ジョン・ネイスンの『新版・三島由紀夫—ある評伝—』を読む⑨ 証拠は役に立たない
この期に及んで私にはまだ、三島由紀夫が天皇を殺したかったのか守りたかったのかが分からない。
それならば何故皇宮警察に入らないのか?
何故楯の会でなくてはならないのか。
そこのところが本当に解らない。
守るためには武器が必要だ。そこは精神的なものでは乗り越えられない。
この問題などは楯の会の間ではどのように議論されたものであろうか。
ジョンはそこは掘らない。代わりに『文化防衛論』の、
というあたりの話を掘る。宮廷和歌のみやびが日本文化だというような理屈に対して、学生の意見をぶつけてみる。
この学生がけしかけているのは三島の口から「しかし万葉歌は……」と言わせようとしたためかどうか判然としない。しかし例えばキーンはどう考えたであろうか。万葉歌、歌物語の「土佐日記」、「日記文学」と元をたどれば日本文化はそれが雅とも粗野とも未分化の天皇も名無しも分け隔てなく言葉を紡いだ『万葉集』に始まるのではないかと、当たり前ことを指摘するのではなかろうか。「記紀歌謡」ではなく、『万葉集』が『古今集』に繋がる。そこを敢えて宮廷和歌にすり替えた三島の意図は分からないが、ジョンは宮廷和歌も掘らない。(そもそも宮廷和歌って何派? 御子左家?)
ジョンの書き方はいささか意地が悪い。三島の「天皇」が漫画的なものであることを真面目に指摘してしまっている。そんな都合のいい「天皇」がもしあるならそれはそれで構わないが、そんなものをどこから連れてくるのかと文句を言いたげだ。
ここで「明治憲法の発布までは感知しえた」という表現が『文化防衛論』のどの記述にかかるものかは精査が必要であろう。「明治憲法の発布までは感知しえた」ということは「いまはない」という理屈になり、無理やりにでも創り上げなければならず、血統でえらばれるとするならば、条件に合う天皇が現れるまで天皇を誅せねばならないというとんでもないロジックが現れてしまうからである。
何なら一番穏便な方法はオーディションということにもなりかねない。この人なら天皇にふさわしいという人を国民が選ぶのだ。
しかしそんな穏便さはそもそも三島がもとめていたものとは全く無関係であろう。確かに三島は明治憲法が天皇を立憲君主に押し込めたことを批判しているが、三島憲法で「君主にして祭司、色好みの情人、勇壮な戦士、優美な歌人、白馬にうちまたがって日本の古代神話の世界を馳せた半人半神」が出来上がるものでも無かろう。優美な歌人であるかどうかはその人のセンスだ。
しかしまあ、そもそもジョンは三島が屁理屈を敢えて言っているということは承知している。三島が真実を語っていないその確実な証拠としては『太陽と鉄』があるという。そこには天皇も憲法も出てこない。
ここで一旦ストップ。たしかに三島が常に本当のことを語っているとは限らないわけだが、問題は寧ろその前提に立って考えてみてさえ、三島天皇論がすべて出鱈目というわけにはいかないというところにあるのだ。
つまり三島由紀夫が国も他人の命もどうとも思わないただのペテン師で、楯の会を自分の本を売らんが為の宣伝に利用したのでもなければ、少なくとも隊員たちに対する誠意として、三島天皇論は本人の中では大真面目なものであるべきなのである。
三島の本音はやはり生首から遡られるべきであるのに、決してそのままストレートに遡ることができない。どこかに嘘はあるのだが、どれか一つを嘘だと切り出しがたい。またそうした混乱をそのまま無責任に隊員らに押し付けたともやはり思えないのだ。だからこそ平野啓一郎も迷った末に三島由紀夫を「天皇主義者」として葬った。「十代への帰郷」をいささか素直に信じすぎているようなところはあるが、確かに三島はそのようにミスディレクションしているのだ。額に巻かれた「七生報国」の鉢巻きは「嘘です。あははははは」と取り消すことはできない。
何かあからさまな見落としはないだろうか。
それはまだ誰にも解らない。何故ならまだ分からないからだ。
[余談]
一事が万事。こんな奴を学者扱いしちゃだめだ。
こんなのを放置しているから黒人奴隷云々の話になる。
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