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読み誤る漱石論者たち ダミアン・フラナガン② 谷崎は芥川の弟子ではない。

The works of Ryunosuke Akutagawa have been a perennial favourite of Japanese youth, but as noted in Part 4 of this series, Akutagawa was the disciple (deshi) of Natsume Soseki, the grand master of Japanese literature in the twentieth century, and sensei to many other literary luminaries including Junichiro Tanizaki.

https://mainichi.jp/english/articles/20220514/p2a/00m/0et/023000c

 芥川龍之介の作品は、日本の若者に長年愛されてきたが、第4回で述べたように、芥川は20世紀の日本文学の大家である夏目漱石の弟子であり、谷崎潤一郎など多くの文豪の師匠であった。

 ダミアン・フラナガンが毎日新聞にまたいい加減なことを書いている。これを読むのは主に外国の人なのだろう。間違った情報が海外に発信されているとしたら、いや、実際にされているのだが、これは彼個人の問題ではなく、そのプロフィールで公にされている出身大学やこの記事を掲載している新聞社の問題でもある。
 まず基本的な誤りを指摘すれば、谷崎潤一郎は芥川龍之介の弟子ではない。敢えて言えば、永井荷風の引きで世に出たようなところもあり、付き合いも長く続いたが、誰かの弟子という括りに谷崎は当てはまらないだろう。またこういう表現の中ではあたかも谷崎が漱石山脈に連なるかのような印象を与えかねないので注意が必要だ。
 さらに言えば、小宮豊隆や鈴木三重吉は間違いなく漱石の弟子であり、和辻哲郎も漱石の弟子と呼ばれることに異存はなかろうが、芥川龍之介と夏目漱石の関係は彼等とはやや異なる。弟子というからには漱石を先生と呼ばなくてはならない。芥川龍之介の場合「夏目さんもまだまだだ」と云っており、先達の恩人としては認めていただろうが、師事する意識はなかったのではなかろうか。また太宰治が芥川にあこがれていたことは有名であるけれども、芥川が誰かの師匠であったことはなく「多くの文豪の師匠」という表現は根本的に可笑しい。
 無論谷崎も作中で何度か夏目漱石を論じているが呼称は「夏目さん」であり、師事する意識はない。ここまでは大抵の日本人なら同意してもらえる内容であろう。

 唯一評価すべき点は、芥川が「若者に長年愛されてきた」とする独自の踏み込みである。逆に私は芥川が「多くの大人にご卒業されてきた」ことに興味を持つて居る。しかし独自の研究をさも周知の事実のようにさらりと書いてしまうのは良くない。どこがどうだからこう、なにがどうしたのだからこうと、より具体的な事実を示して論じるべきであろう。

While out walking, the protagonist Sosuke observes men putting winter cladding on a tree and begins to consider buying himself a winter coat and selling off a family heirloom to buy it. This heirloom falls into the hands of his landlord who, Sosuke is shocked to discover, is an associate of his former best friend Yasui. Sosuke's wife Oyone was once Yasui's lover, and when she left him for Sosuke, it caused a falling out between the two men and changed the cuckolded Yasui's entire life course.

Hearing from the landlord that Yasui has become an "adventurer" in Manchuria and that he is about to come back for a brief visit sparks a spiritual crisis in Sosuke. He flees temporarily and embarks on his own uncharacteristic "adventure," seeking mental salvation in a Zen temple.

主人公の宗助は、散歩の途中、木に防寒具を付けている男たちを見かけ、自分も防寒具を買おうと考え、家宝を売ってそれを買おうとし始める。その家宝が大家の手に渡り、それがかつての親友・安井の仲間であることに宗助は衝撃を受ける。宗助の妻およねは、かつて安井の愛人だったが、彼女が宗助のもとを去ったことで二人の仲がこじれ、寝取られた安井の人生も変わってしまったのだ。

 これは『門』のあらすじである。DeepLの語訳かと思えばそうではなかった。「 she left him for Sosuke」と書いてある。毎日新聞には英語が分からないけど英語版の担当をしている編集者が存在するのだろうか。「彼女が宗助のもとを去ったことで二人の仲がこじれ」ではなんのことかわからなくなる。

大家から、安井が満州で「冒険家」になり、今にも帰ってきそうだという話を聞き、宗助は精神的な危機を感じる。彼は一時的に逃げ出し、禅寺に心の
救済を求め、自分らしくない「冒険」に乗り出す。

 ここにも彼の悪い癖が出ている。宗助の参禅を「冒険」と定義することで、安井と対を作り出したいのだろうが、そもそも逃げ出すことを冒険とは呼ばない。また正確に言えば坂井の弟は「冒険者」だが、安井は必ずしも「冒険者」とは書かれていない。「彼らは安井を半途で退学させ、郷里へ帰らせ、病気に罹らせ、もしくは満洲へ駆りやった」と書かれ、坂井の弟の友達であるだけである。

oseki too, the "literary psychopath," worked and slaved, and if he did not quite cut off his ear, he was quite prepared to harm himself in other ways, abandoning his wife and children for two years, his mental and physical health failing as he moved himself into ever more depressing lodging houses in his ruthless pursuit of literature. He eventually ended up in a room close to Clapham Junction, where he could from dawn to dusk hear the incessant clank and grind of locomotives, the ultimate symbol of the nervous breakdown-inducing twentieth century.

Prone to bouts of violent paranoia, for years afterwards, Soseki was obsessed with the idea of being enslaved. He closely read up on the ideas of Nietzsche -- yet another tormented, self-destroying artist -- on the subject. In his 1907 novel, "The Poppy," his male protagonist Ono is described as suffering spiritual enslavement at the hands of a forceful young woman, and in his 1908 novel, "Sanshiro," Soseki took inspiration from Aphra Behn's novel, "Oroonoko" -- about an African prince cast into slavery -- and repeatedly compared his protagonist Sanshiro to such a "Royal Slave."

 激しい被害妄想に襲われた漱石は、その後何年も、自分が奴隷になることにこだわっていた。彼は、ニーチェ(これも苦悩し、自滅する芸術家)の思想をよく読んでいた。1907年の小説「罌粟(けし)」では、男主人公の小野が強引な若い女に精神的な奴隷にされる様子を描き、1908年の小説「三四郎」では、アフラ・ベーンの小説「オロノコ」からインスピレーションを得て、主人公の三四郎をそんな「王家の奴隷」に何度も例えて描いている。
「私は働く! 私は働く!私は奴隷だ!」。私は機関車のように自分を動かすのだ!」。
夏目漱石は、1901年、ロンドンの下宿で、俳友・正岡子規の支配に密かに反旗を翻し、文学の道を歩み始めた。正岡子規のアヘン夢日記に触発された自画像を書き始め、批評的な自己解放の瞬間を迎えていた。彼の文学的野心に火がついたのだ。ゴッホのように、燃えるような文学的ヴィジョンを内に秘めることが困難であった。自責の念、自己嫌悪、野心が夢のように力強く交差し、やがて漱石はゴッホが絵画を描くのと同じように容赦のない力で文学作品を流し込むようになった。

 まず夏目漱石のニーチェ観から整理しておこう。確かに漱石はニーチェを読んだ。その上でこう書いている。

今の青年は、筆を執っても、口を開いても、身を動かしても、ことごとく「自我の主張」を根本義にしている。それほど世の中は切りつめられたのである。それほど世の中は今の青年を虐待しているのである。「自我の主張」を正面から承れば、小憎らしい申し分が多い。けれども彼等をしてこの「自我の主張」をあえてして憚るところなきまでに押しつめたものは今の世間である。ことに今の経済事情である。「自我の主張」の裏には、首を縊ったり身を投げたりすると同程度に悲惨な煩悶が含まれている。ニーチェは弱い男であった。多病な人であった。また孤独な書生であった。そうしてザラツストラはかくのごとく叫んだのである。(夏目漱石『思い出すことなど』)

 ニーチェは弱い男であった。多病な人であった。また孤独な書生であった、とは意外な捉え方ではある。ただ兎に角夏目漱石にはそう見えたのである。夏目漱石にとってニーチェは心酔する対象ではなく、憐れむべき奴さんである。

彼の身の丈を見ると他の先生方よりはたしかに三寸くらいは高い。のみならず顔から髯が生えているのか髯の中に顔が同居しているのか分らない赤つらを反り返して、日盛りに破われ鐘をつくような声を出して「うめろうめろ、熱い熱い」と叫ぶ。この声とこの顔ばかりは、かの紛々と縺れ合う群衆の上に高く傑出して、その瞬間には浴場全体がこの男一人になったと思わるるほどである。超人だ。ニーチェのいわゆる超人だ。魔中の大王だ。化物の頭梁だ。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 またこのように揶揄うべき対象でもある。また、

「曲覚的かも知れないが」と今度は独仙君が口を出す。「とにかく人間に個性の自由を許せば許すほど御互の間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチェが超人なんか担ぎ出すのも全くこの窮屈のやりどころがなくなって仕方なしにあんな哲学に変形したものだね。ちょっと見るとあれがあの男の理想のように見えるが、ありゃ理想じゃない、不平さ。個性の発展した十九世紀にすくんで、隣りの人には心置なく滅多に寝返りも打てないから、大将少しやけになってあんな乱暴をかき散らしたのだね。あれを読むと壮快と云うよりむしろ気の毒になる。あの声は勇猛精進の声じゃない、どうしても怨恨痛憤の音だ。それもそのはずさ昔は一人えらい人があれば天下翕然としてその旗下にあつまるのだから、愉快なものさ。こんな愉快が事実に出てくれば何もニーチェ見たように筆と紙の力でこれを書物の上にあらわす必要がない。だからホーマーでもチェヴィ・チェーズでも同じく超人的な性格を写しても感じがまるで違うからね。陽気ださ。愉快にかいてある。愉快な事実があって、この愉快な事実を紙に写しかえたのだから、苦味はないはずだ。ニーチェの時代はそうは行かないよ。英雄なんか一人も出やしない。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 ニーチェ解釈としては「大将少しやけになってあんな乱暴をかき散らしたのだね」とは、やや極端に感じられてしまうが、実際のところ夏目漱石のニーチェ観というものはこの程度のものだろう。ドストエフスキー程度に感心するところはなく、軽く面白がって切り捨てている。
 しかしダミアン・フラナガンは『門』の参禅と、『ツァラトゥストラ』で三十男が山に登り山から下りるという冒頭の設定を強引に結びつける独自解釈をしていることから、どうしても夏目漱石に対するニーチェの影響を過大視したいようだ。

 1907年の小説「罌粟(けし)」と云われてはて何のことかと思えば、どうも『虞美人草』のことのようである。ここにもダミアン・フラナガンの「お話を作ろうとする強引さ」が現れている。『三四郎』に現れる「奴隷」とはこの場面のことを言うのであろう。

「ぼくはオルノーコという小説を読んだだけだが、小川さん、そういう名の小説が全集のうちにあったでしょう」
 三四郎はきれいに忘れている。先生にその梗概を聞いてみると、オルノーコという黒ん坊の王族が英国の船長にだまされて、奴隷に売られて、非常に難儀をする事が書いてあるのだそうだ。しかもこれは作家の実見譚だとして後世に信ぜられているという話である。
「おもしろいな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちゃあ」と与次郎はまた美禰子の方へ向かった。
「書いてもよござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」
「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でもいいじゃありませんか。九州の男で色が黒いから」
「口の悪い」と美禰子は三四郎を弁護するように言ったが、すぐあとから三四郎の方を向いて、
「書いてもよくって」と聞いた。その目を見た時に、三四郎はけさ籃をさげて、折戸からあらわれた瞬間の女を思い出した。おのずから酔った心地である。けれども酔ってすくんだ心地である。どうぞ願いますなどとはむろん言いえなかった。(夏目漱石『三四郎』)

 この「美禰子にモデルにされる」というところから生じる酔いは、少なからず受け身の感覚、「見られるという快感」を含んでいるのだと見てよいだろう。だがこれはまた、

 また椽側へ腰をかけた。かけて二分もしたかと思うと、庭木戸がすうとあいた。そうして思いもよらぬ池の女が庭の中にあらわれた。
 二方は生垣で仕切ってある。四角な庭は十坪に足りない。三四郎はこの狭い囲いの中に立った池の女を見るやいなや、たちまち悟った。――花は必ず剪って、瓶裏にながむべきものである。
 この時三四郎の腰は椽側を離れた。女は折戸を離れた。(夏目漱石『三四郎』)

 この場面とあらかじめ意識の上で重ねられていることから、「花は必ず剪って、瓶裏にながむべきものである。」という思いが、引っくり返されたこと、ながめるべきところを逆にながめられたらという転倒の快感であることを見ておかねばならないだろう。ここに強引に奴隷だのマゾヒズムなどとどぎつい言葉を持ち込む必要はない。
 ここまで書けば「俳友・正岡子規の支配に密かに反旗を翻し、文学の道を歩み始めた。」以降の強引な解釈にいちいち反論する必要もあるまい。第一奴隷になりたいのに反旗を翻すとは、ここでも逃避を冒険と見做すような訳の分からない理屈のねじれができあがっている。
 漱石と正岡子規の交際には支配も裏切りもない。漱石はわざと下手な俳句を詠んで子規に直させるようなこともすれば、英文にまで「ベリーグッド」と勝手に評価を与える子規の無茶を受け入れていた。この生涯得がたい友情の間に勝手な裏切りを捏造することは許されるべきことではない。

 どうか私の漱石論を読んで出直して欲しいものだ。





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