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英米派に支配される日本

英米派の天皇


10月31日の「国民民主に「鳩山」がいる理由」という記事で触れた、『近衛文麿 野望と挫折』(林千勝)という本、やっと読み終えた。

『近衛文麿 野望と挫折』(2017、ワック)


図書館で予約して、私のもとに届くのに1年かかったうえ、読み終わるのに時間がかかった。

昔は、1日に3冊ペースで本を読んでいたのに。

今は、1冊の本を読むのに、10日かかる。

歳をとって、頭がノロくなり、目が弱くなっているから。

それに、読んだ先からどんどん忘れる。


結局、本書の「近衛は自殺したのではない!」の部分は、肩すかしだったな。

保身のカタマリで、自分の命がいちばん大事だった近衛文麿が、自殺するはずがない。

自殺の時の、周囲の証言も食いちがう。

誰かに無理やり毒を注射されて、殺されたのだろう。

ーーというのだけど、べつに確かな証拠の提示はない。ただの推測です。


ただ、読んで思ったのは、重要なのは、

「近衛は昭和天皇に引導を渡された」

らしい、ということですね。


近衛は、昭和天皇に見捨てられたんでしょう。

戦後も天皇制が存続するなら、藤原家筆頭、天皇第一の臣下である自分も安泰にちがいない、と近衛は楽観していた。

でも、昭和天皇は、アメリカに対して、自分を守ってくれる気がない、東京裁判に引き渡される、と分かって、絶望した。


その意味で、近衛は間接的に昭和天皇に「殺された」のであって、それが自殺だったか、他殺だったかは、むしろ瑣末事だと感じます。

それが、本書を読んで、自然にみちびかれる結論だと思います。

著者は、右派だから、はっきり書いていないけど。


昭和天皇は英米派ですからね。

英米との戦争に日本を引きずり込んだ近衛を、許さなかった。


それに、近衛は、敗戦の責任を取って昭和天皇に退位させることを考えていた。

昔の法皇みたいに、どっかの寺の門跡として、余生を過ごしてもらおうと思っていた。

それを察知した昭和天皇は、退位も嫌だったろうけど、どっかの寺に閉じ込められて生きるなんて、まっぴらだったでしょう。

若い頃から、英米流の生活に慣れた人だったからね。


近衛は、天皇をうまく操っているつもりだったが、天皇の方が一枚上手だった。

なお、近衛文麿の長男、近衛文隆は、戦後シベリアに抑留され、鳩山一郎の日ソ国交回復で帰国のめどがたったところで「病死」しましたが、これも「殺された」感が強いですね。


戦中の上級国民


本書で印象的なのは、以下のような部分です。

上級国民は、戦中も優雅に暮らしていた、という話。


 戦後、自分は軍部に反対し平和主義者であったとか、自由主義者であったとかと自任する人々は、たいてい戦争中は軽井沢や箱根などの別荘あるいは疎開先で悠々自適にまったく戦争の圏外で過ごしていました。スイスの公使があらためてアメリカに軽井沢を爆撃しないように頼んだという話もあります。
(『近衛文麿 野望と挫折』p243)

(軽井沢の別荘で過ごした)近衛は国民大衆が命をすてて財を失いつつも土地に踏みとどまり、職場を死守している姿をどのようにながめていたのでしょうか。冷ややかな目でながめていたのでしょうか。

 鳩山一郎も前外相の東郷茂徳もともに軽井沢です。松本重治は昭和十八年から病気で鎌倉で療養していたとされています。鎌倉も空襲を受けていません。松本も昭和二十年七月には軽井沢に移ります。風見(章)は早々に茨城県の水海道で悠々自適の生活にはいっています。

 昭和十五年ごろから十九年の春ごろまで風見は六本木にある東京一のうなぎの店に頻繁にでかけ、近衛や有馬(頼寧)とともにうなぎを食べています。十八年から二十年にかけて、風見はこの店で近衛、白洲(次郎)、牛場(信彦)、岸(道三)とさかんに会っています。西園寺公一も招かれています。筆者はとくにうなぎに恨みがあるわけではありませんが、象徴的なので書きました。
(同書p245)


それを言うなら、この著者は書いていませんが、皇居周辺も空襲にあっていません。

国民が英米と戦わされている間も、上級国民たちは、敗戦は既定のこととして、戦後の出番を待ちつつ、優雅に暮らしていました。

とくに「英米派」はそうです。

吉田茂とともに、その代表格の白洲次郎は、アメリカ側の情報に通じていたことは本書の中にも出てきます。

その白洲次郎が、わが柿生の隣町の鶴川に住んでくれていたおかげで、鶴川も柿生も空襲にあわずに済みました(柿生には、離宮=つまり天皇の疎開先=を建てる計画もありました)。


あと、本書で初めて知った事実は、吉田茂の養父、吉田健三が、東京日日新聞(現・毎日新聞)の経営に参画していたということです。


(吉田)健三は、幕末イギリス軍艦で密航し、二年前イギリスで西洋の新知識を習得しました。明治元年に帰国。ウィリアム・ケズウィックが率いるジャーディン・マセソン商会横浜支店(「英一番館」)の支店長に就任し、日本政府を相手に軍艦、武器そして生糸の売買でめざましい業績をあげました。退社後は実業家として独立し、東京日日新聞の経営に参画したり、醤油醸造や電灯事業などで活躍して横浜有数の富豪となりました。

 健三は自由民権運動と国会開設運動の牙城であった東京日日新聞への経営参画をつうじ、板垣退助、後藤象二郎、竹内綱ら自由党の有力メンバーと関係を深め、同党を経済的に支援しました。とくに竹内とは昵懇になり、竹内が保安条例によって東京を追放されたときには、横浜の吉田邸を住まいに供します。

 健三は、昭和十四年に竹内の五男「茂」を養嗣子としました。これが吉田茂です。

(同書p124)


東京日日新聞が「自由民権運動の牙城」というのはやや違和感があります。東京日日は、初期にはたしかに他の新聞同様、反政府的でしたが、のちに伊藤博文に近づき、「御用新聞」となるからです。

とはいえ、吉田茂と毎日新聞のあいだにそんな因縁があるのは知りませんでした。


ともあれ、吉田茂、白洲次郎、松本重治、牛場信彦ら、戦後を支配した英米派は、もとを辿ればみんな、英米の資本家と結びつき、明治期に莫大な富をたくわえた一族だ、というのも重要です。


「お公家さん」の行動パターン


あと、本書を読んで、近衛文麿のような、公家・貴族の行動様式が、よくわかりました。

彼らは、自分で武器をもって戦わない代わりに、周りの人間たちを操り、権謀術数で、生き残ろうとする。

戦いがどう転んでもいいように、つねに複数のシナリオを持って、自分だけは生き残ろうとする。


保身のバケモノ、というべきですが、その究極は、やはり天皇でしょう。

天皇家は1500年だか、2000年だか、長く続いているのは、たいしたものです。

でも、それが「自然に」続いたわけは、もちろんない。

皇族の血筋だけが持つ、おのずから香りたつ高貴さに、みんな平伏して、それで続いてきた、なんて話は信じられません。

皇族自身が主体となって、陰謀と権謀術数のかぎりを尽くして生き延びてきたはずです。

「日本史」を学んでいて、虚しいのは、その核心であるはずの天皇家の動きが、ブラックボックスになっていることですね。だから、歴史の究極的な真実がわからない。


「自虐史観」への疑問


最近、西尾幹二さんが亡くなったけど。

西尾さんの「GHQ焚書」の研究は画期的で、私も記事で取り上げました。

「自虐史観」への反省をうながしたことも、もちろん重要です。


でも、「自虐史観」という言葉を聞くたび、モヤモヤします。

自虐史観というけど、決して「日本否定」ではない。

アメリカが流したのは、「日本軍否定」の史観であって、天皇についてはむしろもち上げている。「天皇もち上げ史観」でもある。

天皇は、平和主義者だったけど、英米を敵視する愚かな軍隊に脅された、ということになっている。

「軍隊下げ、天皇上げ」史観、ですね。

その意味では、昭和天皇に戦争責任はなかったと力説する、一見保守派の保坂正康みたいなのが、いちばんGHQの影響を受けていると私は思っています。

あるいは「英米アゲアゲ史観」ですよ。

古代・中世の日本が「仏教アゲアゲ史観」だったように、戦後は「英米アゲアゲ史観」。

なぜなら、天皇が英米ファンだから。

こうなることを、近衛文麿も予見できなかったんだと思う。


昭和天皇以降、平成の天皇も、現天皇も、英米派ですね。

国民の立場からは、皇族が英米流で、リベラルなのは、ありがたいことだとも言えます。


日米で英連邦入り?


いま、アメリカは大統領選真っ最中ですが、トランプが勝とうが、ハリスが勝とうが、

「英米とだけは喧嘩しないように」

と、天皇陛下は、麻生太郎(吉田茂の孫)あたりに厳しく言いつけられていると思う。


面白かったのは、イギリス人が、大統領選中のアメリカ人に「イギリス連邦に復帰しなさい」と呼びかけていることです。

チャールズ国王のもとで、再び合体しよう、と。


Make America Great Briten again.


もちろん(トランプのスローガンをもじった)冗談でしょうが、無駄に民主主義なもんだから、国が分断するのに疲れたアメリカ人のなかにも、賛同者がいるかもしれない。


アメリカの51番目の州になるのは嫌だ、なんて日本の保守派は言ってますけど。

でも、日本も、アメリカも、イギリスのコモンウェルス(イギリス連邦)に入り、ひとつになろうと提案すれば、案外、皇室の方も賛成してくれたりして。



<参考>


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