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途轍もない漱石 娘が死んだら鯛が贈られてきただと?


大塚の三女が先達て病気で死んだ。僕は見舞いに鯛をやって笑われた。

 清国の菅虎雄に宛てた夏目漱石の手紙である。

 夏目漱石は大塚楠緒子の三女が死んだとき

 見舞いに鯛を贈ったらしい。

 産後の肥立ちのために鯉を送るなら解るけど、

 鯛って…。

 それに大塚楠緒子の読みが「おおつか くすおこ」ってとういうこと?

 いや、真面目な話をすると、私はまず作家の私生活などどうでもいいと思っていてこれまで作家論は書いてもモデル論には進まなかったし、『漱石のマドンナ』(河内一郎、朝日新聞出版、2009年)などという本を読もうとは思わなかった。小坂晋の「ある相聞歌」によって大塚楠緒子と夏目漱石作品の間には対応関係があるとされていること自体どうでもいいことだと考えていた。

 しかしこの「僕は見舞いに鯛をやって笑われた。」はどうでもいいことではないかもしれない。例えば『明暗』における津田の行動はいささか真面ではない。昔の女を追いかけて温泉宿に向うこと。そして清子を「反逆者」と呼ぶこと。『こころ』の先生も可笑しい。突然の立小便は可笑しい。『道草』の健三は基本的に可笑しい。『行人』の二郎は旅行し過ぎである。『それから』の代助は眼球から色を出すので可笑しい。『三四郎』の三四郎は身長が伸び縮みするので可笑しい。『坊っちゃん』の「おれ」は指を切るので可笑しい。夏目漱石はずっと頭の可笑しい人々を描いてきた。誰にでも真面ではないところがあるものだが、この「見舞いに鯛をやって笑われた。」は流石に度が過ぎてはいまいか。

 私は『それから』の代助が三千代に指輪を贈るところが真面ではないと思う。内田百閒が漱石に桃を贈るのは解る。しかし「見舞いに鯛をやって笑われた。」とはまさに稲から米ができることを知らなかった漱石の途轍もないところの表れではないのか。onenessの感覚があること、そして宇宙との感覚的つながりがあることを私はこれまで曖昧にしてきた。しかし、どうも漱石の真面ではないところは本物なのである。

 友人と結婚する相手に指輪を贈る代助と、三女が死んだ大塚楠緒子に鯛を贈る漱石は真面ではない。場合によっては刃傷沙汰になっても可笑しくないのである。自分自身の事として捉えた時、娘が死んだ日に、鯛が届けられたら、つい「くらっ」としてしまうのではなかろうか。いや、兎に角静かにしてほしい、と思うのではなかろうか。

『太陽』にある大塚婦人の戦争の新体詩を見よ。無学の老卒が一杯気分で作れる阿保陀羅経の如し。女のくせによせばいいのに。それを思うと僕の「従軍行」などはうまいものだ。(『漱石のマドンナ』河内一郎、朝日新聞出版、2009年)

 これは明治三十七年六月三日付の野村伝四宛ての手紙だ。雑誌『太陽』に載った大塚楠緒子の「進撃の歌」を批判しているようだが、どうも絡みすぎてはいまいか。まるで津田の「反逆者」清子に対する執着のようなものが見えてくる。表面的には縁談があり、断られたというだけの相手である大塚楠緒子にフォーカスしてみると、確かに江藤淳が描き出す嫂・登世との間にある優しさ・慕わしさとは全く異質の、なんとも異常な漱石が見えてくる。

進めや進め一斉に 一歩も退くな身の耻ぞ
奮闘激戦たぐひなく 旅順の海に名を挙げし
海軍士官が潔よき 悲壮の最後を思はずや
如何で劣らむ我も又 すめらみ国の陸軍ぞ
何に恐るゝ事かある 何に臆する事かある
日本男子ぞ鳴呼我は 日本男子ぞ鳴呼我は

 確かに大塚楠緒子の詩はとても褒められたものではない。しかし一々絡むほどのものではない。河内一郎は漱石が大塚楠緒子に小説の指南をし、朝日新聞への連載も斡旋しながら大塚楠緒子に読ませるように小説を書き続けていたとみる。「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」の五年後『硝子戸の中』にも確かに大塚楠緒子に言及がある。

 河内一郎は他にも大塚楠緒子作品と夏目漱石作品の間でタイトルや登場人物名の類似や一致を具体的に示しながら、大塚楠緒子の夫保治がKのモデルであり、『それから』を読んだ保治が激しい神経衰弱に襲われたのであろうと推測している。しかし繰り返すが作家の私生活やモデル論はどうでもよろしい。どうでもよろしくないのは、もしも河内一郎の目論見通りだとすると『それから』から『明暗』までの立派な小説が真面ではない神経で書かれていたかもしれないということだ。

 大塚楠緒子の家での集まりで話した漱石の話にこんなものがある。

 イギリス留学時代に客を招き、主人役になり、肉を配るとき、肉の良い部分を自分の皿にとり、客には骨の部分だけを配ったので、客はナイフもフォークも下におき、手持ち無沙汰にしている。途中で気付いたが、仕方がないのでさっさとかたづけてしまった。(『漱石のマドンナ』)

 これは笑い話だが、塩原昌之助の証言などと重ね合わせてみると案外ない話ではないように思えてくる。事実そのままかどうかは別にして、どうも漱石には真面ではないところがあるのだ。

 しかし夏目漱石作品を大塚楠緒子にばかり引き寄せて読み解くことは、登世にばかり引き寄せて読み解くこと同様くだらない。例えば大岡昇平は、

 余がこの年になるまでに見た女の数は夥しいものである。往来の中、電車の上、公園の内、音楽会、劇場、縁日、随分見たと云って宜しい。しかしこの時ほど驚ろいた事はない。この時ほど美しいと思った事はない。余は浩さんの事も忘れ、墓詣りに来た事も忘れ、きまりが悪いと云う事さえ忘れて白い顔と白いハンケチばかり眺めていた。今までは人が後ろにいようとは夢にも知らなかった女も、帰ろうとして歩き出す途端に、茫然として佇んでいる余の姿が眼に入いったものと見えて、石段の上にちょっと立ち留まった。下から眺めた余の眼と上から見下す女の視線が五間を隔てて互に行き当った時、女はすぐ下を向いた。すると飽くまで白い頬に裏から朱を溶といて流したような濃い色がむらむらと煮染にじみ出した。見るうちにそれが顔一面に広がって耳の付根まで真赤に見えた。これは気の毒な事をした。化銀杏の方へ逆戻りをしよう。いやそうすればかえって忍び足に後でもつけて来たように思われる。と云って茫然と見とれていてはなお失礼だ。死地に活を求むと云う兵法もあると云う話しだからこれは勢よく前進するにしくはない。墓場へ墓詣りをしに来たのだから別に不思議はあるまい。ただ躊躇するから怪しまれるのだ。と決心して例のステッキを取り直して、つかつかと女の方にあるき出した。すると女も俯向いたまま歩を移して石段の下で逃げるように余の袖の傍を擦りぬける。ヘリオトロープらしい香かおりがぷんとする。香が高いので、小春日に照りつけられた袷羽織あわせばおりの背中からしみ込んだような気がした。(夏目漱石『趣味の遺伝』)

 ……この工学博士の小野田の妹が大塚楠緒子だという。すると

 寂光院はこの小野田の令嬢に違ない。自分ながらかくまで機敏な才子とは今まで思わなかった。余が平生主張する趣味の遺伝と云う理論を証拠立てるに完全な例が出て来た。ロメオがジュリエットを一目見る、そうしてこの女に相違ないと先祖の経験を数十年の後に認識する。エレーンがランスロットに始めて逢う、この男だぞと思い詰める、やはり父母未生以前に受けた記憶と情緒が、長い時間を隔へだてて脳中に再現する。二十世紀の人間は散文的である。ちょっと見てすぐ惚れるような男女を捕えて軽薄と云う、小説だと云う、そんな馬鹿があるものかと云う。馬鹿でも何でも事実は曲げる訳には行かぬ、逆さにする訳にもならん。不思議な現象に逢わぬ前ならとにかく、逢うた後にも、そんな事があるものかと冷淡に看過するのは、看過するものの方が馬鹿だ。かように学問的に研究的に調べて見れば、ある程度までは二十世紀を満足せしむるに足るくらいの説明はつくのである。(夏目漱石『趣味の遺伝』)

 とあることから『薤露行』のエレーンも『三四郎』の美禰子も、なんなら『坊っちゃん』のマドンナも、つまり主人公以外の所に嫁に行きそうな女たち全部が大塚楠緒子に見えてきてしまう。『行人』の嫂も登世ではなく、大塚楠緒子のような気がしてくる。何故なら嫂の名は直、大塚楠緒子の呼び名は「なおこ」なのだ。そして例えば『虞美人草』の藤尾を漱石が「悪い女」と見做し、津田が清子を「反逆者」と呼ぶ理由が解ってしまうような気がしてくる。しかし本当にそんなことでいいのだろうか。

 外国人の『趣味の遺伝』の感想を読んでいて思ったのだが、夏目漱石は真面ではない。「余」は真面ではない。戦場に臨場する。浩さんの死を滑稽にする。乃木さんを冷笑する。これは大塚楠緒子では解けないところだ。たとえ漱石が大塚楠緒子に惚れていて、ふられた恨みもあり、その思いから三角関係を描き続けたとして、三女が死んで鯛を贈る理由にはならない。この、

大塚の三女が先達て病気で死んだ。僕は見舞いに鯛をやって笑われた。

 という途轍もない手紙と、教え子が華厳の滝に飛び込んで死んだ後、寺田寅彦に送った葉書に書かれた詩、

水の底、水の底。住まば水の底。深き契り、深く沈めて、永く住まん、君と我。
黒髮の、長き亂れ。藻屑もつれて、ゆるく漾ふ。夢ならぬ夢の命か。暗からぬ暗きあたり。
うれし水底。清き吾等に、譏り遠く憂透らず。有耶無耶の心ゆらぎて、愛の影ほの見ゆ。(夏目漱石「水底の感」)

 ……に見られる感覚はとてもモデル論では解けないものだ。『漱石のマドンナ』には十一人の女の名前が挙げられる。『道草』の御縫は日根野れん、『草枕』の那美は前田卓子、井上眼科の待合室であった女は外務省某局長の娘、『硝子戸の中』で漱石を訪ねてくる女は吉永秀、三千代は鰹節屋の御神さんだそうである。忙しいことだ。そこを掘っても何も出てこないだろう。

 鯛の件は漱石だから仕方ないかで済まされたようだ。そこを常人には計り知れぬものがあったで片付けるわけにはいかない。私はむしろ『明暗』の主人公が「津田」であり、三千代の嫁ぎ先が「平岡」であるような、少々真面ではないところ、『道草』では存命中の塩原昌之助を悪しざまに描き、『こころ』では乃木夫妻の殉死に噛みついて見せるところ、あるいは『坊っちゃん』で松山らしき場所を「不浄の地」と呼んで見せるところが真面ではない夏目漱石作品の本質なのではないかと思う。藤村操の死に「水底の感」はあまりにもそぐわない。言ってみれば突拍子もない。別の言い方をしてしまうと途轍もない。途轍もなさ、それがけして理解はされないけれども大人気である夏目漱石作品の正体なのではなかろうか。




 


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