三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか⑨ とても信じられない
三島由紀夫の悪趣味な家は何を意味しているのだろうと考えないわけにはいかない。そこには確かに三島由紀夫のセンスのなさだけがあるのか、そうではない何かがあるのか。
英国製の天皇が気に入らないと言いながら、シャンデリアの下でビフテキを食べるようになるとは、十六歳の公威少年はとてもではないが考えられなかったはずであるし、純和風の家とは平屋であろう。螺旋階段など必要のないものだ。
仮にビフテキは肉体改造のためであったとしよう。しかしシャンデリアやアポロ像とはまるで「うつけもの」ではないか。と、つい余計なことを考えさせるのがこの『花ざかりの森』の最終章である。ここが『天人五衰』の最終章に似ているのではないかということは、言い出しっぺは定かならずとも、既に繰り返し指摘されていることらしい。確かに「尼のような」と言われているから仕方ない。
勿論『豊饒の海』という題名に関わらずさして海が主題たりえなかったように『花ざかりの森』も殆ど海への憧憬が中心であり、実際に花ざかりの森というものが現れるわけではない。ただ大人たちは全員、この子のことだからきっとこの題名には深い意味があるに違いないと思い込み、誰もそのことに文句は言わなかったのだ。森が出てこないから題名を変えてはどうかと誰も言わなかったのだ。
蝉の啼音以外には何もない庭とこの死に似た静謐は何度となく比較されてきたのだろう。「自己の現実に直面する無能力」という指摘を得て、ようやくここには天才だけでは片づけられない、深刻なものが見えてくる。確かにこれまでこのような小説は誰も書いてこなかったし、その後も誰もこんな小説は書けなかったけれど、確かにここには現実というものがなるでなく、社会的な問題にかかわりあってはいない。
そして仮にも現実というものを小説の中に引き込もうとして藻掻いた『仮面の告白』にしても、果たしてそれが現実であったかどうか?
少なくとも殆どの人は『花ざかりの森』が戦争中に書かれた小説であることも十六歳の少年が書いたことも到底信じられないだろう。そのほとんど矛盾したような何ものかが公威少年の中にあり、この作品が大人たちに認められ、昭和十九年に出版され忽ち初版四千部が売り切れるところから三島由紀夫は始まったのだ。
しかしジョンがまた指摘しているように、昭和二十年改めて『中世』『岬にての物語』らと合わせた短編集を出し直そうと筑摩書房に持ち込んだ際『花ざかりの森』もろともこれらの作品はボツになっているのだ。『花ざかりの森』はおそらく戦後日本に突き付けられていたむき出しの現実の前では余りにも無意味だった。太宰治や坂口安吾や織田作之助が捉えていた現実が三島由紀夫には全然見えなかった。
わたくしも多少は戦争というものを見ておりますと言いながら、機銃掃射の話が不意に鴨長明に転じる程度に、三島由紀夫は最後まで観念の人であったのだ。『花ざかりの森』は恐ろしく達者に現実を避けたのではなく、確かに出来損なっているようにも見えなくもない。
この作品には株式分割も増配もない。ちりめん山椒も鳥チャーシューもない。勿論ある作品に何かがないことを責めるわけにはいかない。ただしこうは言ってもよかろう。三島由紀夫は森なんか書く気はまるでなく、季節は最後晩秋だと。
[余談]
全部あるな。
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