文章を正確に読むとはどういうことか あるいは柄谷行人という病
柄谷行人は誤読の達人である。よくぞここを読み間違えるかという間違いを繰り返している。「明治の精神」を明治十年代が持っていた多様な可能性だと決めつけたり、Kというライバルの出現によって先生は御嬢さんへの愛を意識し始めるなど噴飯物の解釈が何故か夏目漱石作品関してだけ現れるようである。確かに『行人』には、こういう台詞がある。
しかしその直後、引き続いて、
このようにすかさず選択肢が二つ消され、一つに絞られている。すかさずなのだ。これを無視して、まるでそこで一旦話が途切れたかのように、「漱石の『行人』の一郎が言うように、宗教か自殺か狂気しかない。」と切り取ってしまうのは単なる誤読に過ぎない。そしてずばり行ってしまえば一郎の苦悩は直の心が得られないことであり、それは明治のインテリの問題として一般化できるようなものではなかろう。「一郎≒夏目漱石≒明治のインテリ」という一般化は、実はさかのぼれば江藤淳の説のあまりにもずさんな剽窃に過ぎない。しかしこの剽窃には何の根拠もない。一郎の「心配」は気が狂うことにあったとして、一郎の「問題」を考えるのであれば、むしろ、
この「生死を超越」を見なければなるまい。「生死を超越」というからには自殺はそもそも出口にはならない。「生死を超越」は死んでも生きても同じ事である。「すべからく現代を超越すべしといった才人」とは「吾人はすべからく現代を超越せざるべからず」という高山樗牛を意識したものだろう。
この才人を一郎は「とにかく」と突き放している。(しかし夏目漱石は「才人」と云いながら、この高山樗牛の思想がさして深みのあるものではないことに気が付いていた筈だ。「才人」とはいわば皮肉である。)つまり「明治のインテリの問題」などと一括りされるような問題について一郎は論じている訳ではないし、そもそも「明治のインテリの問題」などと一括りされるような問題そのものの存在を否定していることなるのではなかろうか。
ではさて一郎の言う、「生死を超越」とはどういうことかと考えてみる時、漱石がこの作品の中で「超越」という言葉をどのように使用しているかということを確認しておかねばなるまい。
ここでは「超越」はごく平凡な意味で使われている。観念としてはあるがなかなか困難なこととして「超越」が使われているように思う。しかし、
嫂・直はやすやすと「超越」している。この「超越」の意味はやや軽い。簡単である。この「超越」は「囚われない」という程度の意味に解釈できる。そして、
この「超越」はもはや「無視」程度の皮肉である。表現として大袈裟である。この用法がもう一度現れる。
ここでは「超越」は「構わない」程度の意味で使われている。「地理や方角を超越」とはいかもユーモラスな表現だと思うが、どうだろう。
そしていよいよ「僕は是非共生死(しょうじ)を超越しなければ駄目だと思う」という台詞に繋がるのだが、この「超越」が「死んでも生きても同じ事」ならば、つまり死んでも生きても二郎に直を取られるのはイヤという程度の意味なのではなかろうか。
これを大いに哲学的に掘り下げて難しそうな言葉を並べ立ててもみっともないだけだ。ここにそんなに深い哲学的な意味はない。そのことを漱石は「超越」の用い方で示している。先生は「私」に静を託した。一郎は二郎に直を託さない。これが「生死(しょうじ)を超越」の意味である。
[追記]
ここで大上段から語られている北村透谷は一体どの北村透谷であろうか。岩波書店 から1947年に出た「北村透谷全集」は編集者によって内容を著しく改ざんされたものであった。
この版を読んでいたとしたら、柄谷行人はもう一度読み直しせざるを得ない。というよりこの版はまだ古書店で流通していて、大変危険だ。岩波書店は回収するくらいのことをした方がいいのではなかろうか。
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