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芥川龍之介の論理・太宰治の意地・三島由紀夫の蟹


人の悪い芥川

「お父さんは相当な皮肉やさんだったけど、私や使用人にも荒いことばで何か言ったり怒ったことはない人でした」「お父さんは普段怒らないし、やさしい人だったけれど、皮肉やさんでしたね」(芥川瑠璃子『双影 芥川龍之介と夫比呂志』)これは文の言葉である。瑠璃子は「ちょっと人の悪いところもある龍之介」と書いている。

    八 実感

 或殺人犯人の言葉。――「わたしはあいつを殺しました。あいつが幽霊に出て来るのは尤も過ぎる位尤もです。唯わたしが殺した通りの死骸になつて出て来るならば、恐ろしいことも何もありません。けれどもあいつが生きてゐる時と少しも変らない姿をして立つてゐたり何かするのが恐しいのです。ほんたうにどうせ幽霊に出るならば、死骸になつて出て来やがれば好いのに。」(芥川龍之介『貝殻』)

 私は既に芥川龍之介作品の核は「逆説」であると書いた。この『実感』では「死骸の幽霊は怖くない」という逆説が述べられている。

十一 嫉妬

「わたしはずゐぶん嫉妬深いと見えます。たとへば宿屋に泊まつた時、そこの番頭や女中たちがわたしに愛想よくお時宜をするでせう。それから又外の客が来ると、やはり前と同じやうに愛想よくお時宜をしてゐるでせう。わたしはあれを見てゐると何なんだか後から来た客に反感を持たずにはゐられないのです。」――その癖僕にかう言つた人は僕の知つてゐる人々のうちでも一番温厚な好紳士だつた。(芥川龍之介『貝殻』)

 これも逆説である。皮肉屋さん、少し人が悪い……その感じはこうした芥川の独特な論理からくるものではなかろうか。

十 或農夫の論理

 或山村の農夫が一人、隣家の牝牛を盗んだ為に三箇月の懲役に服することになつた。獄中の彼は別人のやうに神妙に一々獄則を守り、模範的囚人と呼ばれさへした。が、免役になつて帰つて来ると、もう一度同じ牝牛を盗み出した。隣家の主人は立腹し、今度も亦警察権を借りることにした。彼等の村の駐在所の巡査は早速彼を拘引した上、威丈高に彼を叱りつけた。
「貴様は性も懲りもない奴やつだな。」
 すると彼は仏頂面をしたまま、かう巡査に返事をした。
「わしはあの牛を盗んだから、三箇月も苦役をして来たのでせう。して見ればあの牛はわしのものです。それが家へ帰つて見ると、やつぱり隣の小屋にゐましたから、(尤もつとも前よりは肥つてゐました。)わしの小屋へ曳いて来ただけですよ。それがどこが悪いのです?」(芥川龍之介『貝殻』)

 なるほど理屈である。人が悪いと瑠璃子は書いているが、この皮肉は芥川が人を楽しませようとした工夫であろう。『鼻』に始まり、多くの作品が逆説を核に持っている。このことは芥川龍之介が早々と「ご卒業」されてしまい、『羅生門』が国語教科書で読まれるほかは、太宰治や夏目漱石作品ほど読まれることもなく、『藪の中』などわずかな作品しか文学研究の俎上に上がることがないことと無関係ではなかろう。『貝殻』は殆ど落とし噺である。落とし噺は落とされてしまえば面白いだけの話になってしまう。また制御された話でもある。『鼻』も逆説ながら、正宗白鳥をしてどこが面白いのか解らない話と見做された。「解らない」ことは一つの価値である。

 夏目漱石は皆迄書かないことに拘った。特にギヤチェンジしたかの如く急にレベルを上げた『三四郎』においては「徹底的に隠す事」「ちょっとやそっとでは解らないこと」「よく考えても解らないこと」「解ると言えば解るものの定かではないこと」などを使い分け、さまざまな「解らなさ」を提供している。その「解らなさ」が後に膨大な漱石論を書かせることになったのでなかろうか。

罵倒名人・太宰

 太宰治は単なる皮肉屋さんではなかった。罵倒屋さんである。芥川龍之介が嫁から皮肉屋さんとよばれ、息子の嫁から少し人が悪いと言われたのは、少しでも面白いことを言おうとしてサービスし過ぎた結果、その逆説が擦り切れ、そこに面白みが感じられなくなってしまっていたからではなかろうか。『河童』を『ガリバー旅行記』と比較することは残酷だろうか。同じ皮肉屋ながらスウィフトの風刺は単純ではない。しまいにはどちらが真面なのか解らなくなるからだ。例えば芥川は「或農夫の論理」を笑ってはいるが、信じてはいまい。これが太宰になると本当の意味で相対化されるようなところがある。

「痛かったかどうか、こっちの知ったことじゃないんです。」商人は、いよいよ勢を得て、へへんと私を嘲笑した。「そんなに痛かったら、あっさり白状して断れば、よかったんだ。」
「それが僕の弱さだ。断れなかったんだ。」
「そんなに弱くて、どうしますか。」いよいよ私を軽蔑する。「男一匹、そんなに弱くてよくこの世の中に生きて行けますね。」生意気なやつである。
「僕も、そう思うんだ。だから、これからは、要らないときには、はっきり要らないと断ろうと覚悟していたのだ。そこへ、君が来たというわけなんだ。」
「はははは、」商人は、それを聞いてひどく笑った。「そういうわけですか。なるほどねえ。」とやはり、いや味な語調である。「わかりました。おいとましましょう。こごとを聞きに来たんじゃないんだからなあ。一対一だ。そっくりかえっていることは無いんだ。」捨てぜりふを残して立ち去った。私はひそかに、ほっとした。
 ふたたび、先日の贋百姓の描写に、あれこれと加筆して行きながら、私は、市井に住むことの、むずかしさを考えた。
 隣部屋で縫物をしていた妻が、あとで出て来て、私の応対の仕方の拙劣を笑い、商人には、うんと金のある振りを見せなければ、すぐ、あんなにばかにするものだ、四円が痛かったなど、下品なことは、これから、おっしゃらないように、と言った。(太宰治『市井喧争』)

 太宰にはこの一対一の感覚があった。私は芥川を不当に貶め、太宰を持ち上げたいような下卑た太宰ファンではけしてないが、芥川には確かに選ばれし者の自覚があった。

     十五 修辞学

 東海道線の三等客車の中。大工らしい印絆纒の男が一人、江尻あたりの海を見ながら、つれの男にかう言つてゐた――「見や。浪がチンコロのやうだ。」(芥川龍之介『貝殻』)

 これが太宰なら「なんですか。修辞学、とはどんなことですか。」と急に居直って、私にからんで来たのである。
 私は恐ろしく、からだが、わくわく震えた。落ちつきを見せるために、机に頬杖をつき、笑いを無理に浮べて、
「いいえ、ね、波がチンコロって表現が修辞学的でしょう」
「大工が比喩をつかっちゃいけませんか? おかしなことを言うじゃないですか。私の顔を見て、修辞学とは、おかしなことを言うじゃないですか。」
 私も、今は笑わず、
「馬鹿にしているんじゃないよ、むしろ褒めている。君は、そんな、ものの言いかたをしちゃ、いけないよ。」
「へん。こごとを聞きに来たようなものだ。お互い、一対一じゃねえか。何比喩は文士だけのものなのかね、大工が比喩の一つを使ったって、何もお前さんに、こごとを聞かされるようなことは、ねえんだ。」

 …となる訳である。一対一だ。ツイッターでは日々一般人が名言をバズらせている。これが一対一だ。芥川はこれを大工が名言を吐いたと笑っているのである。確かに少し人が悪いと言えなくもない。皮肉屋さんと受け止められても仕方あるまい。ただし芥川龍之介は恐らく何か面白いことを書こうとしただけなのだ。それを人が悪いだの皮肉屋さんだのと括られては辛い。それは面白い筈の所を飽きられてしまっていることと同じだからだ。

 僕はだんだん河童の使ふ日常の言葉を覚えて来ました。従つて河童の風俗や習慣ものみこめるやうになつて来ました。その中でも一番不思議だつたのは河童は我々人間の真面目に思ふことを可笑しがる、同時に我々人間の可笑しがることを真面目に思ふ――かう云ふとんちんかんな習慣です。たとえば我々人間は正義とか人道とか云ふことを真面目に思ふ、しかし河童はそんなことを聞くと、腹をかかへて笑ひ出すのです。つまり彼等の滑稽と云ふ観念は我々の滑稽と云ふ観念と全然標準を異にしてゐるのでせう。(芥川龍之介『河童』)

 残念ながら、今こういう小説を持ち込めば編集者から、「うーん、もう少し捻りがないと難しいな」と渋られるのではなかろうか。初めて読んでさえ、どこかで見たような気がする単純さというものがある。『河童』にはところどころそういうものがある。『ガリバー旅行記』の様々な世界には、今でも政治問題として真面目に論じられる要素が多々ある。『家畜人ヤフー』は『ガリバー旅行記』を踏まえながら、単なる思考実験に止まらない、家畜となるユートピアが描かれる。これはもう風刺小説ではない。ある意味発見と言って良い。夏目漱石が『ガリバー旅行記』に感心し、三島由紀夫が『家畜人ヤプー』に感心したように、昔の私は確かに旧字体の筑摩日本文学大系の『河童』に感心した。しかし今青空文庫で読む『河童』には単純なところばかりが目に付く。そして芥川龍之介が多用する甲論乙駁が蒼いマスターベーションにさえ見えてくる。

三島由紀夫の蟹嫌いの原因

 そのとき将軍家は、私の気のせゐか幽かに御不快のやうに見受けられました。しばらくは何もおつしやらず、例の如く少しお背中を丸くなさつて伏目のまま、身動きもせず坐つて居られましたが、やがてお顔を、もの憂さうにお挙げになり、
学問ハオ好キデスカ
 と、ちよつと案外のお尋ねをなさいました。
「はい。」と尼御台さまは、かはつてお答へになりました。「このごろは神妙のやうでございます。」
無理カモ知レマセヌガ
 とまた、うつむいて、低く呟くやうにおつしやつて、
ソレダケガ生キル道デス(太宰治『右大臣実朝』)

 この『右大臣実朝』については、


①大変な時機に苦労して書かれた珍しい長編であること

②作中にある歌が実朝自身のものであり、実朝を悪く言う歌人、評論家が殆ど現れないこと。(芭蕉、子規、斎藤茂吉、小林秀雄、吉本隆明らが激賞している。この面子に喧嘩を売ることができるのは…)

 ……から「真に受けた」真面目な評論ばかりしか見つからない。つまり三島由紀夫が定家卿に憧れたように、太宰治の憧れは源実朝にあったのだという角度からの評論ばかりが見付かるのである。実朝はイエス・キリストだとまで書いている人がいる。その傍証として『鉄面皮』で実朝と太宰が引き寄せられることが指摘される。『鉄面皮』の結びは『右大臣実朝』の引用箇所そのままである。その手前にこのような太宰が描かれる。

「今夜は、ひどく黙り込んでいらっしゃるのね。」
勉強するよ、僕は。」落下傘で降下して、草原にすとんと着く、しいんとしている。自分ひとり。さすがの勇士たちもこの時は淋しいそうだ。新聞の座談会で勇士のひとりがそう言っていた。そのような謂わば古井戸の底の孤独感を私もその夜、五合の酒を飲みながらしみじみ味った事である。操作きわめて拙劣の、小心翼々の三十五歳の老兵が、分会の模範としてほめられた事は、いかにも、なんとしても心苦しく、さすがの鉄面皮も、話ここに至っては、筆を投じて顔を覆わざるを得ないではないか。(太宰治『鉄面皮』)

 私の意見はこうである。『金槐和歌集』をつぶさに眺めれれば、実朝の歌には平凡なものと風変わりなものがあり、太宰はいずれも風変わりなものを拾っている。太宰は実朝に心酔していた訳ではなく、面白いと思い、その面白さを書いたのだと。その証拠は『津軽』に繋がる蟹のプロットにある。

 禅師さまは、ざぶざぶ海へはひつて行かれて唐船の船腹をおさぐりになつたので、私もそれに続いて海へはひつて禅師さまのなさるとほりに船腹をさぐつてみると、いかにも蟹が集つてゐる様子で、禅師さまは馴れた手つきで大きい蟹を一匹ひきずり出すが早いか船板にぐしやりとたたきつけて、砂浜へはふり上げ、あまりの無慈悲に私は思はず顔をそむけました。(太宰治『右大臣実朝』)

 三島由紀夫は蟹嫌いを公言していた。ただ正確に言えば「蟹の味」ではなく「蟹」という字が嫌いだったのである。私は何の根拠もなく三島由紀夫を蟹嫌いにしたのは『右大臣実朝』と『津軽』だと確信している。『津軽』には「蟹」の字が83回現れる。

「それでは私がひとりで食べる。私は蟹が好きなんだ。どうしてだか、ひどく好きなんだ。」おつしやりながら、器用に甲羅をむいてむしやむしや食べはじめて、ほとんど蟹に夢中になつていらつしやるやうに見えながら、ふいと、「死なうかと思つてゐるんだ。」(太宰治『右大臣実朝』)

 三島由紀夫と因縁づけて読むと、この箇所は妙に可笑しい。三島由紀夫が蟹嫌いを思いついたのが太宰由来だと思い込みたくもなる。それはともかく、もしも太宰が実朝に心酔していたのではなく、面白がっていたとしたのなら、これは大した意地ではなかろうか。

太宰の意地

蕗の芽とりに行燈ゆりけす
 芭蕉がそれに続けた。これも、ほんのおつき合い。長き脇指に、そっぽを向いて勝手に作っている。こうでもしなければ、作り様が無かったろう。とにかく、長き脇指には驚愕した。「行燈ゆりけす」という描写は流石である。長き脇指を静かに消してしまった。まず、まずどうにか長き脇指の仕末がついて、ほっとした途端に、去来先生、またまた第三の巨弾を放った。曰く、
道心のおこりは花のつぼむ時
 立派なものだ。もっともな句である。しかし、ちっとも面白くない。先日、或る中年のまじめな男が、私に自作の俳句を見せて、その中に「月清し、いたづら者の鏡かな」というのがあって、それには「法の心を」という前書が附いていた。実に、どうにも名句である。私は一語の感想も、さしはさむ事が出来なかった。立派な句には、ただ、恐れ入るばかりである。凡兆も流石に不機嫌になった。冷酷な表情になって、
能登の七尾の冬は住憂き
 と附けた。まったく去来を相手にせず、ぴしゃりと心の扉を閉ざしてしまった。多少怒っている。カチンと堅い句だ。石ころみたいな句である。旋律なく修辞のみ。
魚の骨しはぶるまでの老を見て
 芭蕉がそれに続ける。いよいよ黒っぽくなった。一座の空気が陰鬱にさえなった。芭蕉も不機嫌、理窟っぽくさえなって来た。どうも気持がはずまない。あきらかに去来の「道心のおこりは」の罪である。去来も、つまらないことをしたものだ。(太宰治『天狗』)

 太宰の批評眼はここでは云々すまい。夏目漱石を「俗中の俗」と断じたのは太宰だ。だが誰に対しても遠慮がない事だけを確認しておこう。太宰は憧れの芥川龍之介にも遠慮しない。


老イヌレバ年ノ暮ユクタビゴトニ我身ヒトツト思ホユル哉
 その頃もう、こんな和歌さへおつくりになつて居られたくらゐで、お生れつきとは言へ、私たちには、ただ不思議と申し上げるより他に術がございませんでした。お歌の事に就いては、また後でいろいろとお知らせしなければならぬ事もございますが、十三、四歳の頃からもうあのお方は、新古今集などお読みになり、さうして御自身も少しづつ和歌をお作りになられて、その十七歳の頃には、もう御指南のお方たち以上の立派なお歌人におなりになつて居られたのでございます。(太宰治『右大臣実朝』)

 普通の人が書けばこれは手放しで褒めていると受け取っていい書き方ではあるが、私にはどうも太宰が実朝をからかっているようにしか読めない。これはどう考えても一旦にぎやかな人間関係を経て、それが失われた者が詠んでこそ意味がある歌である。そうでなければ嘘である。十七歳の少年が懐かしむ昔などなかろう。あったとして大人から見ればそれは滑稽なものだ。(それに新古今和歌集が出来上がるのは1216年,1192年生まれの源実朝が十三歳になるのは1205年、計算が合わない。これはわざわざ古今和歌集と間違えたのだろう。ほかの歌も精査するとおかしなところがたくさんある。)

 この太宰の意地があってこそ太宰作品は今でも大人の鑑賞に堪えうるものとして読み継がれているのではなかろうか。芥川が大人の鑑賞に堪えないというのではけしてない。大人にこそ切実に響く『トロッコ』のような傑作もある。『トロッコ』は大人が少年時代を回顧する作品である。しかし大人の前にも「あの時と同じ」不安がある。大人だからこそ響く作品である。その辺りについては、

大人になってから読むとしみじみとした良い作品です。あの若さでこんな作品を書いたことが信じられません。芥川と云えば蒼くて脆くて弱いイメージがありますが、それだけではなく「とりかえしのつかなさ」を際どく切り取る見識のようなものも感じます。この果てしなく不可識な世界の前では、私たちはいつまでも子供でしかないと思い知らされます。

 ……という感想をひとまず置いておく。

  




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