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「ふーん」の近代文学23 この感覚は何なのだろうか

 ツイッターでは「Soseki Natsumeで検索」がデフォルトになっているので、毎日「Soseki Natsume」に関するつぶやきを目にする。そしてたじろぐ。

日本文学は好きですか?どの著者を指しますか? 「私は自分が少ししか知らないことがとても好きです!」古典から現代まで、私が最も読んだ本を示します。太宰治、川端康成、谷崎潤一郎、夏目漱石、村田沙耶香、

 ブックマークしていなかったので今は見つからないが、村田沙也加の代わりに川上未映子が現れることもある。

 これはなんというか、

 たじろぐ。

 つまり大江健三郎も開高健も、後藤明生や黒井千次、古井由吉は勿論、例えば安岡章太郎、吉行淳之、小島信夫、庄野潤三、曽野綾子、三浦朱門、遠藤周作と言った第三の新人らがすっ飛ばされて、夏目漱石と村田沙也加が並んでいる訳だ。

 それは高橋三千綱や中沢けいが飛ばされているという問題でもなく、高橋和巳や松本清張が飛ばされているという問題でもない。火野葦平や石川達三が赤坂真理と並べられる違和感のようなものだ。

 無論ツイッターというのは恐るべきもので、なおかつ世界は広いので、たまには「夏目漱石は日本のディケンズと呼ばれているそうです。私はディケンズを知らないので今度調べてみたいと思います」というような、どこから手をつけたらいいのか解らないとんでもない角度からのつぶやきもあるのでそう深刻ぶる話ではないが、川端康成以降の日本文学はしばらく鎖国でもしていたかのような状況にあることは間違いない。

 世界から「ふーん」されてきたのだ。

 何だか死屍累々という感じがする。

 まあしかし、三島由紀夫に「ふーん」されなかった作家は幸福であろうか。

 庄司薫氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」と田久保英夫氏の「深い河」の二作に賞が与へられたことは、私にとつては勿怪の幸ひであつた。私はこの二作の間で非常に迷つてゐたからである。
「赤頭巾……」はケストナーの「フェビアン」を想起させる、或る時代の境目に生まれた若者の、いろいろな時代病の間をうろうろして、どの時代病にも染まらない、といふところに、正に自分の病気を見出し、しかもそれが病名不詳で、どう弁解してみても説明してみても、医者にもわかつてもらへない病気の症状、現代の時世粧をアイロカルに駆使しながら、「不安定なスイートネス」の裡に表現した才気あふれる作品だと思ふ。目のはしのよく利く、物の裏もよくわかる、自己諷刺の能力もある、それで病身なら人の同情も呼べようが、誰も同情してくれない健康な若さ。……この困つたものを、困つた風に饒舌体で書きつらねながら、女医の乳房を見るところや、教育ママに路上でつかなるところなどは、甚だ巧い。  

(『才気と的確さ—芥川賞選評』『決定版 三島由紀夫全集 30巻』新潮社 2004年)

 お解りだろうか。ただべた褒めしているだけではない。

 これはあの文体の人、三島由紀夫がちょっと相当にのりのりで、薫くん節というか、饒舌体というか、どこに辿り着くのか解らないいわゆるストロークの長い文章を真似してサービスしているんじゃないかって感じがする選評なんだ。

 これは「ふーん」ではない。

 そして「ふーん」される人もいる。

 ほかに後藤明生の「笑い地獄」のゴースト・ライターの幽霊から怨念への転化、又、奥野忠昭氏「煙へ飛翔」の、描かれない不在の子供の実在感も印象に残った。

(『才気と的確さ—芥川賞選評』『決定版 三島由紀夫全集 30巻』新潮社 2004年)

 こうして後藤明生は四回目の芥川賞候補となり、選に漏れ、審査委員に老眼鏡でも贈ろうかと思うことになる。当時の審査委員は七十代が三人、六十代が七人、一番年が近い中村光夫が五十八歳、三島由紀夫は四十四歳だった。後藤明生が老眼鏡を贈りたかった相手はまさに三島由紀夫だろう。(ほかの委員は既に老眼鏡を持っていただろう。)

 そしてこの時黒井千次は二度目の芥川賞候補であったが完全に「ふーん」された。

 その前回の選評は引用するまでもない。「文学精神の低さ」という題で、黒井千次の「穴と空」、後藤明生の「私的生活」が落選している。「穴と空」には言及があるが「私的生活」には一言もない。

 結局文学なんて「ふーん」されるものだとして、三島由紀夫がのりのりでサービスしてくれただけで猛烈なんじゃない?


[余談]

 芥川賞候補作の選評はここで見られる。

 大抵はピンとはずれて詰まらないものが多い。ノリノリなんて本当に珍しい。

なんやそれ。

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