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私が臨死体験で遭遇した世界の真実 #スピリチュアル

 私は15歳か16歳の時、自殺をしようと試みました。走る車の前に飛び出し、死のうとしたのです。
 ちょうどその年頃の時は希死念慮に苛まれており、一切皆苦な世に嫌気がさしていました。ですが、その行為に至る直前まで、死のうと考えていたわけではありません。
 バイト帰り、こちら側へ向かって走る車を見たら、吸い込まれるように飛び出してしまったのです。

 最初に申し上げておくと、私は幽霊の存在を信じていません。
 車にはねられた後、車道の真ん中で倒れる自分を、斜め上から見ていました。
 「幽体離脱してる!」
 吞気なことを思っていると、どこからともなく、男とも女ともわからない声で、それはまるで脳内に直接語り掛けてくるように、「神はいる」という言葉が聞こえました。
 その直後、視界に現れた眩い光のトンネルに吸い込まれ、真っ白な世界に包まれました。高揚感と愛で満たされた、神秘的な感覚でした。
 純白の空間で、私は神と一体化したのです。
 「神様はいたんだ。これからは神様を信じて生きよう」
 そう思ったのも束の間、体に意識が戻っていました。何故だかわかりませんが、涙がしばらく止まりませんでした。

 救急車で病院に運ばれ、廊下を担架で通っている時、まだ泣いている私を心配してくれた看護師の女性が、私の手を握りました。その瞬間、「愛の為に生きよ」という声が聞こえました。
 「神はいる」は自分でも不思議なくらい素直に受け止められ、有神論者になれました。ですが、「愛の為に生きる」という事がどういう事なのか、それを理解するのに数年かかりました。いや、未だに解っていないと言えるかもしれません。
 それは、気軽に解けない難題だからです。

 神様を信じるようになった事で、「蕎麦職人にならないか」という話が私に回ってきました。親戚の蕎麦協会の会長からです。
 これがどうして神様に繋がるのかというと、私は神社の境内にある蕎麦屋で修業する事になったからです。
 神様の傍で仕事出来るようになったのは、神様の計らいに違いない。私はそう固く信じています。
 そこでは、参拝客に宗教的な話をするようになっていました。

 神様を信じるようになってから、自分の体験が何だったのか、詳しく知りたくなりました。宗教本を何冊も読み漁り、インターネットでも検索しまくり、市内の神社仏閣を殆ど回りました。
 そして、私の体験は不二一元論の梵我一如だったと、理解するようになりました。
 さらに臨死体験についてググってみると、私に近い体験をしている人が国内外にいると知りました。そして、私のような無神論者だった者でも、神秘体験を経てスピリチュアルの世界へ飛び込む人は多いようです。
 あの時の体験は、目覚めだったのだとわかりました。そして、神様を信じた瞬間に涙が溢れ出たのは、神の愛に包まれて感動したからだと、今になって思います。

 私の妻は、女神の化身なのだと思います。
 「愛の為に生きよ」
 この言葉だけはずっと理解出来ずにいました。
 修業を終えて、フランチャイズ事業の会社へ転職した時、後に妻となる女性に出逢いました。
 妻を初めて見た瞬間、私はこの人と結婚すると、何故か確信したのを覚えています。女性と手を繋いだ事すらなかったのにも関わらず。
 今になって思うのは、妻と出逢う事すら、神様に定められた運命だったのです。
 私は妻と交際するようになってから、心の底から幸せを感じたのを、昨日の事のように覚えています。
 死を決意するくらい苦しんでいた人間とは思えないほど、至福を感じました。
 そして、理解したのです。愛こそが幸せであると。

 現在は結婚して子供を授かり、子育てに奮闘にしています。簡単な日は一日としてありません。
 毎日、愛の為に生きています。
 神様があの時言ったのは、この日常の事なのだと、今こうして文章を書きながら理解しました。
 神様のお告げを理解させる為に現れたのが、妻なのかもしれません。だから、妻は女神の化身なんだと思います。

 「愛の為に生きよ」
 この言葉を、今度は私が言う番なんだと思います。これを使命だと感じています。
 私は何故か幼い頃から、文章を書きたい衝動に駆られる事があります。それはまるで、ハイパーグラフィアのように。
 私は誰かに、何かを伝えたい。
 ぼんやりとしたその想いが具体的になってきたのは、メメント・モリやカルペ・ディエムといった格言を知るようになってからです。
 自殺が未遂に終わってから、「別に無理して今日死ぬ必要ねえよな」と思うようになったのです。
 自ら死を選ばなくとも、人はいつか死ぬもの。そんな当たり前の事を、ようやくわかりました。
 そして、こうも思うようになったのです。
 「今日は死ぬのに相応しい日なのか?」
 自殺未遂をした日は、退屈なアルバイトをしていた帰り。あの時死んでいたら、私の人生は何だったんでしょうか。とてもつまらない人生で終わりだったんです。
 それから、『死』について考えるようになりました。
 人間は、災害や事故などで、いつ死ぬかわからない人生を歩んでいます。だからこそ、今日死んでも後悔しないような生き方をしたいと思うようになりました。
 どうしたら後悔しないか。どう生きたら、満足な生涯だったと言えるか。答えは、幸せな一日を過ごす事。
 そして、幸福とは何か。それは、愛である。
 これが、私の出した結論です。

 『愛』は、私にとって、家族です。自分と妻子の為に生きる事が至福です。その事を理解して幸福に至れたのだから、この幸せを共有したいと思います。
 私が執筆の衝動に駆られるのは、自分の神秘体験から学んだ事を人々に伝える為なんだと思うんです。だから、最後に言わせてもらいます。
 もし、生きる事に悩んでいる人がいるのなら、この言葉を届けましょう。
 「今日死んでもいいように、愛の為に生きよう」

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