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文章を正確に読むとはどういうことか②

柄谷行人は誤読の達人である。よくぞここを読み間違えるかという間違いを繰り返している。「明治の精神」を明治十年代が持っていた多様な可能性だと決めつけたり、Kというライバルの出現よって先生は御嬢さんへの愛を意識し始めるなど噴飯物の解釈が何故か夏目漱石作品関してだけ現れるようである。

 こんなことを私が書いても「いや、そんなはずはない」で通り過ぎる人しか存在しないだろうが、やはり柄谷行人は夏目漱石に関して何か述べようとする度にとんでもない勘違いを露呈させる。

漱石の『彼岸過迄』の主人公も探偵をやりますが、彼らは『それから』の代助がいうように「高等遊民」です。(柄谷行人『坂口安吾と中上健次』太田出版、1996年)

 この書きぶりからすると柄谷行人は田川敬太郎という名前を思い出せなかったようである。そのことはよいだろう。しかし「高等遊民」の意味まで忘れて、なぜこのように持ち出してきたのか、その神経が分からない。

「それは実業が厭なら厭で好い。何も金を儲るだけが日本の為になるとも限るまいから。金は取らんでも構わない。金の為にとやかく云うとなると、御前も心持がわるかろう。金は今まで通り己が補助して遣やる。おれも、もう何時死ぬか分らないし、死にゃ金を持って行く訳にも行かないし。月々御前の生計位どうでもしてやる。だから奮発して何か為するが好い。国民の義務としてするが好い。もう三十だろう」
「そうです」
「三十になって遊民として、のらくらしているのは、如何いかにも不体裁だな」
 代助は決してのらくらしているとは思わない。ただ職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考えているだけである。親爺がこんな事を云うたびに、実は気の毒になる。親爺の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日を利用しつつある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出しているのが、全く映らないのである。仕方がないから、真面目な顔をして、
「ええ、困ります」と答えた。(夏目漱石『それから』)

 残念ながら『それから』には「遊民」の文字はこの一か所にしか現れず、それを口したのは代助の父親である。つまり代助が自ら「高等遊民」を自称したという事実はないのである。ここは解釈ではなく事実なのではっきり誤読だと指摘せざるを得ない。「高等遊民」はむしろ『彼岸過迄』おいて、

「余裕って君。――僕は昨日雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高等遊民でないからです。いくら他の感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」(夏目漱石『彼岸過迄』)

 このように松本恒三の性質として現れる。この「高等遊民」という自称に、田川敬太郎は思わず、

「実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが、今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか」
「文字通りの意味で僕は遊民ですよ。なぜ」(夏目漱石『彼岸過迄』)

 こう、問うている。田川敬太郎は田口にそそのかされて職を求めるために探偵の真似事をさせられたのであり、「高等遊民」ではありえない。

 つまり「漱石の『彼岸過迄』の主人公も探偵をやりますが、彼らは『それから』の代助がいうように「高等遊民」です」という柄谷行人の言い分は訳の分からない出鱈目に過ぎないのだ。しかしこう書いても99.99パーセントの人は無の感情で通り過ぎてしまうのだから呆れてしまう。

 不思議なのはこの『坂口安吾と中上健次』の中で、夏目漱石に関して述べたところだけ出鱈目で、そのほかには「三島由紀夫は徹頭徹尾《小説》とは無縁である」とある外は、柄谷行人は案外真面なことしか書いていないのである。「三島由紀夫は徹頭徹尾《小説》とは無縁である」という記述も一見妙ではあるがそれは《小説》の定義が文脈の中で「物語」でないもの、とされていることからくる「解釈の違い」なので、すなわち過ちとはならない。つまり柄谷行人は夏目漱石に関してのみ誤読をするようにさえ思えてくるのである。

 無論嘗て柄谷行人は村上春樹に対してとんでもない知ったかぶりの二年生ぶりっ子をして大恥をかいている。しかしそれは基本的な読み誤りではなく、書き誤りである。

 これはやがて「何故漱石論者は漱石作品を誤読するのか」という壮大なテーマに捧げられる問題提起になるかもしれない。

 いや、ならないな。
 

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