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乃木夫妻の殉死について これは神聖か罪悪か

 公的な資料はまだ見つからないが(見つかるわけもないが)、乃木夫妻の殉死について、「世間にデマが飛んだ」のはどうやら事実のようだ。クイズミリオネアなどを見ても、オーディエンスとは決してとことん愚かではない。しかしこの百余年の近代文学は愚かであり杜撰である。そこには様々な人々が関わった。誰と誰という話ではない。何千人、何万人という文学者が夏目漱石の『こころ』を読み誤ったのだ。誰か一人が切腹して済む話ではない。もし責任を取るとするなら、何万人かが切腹しなくてはならない。しかし切腹をすれば死ねるわけではない。以下に八切 止夫の記事を引用する。

 さて、大正元年九月十五日付「国民新聞」に、当時の赤坂警察署の本堂署長が、乃木将軍の切腹に際し行政検視に立ち会った一人として、「十三日午後八時に割腹された将軍の最期に関し、誤謬が喧伝されているゆえ真相を
語る」と前置きして、
「自分はこれまで多くの自殺を見てきたが、これほど武士的な自決は初めてで、実に模範的なものである」と断定し、「二階八畳敷で夫人を左にして将軍は、まず上衣を脱ぎシャツのみとなって正座し、腹下左の横腹より軍刀を差込み、やや斜め右に八寸切り裂きグイと右へ廻し上げられた。‥‥これは切腹の法則に合い、実に見事なものだった。而して返しを咽喉笛にあて、軍刀の柄を畳につき身体を前方に被せ首筋を貫通、切先六寸が後の頭筋に出て、やや俯伏になっておられた。これに対し夫人は、紋付正装で七寸の懐剣をもち咽喉の気管をパッと払い、返しを胸部にあて柄を枕にあて、前ふせりになって心臓を貫き、懐剣の切尖が背部肋骨を切り、切先は背中の皮膚に現れんとしていた。しかるに膝を崩さず少しも取り乱したる姿もなく。鮮血淋漓たる中に見事なる最期で、見るものの襟を正させた」
と、まるで初めから立ち会っていたかのように、仔細な描写がなされている。
 しかしである。事実が間違いなくそうであるならば、十三日夜の自決が十四日の朝刊新聞に発表されたのに、同日の午後にはもう「世上にデマがとび」、そこで署長が至急に記者会見し、翌十五日にはこうした談話記事が出るとは、いったい何故であろうか。
 この時のデマというのは、今日では「殉死」とされている夫妻の死が、「他殺」と噂を立てられたものである。勿論それなりの裏面史はあるのだが、ここでは命題からそれるからこれを後まわしにし、当時の権力の末端が、「模範的」と折紙をつけた切腹の方式というものを考察するにとどめたい。

一に下腹に刀身をさし通して、
ニに右に向かって八寸切りさき、
三にグイと右へ廻して上げて、
四は切り上げた刀身を引き抜き、
五はそれを持ち直し襟にあて、
六で畳の下に柄を何かで固定
七は頭を木槌のごとく打ち込む

 各動作を順序よく狂いなく一分ずつでやったとみても、連続して計七分間かかる。
ところが、現在の法医学の臨床データでは、「第一の動作、つまり異物を皮膚下に突入させた時点において。八十三例中八十例までは、喪心または失神状態に陥るものである」とされている。
 つまり今日私達が乃木将軍を崇拝するのも、この超人的な行為によるものである。
 なにしろ大正元年以降においても数多くの日本人が、日本刀による切腹をしているが、こういう懇切丁寧な実況談話記事もないし、また「模範」という折紙つきのものも、他には知られていないからである。

 さて、乃木将軍夫妻の記事を具象された型の崇高さから完全な事例として引用したが、これでみると、死という行為も模範的に遂行しようとすれば、部分的に局部麻酔を施してとりかかっても、常人にはとても不可能である。(「1089 論考・八切史観」八切 止夫)

http://www.rekishi.info/library/yagiri/index.html

 八切の作品のいくつかはネットでフリーで読むことができる。独特の歴史観の論者ではあるが、ここで述べられていることは概ね常識的な内容ではなかろうか。医師でもある森鴎外が立て続けに殉死小説を書くのみに留まらず、『堺事件』や『高瀬舟』において、自刃による死がいかに困難であるのかと繰り返し書いていることが全くの偶然だとは私には思えない。

 そして八切が指摘するように、赤坂警察署の本堂署長が見てきたように緊急記者会見をしていることがおかしい。科捜研でもなければ、これほどまで詳細な説明は難しいのではなかろうか。そしてここにはどうも江藤淳が嫌った聖化が見られる。いや、冷静に考えよう。どうして自分で切腹を成し遂げたことのないものが、切腹の作法を説くことができるのか。語り得るのは『高瀬舟』のような失敗談だけではなかろうか。見事に死ねたのなら、何も語り得ない。語り得るのは自死マニアだけである。

 翌日の「東京朝日新聞」は次の如く伝えている。
 霊轜発引の弔砲を合図として殉死す。(中略)
 大将の自殺せる室には先帝陛下の御写真幷びに日露役に戦死せし両息の写真を懸け其下に於いて大将は短刀を逆手に持ち、右より左に掛け咽喉を切り夫人は左の乳下を心臓に達するまで突き刺したり
 遺書は二通 石黒男爵に宛てたる一通の遺書は、死後に於いて屍体を醜からぬやうせられたしとの意味にて(中略)
 今上天皇にたまわりしものにて殉死の申訳なりとぞ(「東京朝日新聞」大正元年九月十四日)(『明治国家の精神史的研究― 〈明治の精神〉を巡って』鈴木徳男・嘉戸一将編/以文社/2008年)

 この新聞記事は子供の作文、赤坂警察署の本堂署長の釈明は良くできたフィクションである。

 無論これは文学そのものの議論ではない。しかし夏目漱石が乃木夫妻の殉死について「これは神聖か罪悪か」と日記に記し『こころ』ではわざわざ静を生かしたことは認めなければならない。そこに気が付かないで夏目漱石の『こころ』を読んだことにはならない。たとえ江藤淳が見落としていたとして、江藤淳を聖化するのでなければ、このことは繰り返し書かねばならないだろう。大正元年にデマを飛ばした庶民は、もう殆ど生きていない。それでも現代に生きる我々は、夏目漱石と森鴎外のおかげで、明治という時代、明治の精神のいかがわしさに気が付くことができるはずだ。まだお上のすることには間違いはありませんからと信じている人はいまい。







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