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ある死をめぐる考察 静子が殺されたことは明らかにおかしいのだ

 吉田和明の『太宰治はミステリアス』(社会評論社、2008年)は太宰治を聖化しようとする太宰ファンたちの神話を突き崩そうという試みであり、少なくともこれにより太宰の死に顔は微笑んでいたという神話は明らかに突き崩されているように思える。しかし太宰ファンではない、ただの太宰信奉者ではない、単なる浅はかな太宰作品の愛読者であるこの私にとって、太宰の死体がぶよぶよであったことなどはどうでもいい。ここから始めて、その程度の事実が神話によって覆い隠され、当たり前の事実が伝わらない不思議について、考えてみたい。

 私は繰り返し夏目漱石の『こころ』の話者「私」はKの生まれ変わりのように仄めかされていると書いてきた。しかしこのことはわずか三百人程度にしか理解されていない。まあ、理解されていると言っても、半ばは半信半疑であろう。何しろ、こんなことを書いているのは私一人なのだから。
 また『こころ』の隠れテーマの一つに乃木大将の妻、静子の死の問題があることを指摘してきた。このことはまだわずか十人前後しか理解できていないようだ。先生が乃木大将の遺書を読みながら、なぜ乃木大将は女房を殺したのか、と声には出さない。出さない代わりに静を生かす。乃木大将の遺書は中野の家のことは静子に任せるとして、静子が生き残る前提で書かれている。几帳面な乃木大将なら、予定が変更になったなら、当然遺書も書き改めた筈である。静子が殺されたことは明らかにおかしいのだ。乃木大将の遺書や静子夫人に関する記録は今でもジャパンサーチで誰でも閲覧できる。研究者でなくても十分程度も時間を割けば、夏目漱石と同じ疑問までは辿り着くことができるだろう。

 宮本百合子によれば森鴎外は乃木夫妻殉死の一報を聞いて半信半疑となり、たちまち立て続けに殉死小説を書く。何度か稿を改めながらも、そこで念押しされるルールは「殉死は殿様に許されて場所と時間を決めて行うもので、女房を道連れにするものではない」ということだ。後に『帝諡考』『元号考』に進む鴎外が、「天皇に殉死するのはおかしい」と書いたとはなかなか信じがたいことのように思われるが、乃木大将夫妻の殉死が当時大きな驚きをもって受け止められたこともまた事実である。

 しかしこうしたことを繰り返し書いても、明治神宮や乃木神社に行ってみれば確かにそこに神がいるような気がしてくるのが当たり前の庶民なのだろう。何しろ仮に静子の死がおかしいとして、このミステリーの謎解きはもうほぼ不可能なのではなかろうか。

 芥川龍之介の死を巡って、それが睡眠薬の飲みすぎではなく、青酸カリによるものである、という山崎光夫の『藪の中の家 芥川自死の謎を解く』を読むと、芥川龍之介が二年間自殺について考えながら、「死に切ること」にいかに重点が置かれていたか、ということが解る。自殺者にとって死にきれないことは恐怖である。では乃木夫妻はどうだったのだろう。乃木大将自身は軍人として何としても死に切る覚悟も胆力もあっただろう。しかしどんな胆力のある人間でも腹を切ったくらいでは死なないのだ。

「フランス人共聴け。己(おれ)は汝等(うぬら)のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったのである。
 箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手(さかて)に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口(きずぐち)は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創にさし込んで、大網(だいもう)を掴んで引き出しつつ、フランス人を睨(にら)み付けた。
 馬場が刀を抜いて項(うなじ)を一刀切ったが、浅かった。
「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。
 馬場の二の太刀は頸椎(けいつい)を断って、かっと音がした。
 箕浦は又大声を放って、
「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位響いたのである。
 初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭(きょうがい)と畏怖(いふ)とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち上がって、手足の措所(おきどころ)に迷った。
 馬場は三度目にようよう箕浦の首を墜(おと)した。
 次に呼び出された西村は温厚な人である。源姓、名は氏同(うじあつ)。土佐郡江の口村に住んでいた。家禄四十石の馬廻である。弘化二年七月に生れて、当年二十四歳になる。歩兵小隊司令には慶応三年八月になった。西村は軍服を着て切腹の座に着いたが、服の釦鈕(ぼたん)を一つ一つ丁寧にはずした。さて短刀を取って左に突き立て、少し右へ引き掛けて、浅過ぎると思ったらしく、更に深く突き立てて緩(ゆるや)かに右へ引いた。介錯人の小坂は少し慌(あわ)てたらしく、西村がまだ右へ引いているうちに、背後から切った。首は三間ばかり飛んだ。
 次は池上で、北川が介錯した。次の大石は際立った大男である。先ず両手で腹を二三度撫(な)でた。それから刀を取って、右手で左の脇腹を突き刺し、左手(ゆんで)で刀背(とうはい)を押して切り下げ、右手に左手を添えて、刀を右へ引き廻し、右の脇腹に至った時、更に左手で刀背を押して切り上げた。それから刀を座右に置いて、両手を張って、「介錯頼む」と叫んだ。介錯人落合は為損(しそん)じて、七太刀目に首を墜した。切腹の刀の運びがするすると渋滞なく、手際の最も立派であったのは、この大石である。
 これから杉本、勝賀瀬、山本、森本、北城、稲田、柳瀬の順序に切腹した。中にも柳瀬は一旦左から右へ引き廻した刀を、再び右から左へ引き戻したので腸(はらわた)が創口から溢(あふ)れて出た。
 次は十二人目の橋詰である。橋詰が出て座に着く頃は、もう四辺(あたり)が昏(くら)くなって、本堂には燈明が附いた。
 フランス公使はこれまで不安に堪えぬ様子で、起ったり居たりしていた。この不安は次第に銃を執(と)って立っている兵卒に波及した。姿勢は悉(ことごと)く崩れ、手を振り動かして何事かささやき合うようになった。丁度橋詰が切腹の座に着いた時、公使が何か一言云うと、兵卒一同は公使を中に囲んで臨検の席を離れ、我皇族並に諸役人に会釈もせず、あたふたと幕の外に出た。さて庭を横切って、寺の門を出るや否や、公使を包擁(ほうよう)した兵卒は駆歩(かけあし)に移って港口へ走った。(森鴎外『堺事件』)

 武士でさえ介錯人なしで簡単に死ぬことはできないのだ。三島由紀夫の『憂国』などを読むといとも簡単に夫婦が自殺するが、かりにも殉死であるならば、乃木大将が介錯人の用意なく、腹を切るのはおかしい。しかも静子が懐刀を胸に一突きして死に切ることなどほぼ奇跡に近いのではなかろうか。三島由紀夫も死に切る切腹の作法を習っていたが、介錯を頼んで生首となる。静子がどのように、誰に殺されたのかは本当に解らないのだ。

 ある日いつものように何心なく帰って見ますと、弟はふとんの上に突っ伏していまして、周囲まわりは血だらけなのでございます。わたくしはびっくりいたして、手に持っていた竹の皮包みや何かを、そこへおっぽり出して、そばへ行って『どうしたどうした』と申しました。すると弟はまっ青さおな顔の、両方の頬からあごへかけて血に染まったのをあげて、わたくしを見ましたが、物を言うことができませぬ。息をいたすたびに、傷口でひゅうひゅうという音がいたすだけでございます。わたくしにはどうも様子がわかりませんので、『どうしたのだい、血を吐いたのかい』と言って、そばへ寄ろうといたすと、弟は右の手を床へ突いて、少しからだを起こしました。左の手はしっかりあごの下の所を押えていますが、その指の間から黒血の固まりがはみ出しています。弟は目でわたくしのそばへ寄るのを留めるようにして口をききました。ようよう物が言えるようになったのでございます。『すまない。どうぞ堪忍してくれ。どうせなおりそうにもない病気だから、早く死んで少しでも兄きにらくがさせたいと思ったのだ。笛を切ったら、すぐ死ねるだろうと思ったが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く深くと思って、力いっぱい押し込むと、横へすべってしまった。刃はこぼれはしなかったようだ。これをうまく抜いてくれたらおれは死ねるだろうと思っている。物を言うのがせつなくっていけない。どうぞ手を借して抜いてくれ』と言うのでございます。弟が左の手をゆるめるとそこからまた息が漏ります。わたくしはなんと言おうにも、声が出ませんので、黙って弟の喉のどの傷をのぞいて見ますと、なんでも右の手に剃刀を持って、横に笛を切ったが、それでは死に切れなかったので、そのまま剃刀を、えぐるように深く突っ込んだものと見えます。柄がやっと二寸ばかり傷口から出ています。わたくしはそれだけの事を見て、どうしようという思案もつかずに、弟の顔を見ました。弟はじっとわたくしを見詰めています。わたくしはやっとの事で、『待っていてくれ、お医者を呼んで来るから』と申しました。弟は恨めしそうな目つきをいたしましたが、また左の手で喉のどをしっかり押えて、『医者がなんになる、あゝ苦しい、早く抜いてくれ、頼む』と言うのでございます。わたくしは途方に暮れたような心持ちになって、ただ弟の顔ばかり見ております。こんな時は、不思議なもので、目が物を言います。弟の目は『早くしろ、早くしろ』と言って、さも恨めしそうにわたくしを見ています。わたくしの頭の中では、なんだかこう車の輪のような物がぐるぐる回っているようでございましたが、弟の目は恐ろしい催促をやめません。それにその目の恨めしそうなのがだんだん険しくなって来て、とうとう敵の顔をでもにらむような、憎々しい目になってしまいます。それを見ていて、わたくしはとうとう、これは弟の言ったとおりにしてやらなくてはならないと思いました。わたくしは『しかたがない、抜いてやるぞ』と申しました。すると弟の目の色がからりと変わって、晴れやかに、さもうれしそうになりました。わたくしはなんでもひと思いにしなくてはと思ってひざを撞くようにしてからだを前へ乗り出しました。弟は突いていた右の手を放して、今まで喉を押えていた手のひじを床に突いて、横になりました。わたくしは剃刀の柄をしっかり握って、ずっと引きました。(森鴎外『高瀬舟』)

 では静子は乃木大将が殺し、それを見届けてから乃木大将が自力で死んだのかというと、これが遺書と明確に齟齬をきたす。静子が後追いでなければ、遺書は書き改められる筈である。芥川龍之介が『将軍』で指摘した自刃の日の朝の写真には、椅子に腰かけ鼻眼鏡で新聞を読む乃木大将と、よそをにらんで立っている静子の姿がある。愛馬にカステラを食わせた後の光景だろうか。この時点の静子にどんな覚悟があるのか、その心を読み解くことはできないが、静子の身構えたような雰囲気に対して、御大喪の日の記念写真にしては、乃木大将の鼻眼鏡がいささか惚けすぎてはいないだろうか。

 赤木ファイルの問題についても解らないことがある。財務省近畿財務局はタコ部屋なのかということである。小林多喜二に書かれるようなタコ部屋なら逃げだそうとすれば穴に埋められることもあっだろう。しかし「文章改ざん」か「自殺」かという二者択一しかなかったものだろうか。退職すればいい話ではないか。命令違反で解雇するなら結構、法的に争いますけど何か、ということはできなかったのだろうか。「そんなことを言っていると出世に響くよ」「大人しくやってれば、後でいろいろ面倒を見てあげるから」といった安っぽい脅しや駆け引きはあったかもしれない。しかし自殺するくらいの根性があれば、「ハイチャー」(@坂口安吾)と逃げてしまえばよかったのではなかろうか。そんなことを言うと被害者を責めているかのようだが、私には本当に自死なのかという疑問があるのだ。

 Kは小さなナイフで頸動脈を切って一息に死んでしまったのです。外に創らしいものは何にもありませんでした。私が夢のような薄暗い灯で見た唐紙の血潮は、彼の頸筋から一度に迸しったものと知れました。私は日中の光で明らかにその迹を再び眺めました。そうして人間の血の勢いというものの劇しいのに驚きました。(夏目漱石『こころ』)

 江藤淳は風呂場で手首を小刀細工で切って自殺した。1999年7の月、アンゴルモアの大王が人類を滅亡させようと襲ってきたが、江藤淳のおかげで無事だった。西部邁はぶよぶよにならないように、そして流されて行方不明にならないようにハーネスをつけて真冬の多摩川に投げ込まれた。投げ込まれた? 私も先日本当に死にかけたが、誓ってまだ自死はしない。それまでにやることがあるからだ。まだ死ねない。今死ぬわけにはいかない。









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