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最期を支える人々  −母余命2ヶ月の日々−

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記事一覧

2015.5.13 「返すことを目標にしようね」

 骨密度が実年齢より若いことを自慢にしていた母が、ささいなことで骨折したのが1月。処方された薬を飲むとつわりを思い出すと言って、げっそり痩せた様子を見せたのが4月。低血糖で倒れた父を抱き起こして、首がむち打ちになったと訴えたゴールデンウィーク。

 いま思えば、すべてが異常で、すべてが病気の兆候を示していた。けれど私は、母が通っていた整形外科医の診断と母の自己分析を鵜呑みにした。疑問を感じることも

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2015.5.15「使わないかもしれないけれど」

 介護ベッドを借りたのは良いきっかけだった。すぐに返すのだから(と当時は思っていた)介護保険を使わず、費用全額を自己負担しても良かった。だが、サービスを利用することを良しとしない母が、介護保険利用を受け入れる貴重な機会だと思った。

 その2年前、母は障がいを持つ叔母を引き取った。母が同居すると決めたとき、私は「必ず外部のサービスを使って。一人で抱えたら絶対続かない。」と強く言った。2ヶ月後に行政

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2015.5.20「頼んでもいいのよね?」

 ケアマネジャーとの面談後、最初に取り入れたのは、お弁当の宅配サービスだった。母の代わりに買い物や作り置きをしたが、毎食の準備も負担になったのだろう。糖尿病の父や拘りの強い叔母に配慮した献立がそれぞれ必要な上に、外食やコンビニを利用するといった融通が効かない家族だというのも苦労の一因だった。

 ケアマネジャーが届けて下さった幾つかの宅配弁当業者のパンフレットをめくると、カロリーやタンパク量、咀嚼

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2015.5.5 「元気になったら」

 子供の頃から、母の日には何かしらプレゼントを用意した。お小遣いで買えるだけの数本のカーネーション。庭で季節を楽しんでほしいから赤く紅葉する木の苗。お料理上手だから新しい包丁。小銭が取り出しやすいお財布。毎年あれこれと悩んでいたのは、今思えば、母の毎日が楽しくなるようにと思っていたのだった。

 この年は、どこへでも歩いて行く健脚自慢の母に、雨の日の買い物が楽しくなるようなレインコートを選んだ。母

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2015.6.3「できます、できます」

  介護保険を利用するには、ケアマネジャーを決めるほか、「要介護度」を7つのレベルから認定してもらう必要がある。認定のための調査は、市町村から派遣された調査員が行う。

 母もその調査を受けた。手を挙げる・足踏みをするなどの基本動作や、排泄・入浴・食事などの生活動作、認知や記憶力について、実際に動いて見せたり、質問に答えたりして、ひとつひとつ確認していく。約30分の調査だった。

 毎日の生活が立

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2015.6.10 「ひとまず、安心」

2015.6.10 「ひとまず、安心」

 母の負担を減らすためには、共に暮らす家族に、母に頼らず生活してもらわねばならない。父は糖尿病で、定期的な通院や毎食前のインシュリン投与を必要としていた。これらは全て母頼みだったため、低血糖で倒れるリスクが高まっていた。足が悪い父がひとりで通院すると、薬局に薬を取りに行けないことも問題だった。

 そこで、既に叔母がお世話になっているA医師に父の往診も依頼した。同時に、かかりつけ薬局を決め、薬や医

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2015.6.23 「いたくてダメだ」

 6月22日、母から電話があった。しんどくて叔母の世話ができないと。いくつかの買い物を引き受け、明日の午後向かうと約束した。

 翌朝。「いたくてダメだ。救急車を呼びたいくらい。」とメールが入った。私は午前中の予定をキャンセルし、すぐに実家に向かった。

 実家では母が体を縮めるように横になっていた。動くと痛みで冷や汗がでてくる。これは普通ではないと思った。処方されている痛み止めを探して飲ませた。

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2015.6.24「病院で検査を受けましょう」

 翌日も実家へ向かった。母は、首の痛みと足の痺れとが続き、痛みに疲れた様子だった。

 その日は、A医師の往診日だった。2週に1度、叔母と父がお世話になっていた。叔母の診察が済んだ後、パジャマ姿の母を見てA医師が「どうされたのですか」と話しかけた。 

 母は、5月の初めに首を痛め鞭打ちと診断されたこと、一月以上経つのに治らず、ここ数日で痛みと痺れが増したことを話した。私は横から、冷や汗をかくほど

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2015.6.24「ご主人と妹さんも」

 ケアマネジャーから、介護認定調査の結果、母は「要支援」になりそうだと連絡があった。介護認定は大きく「要支援」と「要介護」のふたつに分類できるのだが、「要支援」になると地域包括支援センターと本人とが契約を結び、ケアマネはセンターの委託を受けて動くことになるらしい。なんともややこしい制度である。

 サービス手配のためになるべく早く契約を結ぶ必要があるとのことで、地域包括支援センターに電話をすると、

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2015.6.26 「がんの転移による骨折です」

 K病院の受診予約は運良く2日後に取れた。

11:00 診察

11:30 レントゲン撮影

13:00 CT撮影

14:30 血液採取

16:30 MRI撮影

 長い1日だった。検査が終わる度に次の検査が追加された。病院の中を車いすで行き来することも、痛みを抱える母には限界だった。午後にはひと気のなくなった外来診察室を借り、横になって待った。私は検査のたびに最優先、最大限の配慮を受けると

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2015.6.27 「晴れたのね」

2015.6.27 「晴れたのね」

 母はK病院に入院した。簡単な検査を済ませて病室に入ると、主治医から首の骨を保護するためのカラー装着と絶対安静を言い渡された。その後、担当の看護師、薬剤師からオリエンテーションがあった。がん原発部位を特定するための検査は週明けから始まるとのことだった。

 一段落して私は病院の食堂へ向かった。母もほっとしたのか、カラーを外してベッドに正座していると、主治医が来て「カラーは常時装着」「絶対安静とは横

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2015.7.12 「なんで私が。」

 整形外科に入院して2週間後、医師から説明があるとの連絡を受け、母と面談室に向かった。主治医の横には外科の医師がいた。

 彼は、胃カメラの画像を見せながら、スキルス胃がんであること、手術では直せないステージであることを告げた。その鮮やかながんは、ほんの少し残った正常な部分と比較すれば、素人目にも病状が深刻であることを示していた。

 母は「なんで私が。間違いでしょう?」と小さく叫んだ。医師は「そ

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2015.7.12 「余命2ヶ月です。」

 混乱する母に看護師がつきそい病室へ戻る。残された私に医師が「非常に厳しい状況です。」と告げた。余命は2ヶ月とみており、抗がん剤が効いたとして延命できるのは2ヶ月であること。高齢で体力がないため、とくに点滴の抗がん剤による副作用に耐えられない可能性が高いことが告げられた。

 「楽に死ぬつもりが、苦しむというのではおかしい。何のために治療をするのかわかりません。残された時間を穏やかに過ごすために、

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2015.7.13 「どう理解されていますか。」

 抗がん剤に挑戦する道、しない道。どちらが良いのか。母は生きようとして抗がん剤を選ぶだろう。その希望を奪うのは酷だと思った。

 ひとりで抱えきれなくなった私は、K病院のがん相談窓口を訪れた。突然の相談だったが、専門の看護師が快く受け入れて下さった。

 事情を話すと、「昨日の先生のお話をご自身が理解された通りにお話いただけますか?」と言われた。看護師はカルテの内容と私の話とに齟齬がないか確認して

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