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空白の10年、これからは自分のために生きる ②

前の記事の続きですが、私は正直に言うとやりたくもない事や興味のないことを仕事にしてきました。
それでもやり始めると夢中になって、できる限りのことを学んで次に繋げたいと120%で取り組んできました。
そのうちにその仕事が好きになっていき、職場の人たちとも仲良くなり、居心地が良くなり、ずっとこのままここでこの仕事を続けたいと思うようになります。

でも私はもっと稼がなければいけませんでした。
失った10年分を取り戻さなければいけませんでした。
人の倍、3倍、4倍と稼がなければいけませんでした。

日本では長年同じ業種で特殊な職業に就いていて、アメリカではその職種に就こうと思うと違った業種で市民権が必要でした。
それかそれに関連する学位が必要でした。
日本ではその学位が必要ではなかったため、私の専攻と職種は全く関連していません。

そのため日本での経験やスキル、知識を生かして働くというのは難しかったのです。

このような事情から私は一切関係のない他の職種に就き、アメリカ生活、仕事、人間関係を全てゼロからスタートしたのでした。

生きていくことに必死だったこの3年。

頑張れば評価してくれるのがアメリカだと実感したは、お給料の目標額に3年で追いつけたことです。
10年はかかると思っていましたが、2回目の転職で未経験でしたが一気にお給料は上がりました。
そしてそれと同時にあの有名な、、アメリカでは誰もが一度は経験するというレイオフにもあいました。

私が入社した時はアメリカ全体でレイオフが既に始まっていた時期で、私が入った会社も既にレイオフを始めていました。
私がレイオフを言い渡された時、社員数は入社時の半分以下になっていました。

あのレイオフで私の人生計画が大きく変わり、今でもダメージを引きずっていますが、、レイオフは基本的に新しい人から切っていくと言われていますが今思えばよく私を雇い続けてくれたと思います。

そもそもあの経営状態でよくあのポジションに未経験の私をおいたなとも思いますが、目にみえる成果を出すとすぐに研修は終了しお給料も急に上がりポジションも上げてくれました。

そして嬉しくてもっと他にできることはないかと、素人が素人の目線で探すのですがやはり素人は素人で、、それ以上のことをしたければ経験のある他部署と関わる必要が出てきたりします。
でもその他部署が全くやる気がなく、話が全く進まず、社内全体にやる気が感じられませんでした。

あの負の空気の中にいてもあれ以上の成長はなかったかもしれないので、今となってはあれはあれで運命だったのだと思うようにしています。

このようにして私は突っ走ってきましたが、このレイオフの後とても苦しみました。
突然収入が途絶え、始めてしまった私の10年計画のために毎月支払わなければいけないものがありました。

正直に言うと、あの時全てを諦めて帰国したかったです。
子供も諦めてDV夫に託して、ただただ必死だった3年を全て捨てて一人で帰国したかったです。

その会社に入社してすぐから、ずっと体調が悪くなぜかよく吐いたりめまいで運転できなかったりと言うことが頻繁にありました。
何度か救急病院にも行き、最後はコロナ感染で42度の熱が1週間続き、普段は誰にも頼らない私が片道2時間の遠方に住んでいる友達に、私の解熱剤と子供の食事を買ってきてくれるように頼んだほどでした。

私の体や心がもう無理だと悲鳴をあげていたのだと思います。
もうやめてくれと、言っていたのでしょう。

結局自分を大切にしなければ、人生はうまくいかないのではないか?とこの時思うようになりました。
無理をして家を買ったとしても、その後体を壊して亡くなってしまっては何のためだったのか?
私が私を大切にしなくて誰が私を大切にしてくれるのか?
私と一生付き合っていくのは私です、きっと私だけでしょう。
もしかしたら寂しい考え方だと言われるかもしれないけど、私を信頼できるのは私だけでしょう。

自分を大切にして、このセリフはよく聞きますが、私はこの時自分自身の体験を持ってこの言葉の意味を理解しました。

カルマというか、自分でしたことは自分に返ってくるのです。

自分が自分のために生きるということはとても誇らしいことだとやっとわかった気がしました。



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