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やがて色んなことが解らなくなる 『虞美人草』における「大森」の意味

 大岡昇平の漱石論を読みながら羨ましかったのは、大岡昇平が『それから』や『彼岸過迄』に描かれる電車や駅の位置関係に関して実地の記憶を持っていることだった。当然『それから』や『彼岸過迄』が書かれた後も電車や駅は日々変化していたので、大岡昇平の記憶は夏目漱石が見ていた電車や駅そのものではない。しかし今の新橋駅と漱石の作中の新橋の停車場が別の駅であると知識としてではなく感覚として知っていること、昔の中野がどんな様子で、小石川辺りの道がどんなただったかを知っていることは、漱石作品の読みに於いてかなり重要なことではなかろうか。

 例えば村上春樹作品『イエスタデイ』では、谷村と栗谷のデートは渋谷の映画館で始まり桜丘のイタリア料理店に徒歩で移動することになる。この距離感はグーグルマップで調べれば一時間四十八分かかることは今でも簡単に解る。日本に最初にイタリア料理専門店が出来たのは1985年頃だ。しかし桜丘にできるのはもっと後だろう。しかし谷村と栗谷のデートはそのずっと前の設定に思える。こういうことが間もなく解らなくなる。

 こういうことは『1Q84』では村上春樹さん自身の中ですでに起きてしまっている。1984年当時ワードプロセッサーは16文字程度しか表示できなかったが、川奈天吾はそれで「編集」してしまう。パソコンはマイコンと呼ばれ、インターネットもなかった。ペットボトルのお茶もない。

 それほどの事を知らぬ小野さんではない。知って依頼するのはただ破談を申し込めばそれで構わんと見限りをつけたからである。先方で苦状を云えば逃げる気である。逃げられなくても、そのうち向うから泣寝入りにせねばならぬような準備をととのえてある。小野さんは明日藤尾と大森へ遊びに行く約束がある。――大森から帰ったあとならば大抵な事が露見しても、藤尾と関係を絶つ訳には行かぬだろう。そこで井上へは約束通り物質的の補助をする。(夏目漱石『虞美人草』)

 この「大森」のニュアンスについて牧村健一郎は『旅する漱石先生 ~文豪と歩く名作の道~』(小学館、2011年)において、こう解説している。

この辺りは、かつては温泉が湧き、あやしげな旅館や料亭が何県もあった地域だったらしい。

大森や森ケ崎は男女の密会の場だった。
つまり、大森に男女が行くことは、性的な関係、当時としては結婚を前提にした行動とみなされた。(『旅する漱石先生 ~文豪と歩く名作の道~』牧村健一郎、小学館、2011年)

 このあたりの感覚そのものが今の若い人たちにはそもそも伝わらないかも知れないし、間もなく完全に解らなくなるのではなかろうか。

 大森といえば『坊っちゃん』で、

 見るところでは大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。(夏目漱石『坊っちゃん』)

 と書かれていることから「漁村」というイメージのある人と、谷崎潤一郎の『痴人の愛』の海水浴のイメージのある人が分かれるだろう。北大路魯山人は「えびは京阪が悪くて、東京の大森、横浜の本牧、東神奈川辺りで獲れる本場と称するものがいい」と書き、「あなごもいろいろ種類があって、羽田、大森に産する本場ものでなくては美味くない。」とも書く。しかし牧村健一郎が指摘するようなニュアンスを残す資料がなかなか見つからない。

 時代はかなり下るが、あえて言えば林芙美子の『「リラ」の女友達』が伝える「大森」のニュアンスがそれに近いだろうか。

 今日もまた、雀をどりの唄が、女の唇から流れて来ると、地声の大きい操が、サトミや百合子の傍で悲鳴をあげてゐる。
「こんだけの沢山の女給と云ふものが、どンなになつて行くンでせうねえ。――私、昨夜、たうとう、ホラあの男と大森へ行つちやつたのよ、笑ふ? だつて仕方がないンだもの――」
 百合子は眼を円くしてゐた。(林芙美子『「リラ」の女友達』)

 あるいは、

「さうさア、一生懸命惚れてたンだもの、私、お粒さんみたいに、お次の恋人なンて手軽にやアいかないし、操さんみたいに、やぶれかぶれで大森修業も勿体ないわ‥‥」
「大森修業か、うまいこと云ふわねえ、ぢやア、私が大森修業をしたらどうする、軽蔑するかな‥‥」
「馬鹿! あンたが大森修業してたら、私尊敬するわよ」(林芙美子『「リラ」の女友達』)

  ……といったところが示すのが『虞美人草』の「大森」だろうか。『「リラ」の女友達』が何年の作、あるいは何年の想定なのかという点は詳らかにしない。満州が出てくるので戦前ではあろうがジャズのレコードが回っているので、やはり時代が下りすぎか。

 一方大町桂月はやや違ったニュアンスの「大森」を書いている。

 關東平原は、日本國中、最も大なる平原也。隨つて東京の近郊は、箱庭的の風景なくして、所謂大陸的也。これ東京近郊の特色也。而して眺望の佳なるは、市内にては愛宕山が第一也。市外に出でては、品川の品川神社、市街と海と山野との眺望をかねたり。國府臺脚下に小利根を見下ろし、三里の平田を隔てて、東京の全市を望む。百草園後に富士、及び甲相の連山を望み、前に多摩川を隔てて、武藏野を見渡す。立川の普濟寺、偉大なる玉川の砂磧を見下ろして、遙に富士を仰ぎ、甲武の山を望む。荒幡の新富士、東村山の停車場より二十餘町にして達す、狹山の連山を見下ろし、四方に關東八州を見渡す。以上の六箇處、われ名づけて東京の六大眺望と稱す。この外、大森の八景園、池上の本門寺、道灌山、飛鳥山など、可成りの眺望あり。小利根川口の蘆花、舊神田上水流域の新緑、いづれも見るべし。小利根と荒川とに於ける白帆も、關東に於ける美觀也、否、關東平原の一特色也。東京の紳士が一夜どまりの贅澤をなさむとせば、南に大森、池上、羽田、東に向島、北にやゝ遠くはなれて大宮の氷川公園あるべし。(大町桂月『東京の近郊』)

 一夜どまりの贅澤とは上品な書き方ながら、これは色の遊びのことだろうかと思えば、どうもそうとも断じかねる。

 既に太牢の味に飽きたれど、昨夜の宿に風呂なく、料理も亦惡しかりしかば、今日は池上の鑛泉に一浴し、兼ねて午食せむと、雨江のいふに、余も同意して、川崎より汽車を下り、道に小向井の梅を見る。もとは梅園三つありしが、前年醒雪と來りし時は、二箇處となり、今年はまた一箇所となれり。入るに門なく、園に垣なく、直ちに麥畝に接するは、東京近傍の諸梅園と異なりて、風致あり。樹も亦太だ惡しからず。たゞ花未だ半開にだに及ばざりしは、いたく慊らぬ心地せり。六郷川をわたり、原村の立春梅は閑却して、新田神社の前を過ぎて、池上村に來り、鑛泉松葉館に至りて、浴し、酒し飯し、腹と共に、昨日來の望みも滿ち、醉脚蹣跚として、大森の停車場に來り、茶店に憩ふほどに、乘客非常に多く、わざ/\杉田より折り來りし梅枝、いと大なれば、或ひは汽車の中に持ちゆくこと難く、持ちゆくも、人込の爲に、あたら花を散らされては甲斐なしとて、宿の主婦の花ほしげなるを幸に、之に與へて、遂に全く花と別れぬ。その移香は、いづくまでか薫りけむ。(大町桂月『杉田の一夜』)

 これが明治三十一年の作なので、『虞美人草』の九年前、

 医者は細君の病後保養のために転地することをすすめたのです。何処か空気のいい処へ一と月ほど行っているように、―――そんな勧告があったので、夫は細君にこう云いました、『お前は始終患らってばかりいるのだから、一と月や二た月転地するよりもいっそ家中でもっと空気のいい処へ引越すことにしよう。そうかと云って、あまり遠くへ越す訳にもいかないから、大森辺へ家を持ったらどうだろう。彼処なら海も近いし、己が会社へ通うのにも都合がいいから』この意見に細君はすぐ賛成しました。あなたは御存知かどうか知りませんが、大森は大そう飲み水の悪い土地だそうですな、そうしてそのせいか伝染病が絶えないそうですな、―――殊にチブスが。―――つまりその男は災難の方が駄目だめだったので再び病気を狙い始めたのです。で、大森へ越してからは一層猛烈に生水や生物を細君に与えました。相変らず冷水浴を励行させ喫煙をすすめてもいました。それから、彼は庭を手入れして樹木を沢山に植え込み、池を掘って水溜りを拵え、又便所の位置が悪いと云ってそれを西日の当るような方角に向き変えました。これは家の中に蚊と蠅とを発生させる手段だったのです。(谷崎潤一郎『途上』)

 谷崎潤一郎の『途上』の初出が大正九年なので、『虞美人草』の十四年後、

静間  ああ、さうでせう。渥美さんは、此の御近所でしたなあ。
渥美  ええ、近所と申しましても、電車を二停留場ばかり……。しかし、まあ、お宅からのことを思へば……何でもありません。
橋本夫人  大森の方は如何で御座います。やはり、こんなに家が建ちますでせうか。
静間  わたし共の方は、もうおしまひですな。地面がありません。――あれで、池上よりの方は、まだ盛に建てるらしいですな。失礼ですが、此のお住ひは……。
橋本夫人  あの、一昨年、建てましたんですけれど、なんですか、やくざな普請で……。
静間  いや、なかなか、どうして……。渥美さんは、大森の方はお嫌ひですか。
渥美  嫌ひといふわけぢやありませんが……、向うの方は、なんとなく明くつていいとは思ふんですけれど……。八景園へもしばらく行きません。(岸田國士『賢婦人の一例(一幕)』)

これが昭和二年で、既にいがわしい不雰囲気はない。

「三界に身を置くところなしか。……行ってくるかな。……どこだろう、一番近くて一番よく海が見えるところは……。」
 品川か……大森か……羽田か……そんなことを独語しながら、彼はなおゆっくり構えこんで髯を剃り初めた。(豊島与志雄『裸木』)

 これが大正十五年、やはりいかがわしい雰囲気はない。

「僕は豫め云つて置くが、あの女もまたこれまで通りにするか、それとも矢ツ張り手を切るか、それは君にもあの女にも受け合はれないのだ。が、あいつの處分はどツちとも僕自身がすることにきめたのだ。」
「さう云はれると、――僕も――實に――心――苦しい。」加集はその背を壁にもたせて、女と義雄とをどツちにも横目で見るやうにして、「實は、もう――僕のうちへもとまつたし、大森の砂風呂へも一緒に行いたし、――」
 義雄はこれを聽いて、くわツとのぼせた。想像と推斷とでは、既に分つてゐることだが、本人の口からかう當てつけられて云はれると、あたまにのぼせて、からだがひイやりしてしまつた。そして今までのぐわん張り方が馬鹿々々しくなると同時に、この女をわれからかばふのが女にも笑ひの種になつてはすまいかと思はれた。ゆうべのありさまだツて、自分がただいい氣になつてゐたに過ぎないのかも知れず、女が加集にむごく當つたのも却つて反對の意味があつて加集が馬鹿の爲めにこれを理解し得なかつたのだとも取れ出した。
「おい、ちよツとこツちを向け!」かう、義雄はお鳥に叫んだ。が、かの女は向きも返事もしなかつた。「おれが若しお前を處分するとしても、今加集が云つた事を土臺にすれば、おれの方はずツと責任が輕くなるのだ――返事をしろ、お前の口からも事實だと!」
「‥‥」かの女は矢張り無言で、少し仰向き加減にそツぱうを見てゐるらしく、然しからだは全體に顫へてゐるのが見えた。(岩野泡鳴『泡鳴五部作
毒藥を飮む女』)

  これが大正三年、『虞美人草』の八年後、やや近いニュアンスか。

 君江は羽織をきたまま坐ったなりで、帯揚と帯留とをとり、懐中物を一ツ一ツ畳の上に抜き出しながら、矢田の顔を見てにっこりした。君江は三年前、家を飛出して、学校友達で人の妾になっていた京子の許に身を寄せ、その旦那の世話で保険会社の女事務員になって、僅わずか一、二カ月たつかたたぬ中うち、早くも課長に誘惑されて大森の待合に連れられて行った。これが実際男と戯れた初めであったが、君江はその前から京子が旦那の目をかすめていろいろな男を妾宅へ引入れるさまを目撃していたのみならず、折々は京子とその旦那との三人一ツ座敷へ寝たことさえある位で、言わば待合か芸者家の娘も同様、早くから何事をも承知しぬいていただけ、時にはなお更甚しく好奇心に駆かられる矢先。課長の誘惑をよい事にしてこれに応じたまでの事である。(永井荷風『つゆのあとさき』)

 昭和六年の作乍ら、これが一番『虞美人草』の「大森」に近いであろうか。『それから』に出てくる「赤坂の待合」とはほぼ重ねられるイメージだが、一番時代が近い記述では、

 十七年に共同競馬会社が起って、上野不忍池畔に春秋二季の催し、江戸名所不忍池の風致も馬場の木柵もくさくに囲まれ、大分問題になったが、同十一月に挙行、今の勧業協会の位置に、御殿造りの宏壮な馬見所、階上は貴賓室、発会式には行幸もあって未曾有の賑わい、初めて本格の競馬にお目にかかったが、何回目かの競馬に発起者の一人、東京馬車鉄の社長谷元道之氏も自ら出場、運わるく途中で落馬、左足に負傷したなどの珍事もあった。
 収支償わずとあって二十三、四年頃、上野は中止、以来競馬の沙汰もなかったが、三十九年の秋、馬匹改良会の後援で加納子爵が会長となり池上の大競馬場落成、初めて馬券の売出しが呼び物、賭博気分で恐ろしい人出、大森の駅を出ると無数の群衆と数百台の人力車で身動きもならぬ混雑、私も五、六人の車夫に車へ担ぎ上げられて池上まで否応なし、競馬場では馬券の外にガラの売場、十二、三の窓口に血眼の連中が押し寄せて勝敗ごとに凄い場面、これが第二期の競馬狂時代。(山本笑月『明治世相百話』)

 また別の「大森」の姿が描かれている。

 東京では今もあちこちで再開発が行われており、道路が拡張され、街並みが変わり続けている。現在で、という意味では、既に焼き肉屋にいるカップルは出来ていると見做すことさえ既に昭和の偏見になっている可能性が高い。

 『それから』の代助は歌舞伎座で佐川の令嬢に引き合わされる。いわゆるお見合いをさせられたことになる。これがお見合いであることは三島由紀夫の『春の雪』を読めばわかるはずだが、間もなく解らなくなるだろう。三島由紀夫も美智子様とお見合いしたことになっている。勿論場所は歌舞伎座である。歌舞伎座で同席し、銀座六丁目の高級料亭「井上」で食事をしたらしい。はっきりしているのは全く面識がなかった訳ではないということと、美智子さんの側でも結婚相手としては東大法学部出身の役人を望んでいたということくらいであろう。三島由紀夫自身がその噂の発信源であり、そういうしがらみがあることを決して隠そうとはしていなかった。

詳しくは ↑


 焼肉に行く、なんてことも解らなくなるかもしれない。昭和でカップルが焼肉に行くとまずできていると思われた。イタリアンなら初デートでもありだし、中華というのはそういう関係性を超越したものかと思われるが、焼肉というのはどうしようもなく男女の生なましい生活が見えるような感じがしたものだ。


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