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三島由紀夫の死、あるいはサバイバーズ・ギルトのある風景

 福田恆存の『人間とは何か』の冒頭では文芸評論家であることの矜持が語られる。曰く、小説家にもなれず学者になるほど豆でもないものが文芸評論家になるのだそうである。その福田恆存は本書において芥川龍之介の自殺を自然なことだと見做す。私はそうした作家のプレゼンスとアクティビティと作品をごっちゃにしたようなものが文芸批評であるとは思わないが、芥川龍之介が自然主義的な既成の「小説」というものに徹底的に抗しながら、好きな作家を問われれば「志賀氏」と答え、どこかで菊池寛的な小説が「残る」ことを予感し、最後まで戯作三昧を貫いたこと、そのことを作家のプレゼンスとアクティビティだとするなら、芥川龍之介の自殺は自然なことだ、と書いてみることにも意味があると考えている。

 芸術の完成は一代では成し得ないという理屈もその通りであろうと思う。今小説家はほぼ個人であり、個体であるが、例えば村上春樹の完成は川上未映子を待たねばならないと主張する人がいても強くは反対しない。私はこの川上未映子という作家の本をこれまで『みみずくは黄昏に飛びたつ』以外には読んでいなかったので、「美人作家」といういささか差別的な印象だけ持っていたが今日『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』を読んで「なんや大阪のおばちゃんやんけ」と酷く好印象を持った。川上未映子は『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』の中で三島由紀夫の言ってることもやったことも理解できないとしながら、やはり肉体と精神の分裂を見ているようだ。

 三島由紀夫の死を受けて、石原慎太郎の語った「無理してくっついていた頭と体がとうとう離れちゃった」という言葉はさして意地悪でも不謹慎でもなかろうと思う。三島由紀夫も芸術の完成は老成を待たねばならず、一方行動は「二十歳で腹を切ってもいいんだから」と相容れないものであることを認めていた。その別々のものが最後には一緒になるかもしれないが、文学は文学として、行動は行動として、一応別々にやる、両方一生懸命にやることを公言していた。「二十歳で腹を切ってもいいんだから」と言いながら『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』ということも解っていた。

「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」(夏目漱石)

 作中勉強ができない友人を評して「漱石を読むのが関の山」と嘯いていた三島由紀夫には漱石の忠告が届いていない。

 ところで三島由紀夫の死が、憂国のための死であり、サバイバーズ・ギルトの影響下の死であるように思われるのは何故だろうか。三島由紀夫は『憂国』の後、作家のプレゼンスとアクティビティと作品をごっちゃにしたようなものとしてのコスプレを始める。楯の会の制服の前に日本陸軍のコスプレでテレビ出演したこともある。『英霊の声』の前後で、二.二六事件の磯部浅一の憑依を周囲に仄めかし、スーパーナショナリストと見做されようと努力していた。その一方で「右翼たちに目にもの見せてやる」と漏らしていることから、保守であっても右翼ではないというところまでは確かであろう。

 しかし三島由紀夫の死は本当にサバイバーズ・ギルトの影響下の死だったのか、政治的な死だったのか、と改めて考えてみると、どうもはっきりしない。無論三島由紀夫の死が政治的な意味合いを持つこと自体は否定できない。三島の死後全共闘は「三島先生の死を悼む」と立て看板を出し、右翼は「本物だったのか」と反省した。学生運動は過激化し、内ゲバへと進んでいく。一方警察は機動隊を精鋭化していく。昭和天皇の「昭和天皇実録」からは昭和四十一年十一月十一日の秋の園遊会で三島由紀夫との間で交わされた言葉、そして三島の自決を受けて昭和天皇が発した言葉が省かれていると噂されている。少なくとも後者は確実にあっただろう。三島由紀夫が拵えた生首=「熱い握り飯」は昭和天皇が最も見たくないものなのではなかっただろうか。

 だから三島由紀夫は死の一週間前まで「聞けわだつみの声」なんか見ない、あんなものは嘘だと言いながら、当日は額に「七生報国」の鉢巻きを巻いた。これが政治的な死でないわけはなく、「日本のためを思ったって贔屓の引き倒し」になってしまったと見做すことはごく自然なことのように思える。しかしストーリーを辿れば、これがやはり「嘘から出た実」であることも否定できない。皇居に突入し国会を制圧できない以上自棄バチの死であり、中曾根康弘が指摘した通り『奔馬』が現実化したようなところもないではないが、それは天皇で自涜する大江健三郎の『政治少年死す』の現実化であるとも言える。

 しかし『豊饒の海』の完成のはるか前、死の一年前に三島由紀夫は帝国ホテルで自殺未遂事件を起こしており、そのかなり前から友人らには「死にたい」「腹を切りたい」と漏らしながら、森田必勝からは「先生、いつ腹を切りますか」とせっつかれていた。その一方年老いて和歌に遊ぶ未来も考えていた。その未来は安永遥に虐待される本多繁邦を描くことによって打ち消されたのかもしれないが、こうした事実を踏まえれば①精神衰弱による死②自主的ではない死、非自発的な死という側面も否めないことも確かである。

 肉体の死というものは単純なもので、「無理してくっついていた頭と体がとうとう離れちゃった」ら死ぬ。しかし頭はでかい。世界がすこんと入る。三島由紀夫の頭はでかい。これは単純化できない。三島由紀夫のプレゼンスとアクティビティと作品をごっちゃにしたところに見える三島由紀夫の死は太宰治の死よりも不自然である。それをサバイバーズ・ギルトの風景に押し込めようとすると、小さな矛盾がいくつも出てくる。「神風連小史」について『奔馬』の作中で言われるように、いくつもの矛盾を無視しなければサバイバーズ・ギルトの風景は成立しない。







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