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ジョン・ネイスンの『新版・三島由紀夫—ある評伝—』を読む③ 名状しがたく醜悪って……

 昭和二十五年中に発表された作品は、それがいかに苦難多き年であったかを物語っている。特に短編小説は名状しがたく醜悪であり、咽喉元で押し殺された苦痛の悲鳴が聞こえる。

(ジョン・ネイスン『新版・三島由紀夫—ある評伝—』新潮社 2000年)

 こう指摘されてみて初めてそれ以前の短編はどうだったかと確認してみると、

 『夜の支度』は、現在なお三島の書いたもっとも成熟した作品の一つである。

(ジョン・ネイスン『新版・三島由紀夫—ある評伝—』新潮社 2000年)

 とは書かれていた。『煙草』『岬にての物語』『軽王子と衣通姫』『春子』らの作品がいずれも注目されなかったことが書かれているほか、ジョンは自身の感想を述べていない。『エスガイの狩』『菖蒲前』『黒島の王の物語の一場面』『鴉』には触れられていなかった。

 例えば『鴉』は諄い装飾もナルシシズムも屁理屈もない、まるで三島らしくないポップな作品である。いい具合に力の抜けた現代小説で、新人賞には受かりはしそうにない代わりに、つまらないとも感じさせない程度の「お話」は持っている。

 これがもっとも死に近い時期、昭和二十三年に書かれたものだという烙印は見当たらない。昭和十九年に初稿が書かれ、昭和二十一年に二稿が書かれた『贋ドン・ファン記』は、何か新しい悪ふざけをしようとした形跡の見える作品である。

 十一時五十九分五十秒、十一時五十九分五十一秒、十一時五十九分五十二秒、十一時五十九分五十三秒、十一時五十九分五十四秒、十一時五十九分五十五秒、十一時五十九分五十六秒、十一時五十九分五十七秒、十一時五十九分五十八秒、十一時五十九分五十九秒……。

(三島由紀夫『贋ドン・ファン記』)

 筒井康隆がやりそうなことを三島由紀夫がやっている、とジョンは書いていない。ジョンは筒井康隆を知らないだろう。あらゆる文芸的遊びをやり尽くそうとした日本人作家は、まだまだ世界的評価を勝ち得ていないのではなかろうか。夏目漱石と比較される日本人作家は、太宰、川端、芥川ときて、村上春樹の次は村田紗耶香と川上未映子が挙げられることが多い。

 るりは来る。るり来る、るり来る、るり来る、るり来る、るり来る、るり来る、るり来る、るり来る、るり来る、るり来る、るり来る、るり来ない、るり来る、るり来る、るり来る、るり来ない、るり来ない、るり来る、るり来る、るり来ない、るり来ない、るり来ない、るり来ない、るり来ない、るり来ない、るり来ない、るり来ない、るり来ない……

(三島由紀夫『贋ドン・ファン記』)

 勿論こんな作品より、もっと深刻なものを無理やりにでも拾う方が話は拵えやすいだろう。

 少年時代の思ひ出は不思議なくらゐ悲劇化されている。

(三島由紀夫『煙草』)

電車を待つ間、沖縄が大勝利で敵は無条件降伏をしたらしい、などと赭顔の男が故らな大声で話していた。

(三島由紀夫『輝子』)

 勿論『輝子』は戦後、昭和二十一年に書かれている。しかしそんなこともジョンの関心は引かなかったらしい。
 しかし『恋と別離と』の関心事は接吻であるからには、何か三島自身の経験と絡めて指摘されるべきではなかったか。『夜の支度』は、さておこう。ただ昭和二十五年の短編を醜悪という前に、『接吻』『伝説』『白鳥』『哲学』はさすがに気が抜けていないかとは書くべきではなかったのではなかろうか。

 いくつかの作品はかなり自伝的であり、ジョンのストーリーに反して、三島由紀夫は今にも死にそうに見える。ジョンは三島を「けして自殺できない不死身者」にしようとする。

 しかし私にはこの時期の三島がかなり際どい所にいたようには思える。それでもまあ三島は死にもせず『仮面の告白』で一発当てる。ジョンはこう読む。

 三島の仮説的な仮面から語り出されるこの告白は、過去の決算であるよりもむしろ未来への予言であった。

(ジョン・ネイスン『新版・三島由紀夫—ある評伝—』新潮社 2000年)

 なんとも上手いことを言う。「仮説的な仮面」はこの後ホモセクシュアルから『葉隠』の手引きで天皇へ置き換えられる。しかしそれはまだずいぶん先の事である。

 その前に醜悪な短編の意味を考えて見なくてはなるまい。しかしまだそれはできない。『果実』と『日曜日』を読んでいないからだ。それを何時読むのか。それはまだ誰にも解らない。
 何故ならまだ決めていないからだ。

[余談]

 読み直してみるとやはり現代ものを普通に書くと二十代初期の三島の短編はなんともふらふらしている。別のいい方をすると『命売ります』の軽薄な感じというものが少し見えるような気がする。
 圧倒的な天才のキレッキレの名作という感じはない。
 それこそ初期短編を大江健三郎と比較するとお話にならないくらい弱い感じがする。

 文体そのものは『盗賊』の時に相当工夫した感じがあるがやはり『仮面の告白』で二段回くらい跳ねた感じで、やはり三島は大真面目の努力の人だなあとしみじみ思う。自分なかに確かにあった筈の天才がいつのまにかどこかへ行ってしまって努力するって、それは物凄いことだと思う。

 まあ『花ざかりの森』の再出版をボツにされたところから三島が始まるという見立てもありかな。

 何だか全部感じだけど。


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