏目漱石はあくまでも良い意味で、褒める意味で使っている。

 カーライルの顔は決して四角ではなかった。彼はむしろ懸崖の中途が陥落して草原の上に伏しかかったような容貌であった。細君は上出来の辣韮のように見受けらるる。今余の案内をしている婆さんはあんぱんのごとく丸い。余が婆さんの顔を見てなるほど丸いなと思うとき婆さんはまた何年何月何日を誦し出した。余は再び窓から首を出した。(夏目漱石『カーライル博物館』)

 これだけだと褒めていることが曖昧だが確かに褒めているのである。

「きょうは大久保まで行ってみたが、やっぱりない。――大久保といえば、ついでに宗八さんの所に寄って、よし子さんに会ってきた。かわいそうにまだ色光沢いろつやが悪い。――辣薑性の美人――おっかさんが君によろしく言ってくれってことだ。しかしその後はあの辺も穏やかなようだ。轢死もあれぎりないそうだ」(夏目漱石『三四郎』)

 だかららっきょう顔を恥じる必要はないのだ。しかし精神としてのらっきょうは芥川龍之介と三島由紀夫の空虚を指摘する。

「Kは、僕を憎んでいる。僕の八方美人を憎んでいる。ああ、わかった。Kは、僕の強さを信じている。僕の才を買いかぶっている。そうして、僕の努力を、ひとしれぬ馬鹿な努力を、ごぞんじないのだ。らっきょうの皮を、むいてむいて、しんまでむいて、何もない。きっとある、何かある、それを信じて、また、べつの、らっきょうの皮を、むいて、むいて、何もない、この猿のかなしみ、わかる? ゆきあたりばったりの万人を、ことごとく愛しているということは、誰をも、愛していないということだ。」(太宰治『秋風記』)

 何もない……、三島由紀夫の遺作『豊饒の海』の最後の光景だ。これはどんなこじつけかと思われる方もあるかも知れないが、実は芥川瑠璃子が『双影  芥川龍之介と夫比呂志』でマルグリッド・ユルスナールの『三島あるいは空虚のヴィジョン』(澁澤龍彦訳)から引用し、芥川龍之介について考えているのだ。

 ところが『葉隠』では死は、人間が毅然として待ち受けるべきものというよりは、むしろその形が予測できない、私たちもその一部をなしているところの、永久に動いている世界で起こる偶発時の一つと考えているらしいのだ。……人間には二つの種類があるようだ。すなわち、より良く自由に生きるために、死をその頭のなかから追っ払ってしまう人間と、逆に肉体の感覚や外部世界の偶然を通して、死が自分に送ってくれる合図の一つ一つに死を感じるほど、ますます自分が賢明に強く生きているということを自覚する人間である。……(マルグリッド・ユルスナール『三島あるいは空虚のヴィジョン』芥川瑠璃子『双影 芥川龍之介と夫比呂志』より孫引き)

 ここで述べられている内容そのものはさして云々すべき深いレベルではない。しかし芥川瑠璃子が芥川龍之介の自殺について考えるとき、三島由紀夫の死について書かれた『三島あるいは空虚のヴィジョン』を引いているというその形式が面白い。芥川龍之介の中に何もなかったことを三島由紀夫を通じて確認しているようでさえあるからである。剥製の白鳥の腹には脱脂綿でも詰められているのだろうか。






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