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【分野別音楽史】#02「吹奏楽史」

『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。

ここまでの記事

#01-1「クラシック史」 (基本編)
#01-2「クラシック史」 (捉えなおし・前編)
#01-3「クラシック史」 (捉えなおし・中編)
#01-4「クラシック史」 (捉えなおし・後編)
#01-5 クラシックと関連したヨーロッパ音楽のもう1つの系譜

5回にわたってクラシック史をまとめてきましたが、今回は吹奏楽史をまとめていきたいと思います。実質、これもクラシック史と近い分野でもありますが、これまで書いてきた通りクラシック史のとる立場というのは特定の視点から見たものであり、今回の系譜とは切り取る観点が全く異なるため、今回はクラシック編とは分けて「吹奏楽史」とします。


過去記事には クラシック史とポピュラー史を一つにつなげた図解年表をPDFで配布していたり、ジャンルごとではなくジャンルを横断して同時代ごとに記事を書いた「メタ音楽史」の記事シリーズなどもあるので、そちらも良ければチェックしてみてくださいね。


◉中世~ルネサンス

吹奏楽・ブラスバンドに繋がる系譜として、まずはヨーロッパの軍楽隊の歴史を追っていくことになります。そしてその源流は、オスマン帝国(トルコ)の軍楽隊まで遡ります。

そもそも中世の時代のヨーロッパ地域は辺境の田舎であり、文化の中心は中東地域のアラブ・イスラム圏でした。13世紀末から勢力を拡大したオスマン朝は1453年に東ローマ帝国を滅ぼしました。オスマンの常備軍(カプクル,
イェニチェリ)において発展したのが「メフテル(オスマン軍楽、トルコ軍楽)」で、その軍楽隊のことを「メフテルハーネ」といいます。

古代から続く西アジアの音楽の伝統と、中央アジアのテュルク民族の太鼓による軍楽を受け継ぎ、ラッパや太鼓による勇壮な行進によって士気向上や威嚇、さらには平時の宮廷での儀礼などにも用いられました。

その楽器は、チェヴギャン(鈴のついた杖)、キョスやナッカーレ(ティンパニの元祖)、ダウル(太鼓)、ズィル(シンバル)、ズルナ(チャルメラ)、ボル(ラッパ)などがあります。

ズルナはオーボエやファゴットの原型となり、ボルはトランペットの原型となりました。

11世紀から13世紀にかけては、十字軍とトルコ軍の戦いが起こっており、14世紀以降もヨーロッパ諸国はオスマン帝国としばしば交戦しました。その度にメフテルハーネの効果に驚愕したと言います。そうしてルネサンス期になると、ヨーロッパでも戦争に太鼓が採用されるようになりました。鼓手は突撃・撤退・警報・防衛など、戦争での様々な合図を担い、鼓笛隊は高い地位を得ていました。



◉17世紀

17世紀以降、特に急速にヨーロッパでの軍楽隊の整備が進展していきました。

イギリスの清教徒革命では、王党派・議会派の双方のプロパガンダを歌詞に持つ行進曲をそれぞれの軍隊に演奏させ、「音楽戦争」の形相を呈したと言います。チャールズ2世がフランスへ亡命した後、王政復古により帰国し、その後再び亡命したり、などという流れの中で、フランスとイギリスの音楽の交流も起こりました。王宮のためのロイヤル・ミュージックというべき分野ではジョン・アドソン(1587~1640)、マシュー・ロック(1621~1677)、ヘンリー・パーセル(1659~1695)らが活躍。

絶対王政下で宮廷文化が花開くフランスでも、ルイ14世らが本格的なオーボエバンドを編成したと言います。

当時のフランス王宮では主に3つの音楽グループが確立されていました。

●宮廷礼拝堂楽団・・・オルガニスト、聖歌隊など
●宮廷室内楽団・・・ヴァイオリン中心。夜会や会合、王の食事のBGMやバレエ・オペラなど。
●大厩舎音楽隊・・・吹奏楽に近い。野外の祝宴や式典などで演奏。

ここでは、リュリ(1632~1687)、クープラン(1668~1733) ラモー(1683~1764) らが活躍しました。



◉18世紀

ドイツでは18世紀初頭以降、隊列行進が行われるようになり、行進曲の需要が高まりました。

イタリアではヴィヴァルディやスカルラッティが活躍中のころ。

クラシック音楽としては、バロック初期のリコーダーを中心とした古い木管楽器アンサンブルは廃れ、急速に発展した弦楽合奏が地位を持つようになります。管楽器の活用のされかたはというと、トランペットはソロ楽器として使われてはいましたが、その後は王宮にて室内楽的な風潮が強まり、木管楽器(新型のフルート、クラリネット、オーボエ、ファゴット)が台頭していきました。

その後フランスで1762年に、国の費用による16人の軍楽隊が編成されます。それまでは王や将校の個人的資金によるものだったバンドが、これを機に公共的性格を持つようになります。

さて、トルコ軍は16~18世紀の間もウィーンとたびたび衝突していましたが、それによってメフテルからの影響を受け、ヨーロッパに小太鼓、大太鼓、シンバル、トライアングルなどといった多くの打楽器をもたらします。18世紀末になると各種楽器の改良・発明も進み、こうして徐々にヨーロッパ軍楽が大編成化していきました。この地点では現在の吹奏楽に比べると「鼓笛隊」の状態であり、金管楽器が未発達でした。細かい音が吹けない金管楽器はファンファーレとして用いられ、一方の木管楽器は音量が小さい、という楽器の限界が存在していたのです。

また、このころモーツァルトやベートーヴェンによる「トルコ行進曲」に見られるように、トルコ軍楽の影響を受けたクラシック作品も流行しました。

ここでいう「影響」とはどのようなものか、が解る興味深い動画を以下に貼っておきます。





◉アメリカ独立戦争/フランス革命

アメリカ独立戦争(1775~1783)を経てイギリスから独立を果たしたアメリカですが、独立戦争の前後では「ヤンキー・ドゥードゥル」などの愛国歌が人気となりました。「ヤンキー・ドゥードゥル」は200種に及ぶ替え歌があるといわれていて、日本では「アルプス一万尺」として知られている曲です。

独立後の1783年にマサチューセッツ・バンドが設けられ、さらに1798年には海兵隊バンドが設置されました。

この2バンドを軸として、アメリカ吹奏楽史が展開していきます。


一方、ヨーロッパ大陸では、1789年からフランス革命が始まります。それまでのブルボン朝の宮廷に仕えてきた多くの楽士は失業してしまいますが、共和国政府は楽士を集めて国民軍楽隊を組織し、フランス革命の精神を鼓舞しました。当時24才のベルナール・サレット(Bernard Sarrette, 1765~1858)の指示のもと、45名という当時異例の大編成が採用されたのは野外の演奏でも大音量を出すためであり、これによって革命の精神を多くの人々へ伝えていったのです。パリに編成されたこのフランス軍楽隊から、ヨーロッパにおける近代吹奏楽の発達がスタートします。

指揮はフランソワ=ジョセフ・ゴセック(1734~1829)、副指揮者はシャルル・シモン・カテル(1773~1830)。この軍楽隊は予算上の都合で解散してしまいますが、その後1792年に、サレットはそのまま音楽学校を組織します。1795年には古い王立唱歌学校と合併し、これがパリ音楽院となったのです。学長となったゴセックの作品は、現在でも広く演奏されています。



◉19世紀 ― 英国式ブラスバンドブーム

19世紀に入ると、さらに金管楽器が発達していきました。特に、1840~50年ごろ、ベルギーのアドルフ・サックス(1814~1894)とドイツのテオバルト・ベーム(1794~1881)によって楽器の改良が進められ、トランペットの演奏表現のバリエーションが増加したり、チューバ、フリューゲルホルン、ユーフォニアム、サクソフォン属といった新楽器が誕生し、軍楽隊の編成にすぐさま取り入れられました。このような金管楽器の主な材料が真鍮ブラスであったため、金管楽器と打楽器のみで編成されたバンドをブラスバンドと呼ぶようになります。

この時代に巻き起こった数々の紛争や革命とともに広まっていき、管楽器のサウンドは人々にとって身近なものとなったのでした。特にイギリスでは民間のブラスバンドも発生し、労働者階級の間で各種のコンテストが行われるようになり、これによって編成が画一化していきました。その編成を英国式ブラスバンドと呼び、一般的なブラスバンド編成となったのです。

この英国式ブラスバンドのありかたはアメリカ合衆国にも影響を与え、ブラスバンドブームとなっていきました。1848年、イギリスからアメリカへギルモア(1829~1892)がやってきます。ギルモアは、軍楽用ではなくコンサートによる活動で収入を得るビジネスバンドを育てました。これにより、アメリカ音楽の新しい局面となります。工業力の発展で楽器の大量生産も可能となりました。

アメリカ独立後に設立し、アメリカ吹奏楽の軸となっていたマサチューセッツバンドは、1812年にはグリーン・ドラゴン・バンド、1820年にはボストン・ブリガードバンド、と名が変わっていましたが、1859年にギルモアのバンドとなります。

1861年~1865年、アメリカ南北戦争が勃発。戦争中も、北軍・南軍の両方で、多くの民謡・愛国歌・賛歌が流行し、士気を高めました。ギルモアは北軍の軍楽隊を編成する仕事や、委員会の結成などで忙しくなります。

そんな中でギルモアは、軍楽隊をみな集めて大合同フェスティバルを開くことを思いつきます。ニューオーリンズのゼネラル銀行をスポンサーにして、500名の軍楽隊員に多数の打楽器とビューグル(軍楽ラッパ)を加え、さらに5000人(!)の合唱団をつけたグランドナショナルバンドを編成しました。1864年3月にニューオーリンズのラファイエット・スクエアにてこの演奏会を開き、フィナーレには36門の大砲を加えるという大仕掛けのものとなりました。

※南北戦争前後でニューオーリンズでこのような金管楽器の音色が響き広がったことが、南北戦争後のニューオーリンズジャズの発生の一要因となって影響したとも考えられるでしょう。

このころ、ブラスバンドのコンテストはヨーロッパ各地で開催されていおり、1867年にパリで開かれた各国の軍楽隊コンテストには、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシア、スペイン、ベルギー、バーデン、オランダ、バヴァリアが参加し、審査員にはクラシック音楽論壇の中心人物だったハンス・フォン・ビューローやハンスリックも参加していました。


◉19世紀末~現在

さて、南北戦争後、アメリカではギルモアの次の世代としてジョン・フィリップ・スーザ(1854~1932)が発展させていきます。海兵隊バンドの隊員から産まれたスーザは、1880年、26歳で同バンドの指揮者となり、同バンドを一流のバンドに仕立て上げました。

スーザの功績は以下の3つです。

①レパートリーの充実。
大量の楽譜をヨーロッパから取り寄せ、当時の大作曲家、ワーグナー、チャイコフスキー、グリーグらの作品を取り上げて演奏し、技術向上に貢献した。

②数々のマーチを作曲。
現在にまでのこる行進曲の名曲を次々に作曲し、レパートリーに加えた。
(「星条旗よ永遠なれ」など)

③編成の改革
現在の吹奏楽の標準的な編成をつくりあげた。

南北戦争が終わり、開拓に打ち込んでいた時代。サーカスの人気などにみられるように、人々はさらなる娯楽を求めていました。そこでスーザは、展覧会、博覧会、フェスティバル、地方の催しなどにバンドの需要を見出し、有料コンサートを開いて商業化を進めていきました。

このような功績により、スーザは「マーチの王」と呼ばれています。


1892年9月24日にギルモアが死亡。奇しくも、その2日後の9月26日にスーザ吹奏楽団の第一回演奏会が開かれ、ここから20世紀にかけてアメリカ吹奏楽は完全なるスーザの時代となりました。


その後、第一次世界大戦を過ぎ、吹奏楽ビジネスバンドは徐々に消えていきました。世界の覇権を獲ったアメリカでは新たなメディア文化・音楽文化が花開いており、管楽器奏者たちは、放送関係や映画音楽、ジャズバンドへと収入の道を変えていきました。

一方で、クラシック音楽と同じく、吹奏楽は学問化・ハイカルチャー化していき、スクールバンドの文化が根付いていました。こうして、吹奏楽・ブラスバンドの音楽は根絶することなく、現在まで至ります。

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