読み誤る漱石論者たち ダミアン・フラナガン 謎の女?
夏目漱石を偉大な作家であると認める評論家にこそ素朴な読み誤りが多いのは何故かなどと大人しいことを書くつもりはない。どれほど謙虚になろうと、これはとても素朴な読み誤りなどではないのだ。
このようにしてダミアン・フラナガンは小宮豊隆から石原千秋までを全否定することになる。しかしその漱石観は噴飯物と言わざるを得ない。
これは単なる事実誤認であるばかりか、不要な脚色である。漱石は英語教育法研究のため留学したのであり、文学的野心のために自分や他人を残酷に犠牲にしたわけではない。
このような間違った前提からは誤解しか生まれない。
他にどんな理由があるのかということも多くの人によって研究されている。留学以前の漱石の「文学」は趣味の俳句に留まり、それは半ば友人正岡子規との「交流」の意味合いも持っていた。潜在的に文学への意欲があったことは否定できない。潜在的だから見えない。漱石自身は『吾輩は猫である』という小説を書くことが出来たことに対して「ああいう時期に達していた」と必然的であったかのように述懐している。一方作家になれたことに関しては「偶然」と見做している。
さらにダミアン・フラナガンはおかしなことを言い出す。
ダミアン・フラナガンは『こころ』のKが正岡子規だと言いたげだが、それでは『こころ』を読んだことにはならない。『こころ』ではKに裏があることが仄めかされており、先生がKを裏切っただけという単純な話にはなっていない。もしKが正岡子規だとしたら、漱石はKの裏切りも書いていることになり存在しなかった「裏切りあい」が捏造されてしまうことになる。
またここで言われている謎の女性とは嫂などのことではなく、「子規と取り合いになった女性」という意味だろうか。子規と漱石の間で女の取り合いになったという話は聞かないし、そもそも漱石は子規を裏切ってもいないから、ここには無駄な詮索だけがあるように思う。漱石には子規に対する後ろめたさも見受けられない。どのような理由から彼が、『こころ』のKが子規だと思い込んでいるのかは分からないが、やはり間違った前提からは誤解しか生まれないと繰り返すしかない。
ちなみに、
……として、古くからの友人の一部が頑なに口を噤んでいるものの、漱石の女性関係はほぼ掘りつくされていると言ってよい。やはり子規と漱石の間で取り合いになった謎の女性はそもそも存在しないと見てよいだろう。
ダミアン・フラナガンによって夏目漱石の間違ったイメージが拡散されるのは残念なことだ。また子規と漱石の友情が存在しない「裏切りあい」によって涜されてしまうことには憤りさえ覚える。いや、憤りではない、この感情はやはり「こんなくだらないものが堂々と流通しているな」といういらだちと呆れだろうか。うん。そうだな憤ってはいない。「こんなくだらないものが堂々と流通しているな」とは一人、ダミアン・フラナガンだけに向けられたいらだちではない。流通には受け手も関与している。
流通させてね。
【余談】「地獄」は「地極」
ダミアン・フラナガンは宗教的な「地獄」と「買春」意味の「地獄」を混同しているが「買春」意味の「地獄」は「地極」であり、宗教的な「地獄」とは関係ない。
外国文学を研究することはかほどかように困難なことなのだとしておこう。「大森」の意味も「待合」の意味も変わっていく。日本人には夏目漱石が解るわけはないという決めつけ、慢心を捨て、謙虚に学びなおしてもらいたいものだ。
ちなみに元少年Aの『絶歌』でカマキリの古名「イボジリ」が使われますが、これは四国に残った呼び方で、沖縄出身なら「イシャトゥー」「サール」「マーミーシ」と言わないのが変。
https://www.nacsj.or.jp/shirabe/2008/07/1754/
阿片溺愛者の告白
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