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文体の違い 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む58
※右昭和天皇左秩父宮
それにしても驚くのは、平野啓一郎が『英霊の声』において、川崎君や木村先生の嘘か芝居、この帰神の儀式の真実性を欠片も疑うそぶりを一切見せないことだ。
大丈夫なのかね?
それで本当にいいのかね?
いや、あなた自身に訊いているんだよ。
それで本当にいいの?
三島由紀夫の『英霊の声』において明確に欠けているのは、彼らの声が真実であるという証拠、例えば彼ら以外に
太宰を読め 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む57
※その前に↑を読め
変革の思想
この理屈は磯部浅一一等主計にちなんで言われたもののようだが、実は何度読み返しても良く解らない。一見天皇が変革のダイナモのような言われ方をしているように見えなくもない。しかし二・二六事件の首謀者の全体意見からはそうした天皇の位置づけは見えてこないからだ。
平野啓一郎も「三島由紀夫はこう書いている」という表層的な理解はしている気配はあるもののその意図を捉えきれ
ほとんど信じがたいほどの幼稚なあやまり 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む56
何度目かの「天皇とは何か」
平野啓一郎は一度だけ神であるべきであった。三島由紀夫論を書こうとしたとき、その一度だけで良かった。しかし実際、平野啓一郎は人間のまま、小学生並みのずさんな読みで三島由紀夫論を書いてしまった。この責任を彼は一体どうとるつもりなのであろうか。
このことは結局どうにもならないのではないかと私は疑っている。彼は死ぬまで何事もなかったようにしらばっくれるのではなかろ
誰にも間違いはある 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む55
軍人勅諭とは何か
それはむしろ「『豊饒の海』論」の瑕疵であるのだが、『英霊の声』のこんなところを再読するとやはり宮城に尻を向ける飯沼勲の不敬がはっきり見える。
ニ・二六事件で処刑された将校たちの霊は、現人神たる天皇陛下の馬前で死ぬことを願っていた。「現人神」に尻を向ける飯沼勲とは大違いである。
飯沼勲の天皇は「現人神」ではなく日輪に変わっていた。この「変化」というのはニ・二六事件で処刑
引っかからないと解らない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む54
現人神とは何か
昨日は『英霊の声』が戦前戦中の三島由紀夫作品の思想への回帰ではないと書いた。本来は『酸模』あたりからいちいち戦前戦中の三島由紀夫作品を読み解いていくべきではあるが、その前に『英霊の声』という作品に関する平野啓一郎の読みのずさんさ、あるいは読みの恣意性、あるいは「『英霊の声』論」の欺瞞というあたりを指摘しておきたい。
普通の中学生が『英霊の声』を読み始めた時、最初に引っ
知らなかったとは言わせない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む53
何故『英霊の声』なのか
平野啓一郎の『三島由紀夫論』を俯瞰した時、その作品論の主たる対象となる作品が小説に偏り、『わが友ヒットラー』や『サド侯爵夫人』などのわずかな例外を除いて三島由紀夫の最も得意としたところであり一般的にも一部では小説よりも評価の高い戯曲に言及されず、戦前戦中の作品が無視され、そして『仮面の告白』『金閣寺』『豊饒の海』といった堂々たる長編作品に混じって『英霊の声』という
国は家の周り 三島由紀夫の『憂国』をどう読むか②
結局この『憂国』というタイトルの意味を平野啓一郎は誤解しているのだと思う。
風呂に入って酒を飲み、寝室で麗子を待つ間、武山中尉はこんなことを思ってみる。
ここには三島独特の、いかにも理解不可能な屁理屈はない。
①国は家の周りである
……家という共同体の最小単位があり、そこで日々の暮らしが営まれている。風呂に入り、飯を食い、酒を飲んで、情交する。その暮らしの場が家なら、その家に水
ビラをまくだけだ 三島由紀夫の『憂国』をどう読むか①
三島由紀夫について語るとき、どうしても避けては通れない作品として『憂国』があると私は考えている。勿論どの作品もそれぞれに捨てがたいのではあるが、作品のサイズ、面白さ、どれをとっても決して三島由紀夫の最高傑作とはみなし難いこの作品にこそ、三島由紀夫における「天皇の不在」というものが実によくあらわされてると感じられるからだ。
武山信二中尉とその妻麗子は美男美女であった。四谷青葉町の新居で日々厳粛
おばさん天皇ではない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む52
解らないものが解る不思議
どんなに親切ごかした残酷さであれ、梅好みの形式を構成する各分野において、なす術もない拡張は均一性の中に埋没せざるを得ないのだとしたら、いかなる意味でも男根ロゴス主義に辿り着くことのできない気色ばんだ言葉たちは、定刻まで沈黙をつつけることを誇りとするであろう。
私はこれまでに平野啓一郎の『三島由紀夫論』の問題点として、
・三島天皇論の見極めの不確かさ
・細かい見落
欠落していない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む51
清顕と勲の罪悪感
小説を読むということはちょっとした違いを読むということでありうる。しかし理解するということは同一性で括るということでもありうる。名前も聞いたことのなような外国の食べ物を紹介するとき、日本で言えばつくねです、少し辛いスパイスのきいた鳥の肉団子です、と言われれば何となくわかったような気になる。そうして同一性で括りすぎると、たまにおかしなことが起きてしまう。
平野啓一郎は「三島
醤油をつけた方がいい 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む50
結論として平野啓一郎は飯沼勲の死が熱い握飯にもなっていないし昭和天皇には届かないと考えているようだ。この結論として「昭和天皇に対する熱い握り飯にはなっていない」という部分には私も大いに賛成する。繰り返し書いているように勲の死は八つ当たりの焼けバチの死であり、自己弁護の死に過ぎない。
しかしこの私の個人的な感想はあくまでも三島由紀夫の『奔馬』という作品に対する批判の意味が込められていて、作品論
平野啓一郎の『三島由紀夫論』をどう読むか番外編「天皇の血統」
おそらく平野啓一郎は天皇という存在に対して「素朴」にしか知らないか、あるいはまたこれまでさして掘り下げて考えたことがないのではないかと思う。三島由紀夫がたまたま天皇にこだわっているように見えるからしぶしぶ天皇という言葉を使っているだけで、天皇に関しては阿頼耶識ほどにも調べていないのではないか。
しかし『豊饒の海』そのものが天皇を問題にしている以上ある程度は天皇について知らねばならない。そのた
まことのお姿 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む49
恐ろしい核
紙の本を出版する。図書館に収められる。その本には勘違いが書かれている。こんな悲惨なことは他にあるまい。書くということは恐ろしいことだ。自分が新潮社の編集者で、平野啓一郎の『三島由紀夫論』に関わっていて、私の記事を読んだとしたら死にたくなるだろう。では何故私はこんな残酷なことをしているのであろうか。.
それは例えば夏目漱石作品が徹底的に誤読されているからだ。
おそらく平
目の前に拝むものがあるのに 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む48
いくつもの天皇像がある
つまるところ平野啓一郎の『三島由紀夫論』の最大の問題は、「天皇」の複雑さを捉えきれていない点にあるのではなかろうか。それはまず三島由紀夫の「天皇」、「天皇観」と言ってもいいし、現実の天皇、或いは天皇制と言ってもいい。
この飯沼勲のような純粋な表現はある意味では正しい。しかしその正しさは何故飯沼勲は宮城の前で腹を切りたいとは願わなかったのかという疑問を無理やり払